しかしこのままではまずいと思ったのか作者は急遽登場させることを決定したようだ。だから存在しない記憶が溢れることになるかもしれないと作者が言っていた。そういう訳だから、よろしく頼む。
「それじゃ、次はお昼のトレーニングね」
「ええ、お疲れ様」
トレノさんとのトレーニングを終えて寮へ帰る。4月も下旬だけれど少し熱っぽいわね。シャワー、うるさくないかしら。そんな心配をしながら玄関を開ける。
「お帰り、そろそろだと思って浴室の電気は付けてある。ゆっくり入ってくれ」
「あ、ドゥラメンテさん。ありがとうございます。けど、こんなに遅い時間に私の為に起きて下さったんですか?」
「これも寮長の務めだろう。前任のアマさんもそうしていたはずだ。君はそこまで体が強くないと聞く。私の事はいいから行ってくるといい」
「すみません、ありがたく使わせていただきます」
ドゥラメンテさんの気遣いのおかげで心置きなくシャワーを浴びて湯船に浸かることも出来た。しかし長風呂で残り少ない睡眠時間を頂く訳にはいかないので最低限にとどめておく。
「む、もういいのか?」
脱衣所の扉を開けると彼女が座って待ってくれていた。
「はい。あまり長風呂してもよくありませんから」
「そうか。どうだった?トレノのトレーニングは」
「凄かったです。なぜあの人がステイヤーとして活躍で来ていたのか、その片鱗を味わいました。現役を引退してなお、普段のトレーニングからあれほど緻密なペースコントロールをしているなんて驚きました」
「彼女はああ見えてストイックだからな。だが、君ならついて行けるはずだ」
「はい。確かに今は届かないかもしれない。でもいつか、必ず勝って見せます!」
「君らしいな。トレノも張り合いがあるだろうな。だが、彼女の天然は君も気を付けた方が良い」
「天然ですか?」
「ああ。時々力の抜けるようなことを言うかも知れないし、こちらの常識を簡単に飛び越えることをする。要するに、ふり幅が凄いんだ。君もいつか度肝を抜かれるかもな」
トレノさんが天然だと言うのは噂程度には聞いていたけれど同期のドゥラメンテさんがここまで言うとは相当なものなのかもしれない。これまで話していた感じ、そう感じる場面は無かったのだけど。
「だが、君の力になってくれるはずだ。これから厳しい日々になると思うが頑張ってほしい」
「はい!トレーニングに負ける気はありません!トレノさんにだって、貴方にだって勝って見せますから!お風呂ありがとうございました!」
お礼を言って自分の部屋に戻る。出ていく時みたいにブラストを起こさないようにしないとね。
「ヤッホートレちゃん!調子はどう?」
「まぁ順調かな。そういうナナはどうなの?ララちゃんはオルフェさんに認められそう?」
「まだまだかなぁ。気になる事はあったけど。トレちゃん、なんか一発ギャグとか無い?」
「無い」
「じゃあ何か考えて」
「ヤダ」
突然要求された無茶ぶり。何故私が一発ギャグを常備してると思ったのだろう。けど顔は真剣なんだよなぁ。ルドルフさんに電話してみようかな。URAの仕事で忙しそうだけど。
「昨日の放課後もオルフェさんと走ってたんだけどやっぱり駄目だったんだ。それで落ち込んでるララちゃんの気を紛らわせようと手を振り回しながらこう言ったの」
『どうかしはったんですか?』
『いや、ハエがはえ~なって』
『…せやねぇ。中々捕まりませんからねぇ』
「その時にララちゃんにちょっとした間が生まれたんだ。だから一発ギャグ関連で何かあると思ってちょっと考えてたんだ。という訳で何かない?」
「うん、私はナナの発想力に脱帽を隠せないよ」
今の話を聞いた私の感想は『そんな訳ないやろ』…だ。でもナナの観察眼には本質を見抜く力がある。絶対そんな訳無いと思うけど取り敢えずちょっと協力してあげよう。
「じゃあ…ナイスネイチャさんと掛けましてボクシング選手と解く」
「ほう、その心は?」
「コブシを効かせているでしょう」
「上手い!…じゃないよ。それなぞかけ。一発ギャグは欲しいの!」
「一発ギャグって難しいんだよ?マッスルフォーみたいな感じのやつって奇跡のクオリティであって」
「ダジャレでもいいから!ダジャレを言ってるのはダレジャとか屋根から落ちちゃった、やーねーくらいのでもいいから!」
あるじゃん。今自分で言ったじゃん。それをララちゃんに言ってみればいいじゃん。ナナにせがまれて困りに困っていたところでコンコンとドアがノックされる。
「どうぞ~」
「お待たせ、トレノさん。外から色々聞こえていたけどお邪魔だったかしら」
「いや、ちょうど良かったよ。とりあえずナナを引っぺがすの手伝って」
アイちゃんがちょっと手こずりながらナナを向かい側の長椅子に座らせる。私のなぞかけとかナナのダジャレがはっきりと聞かれてなければいいけど。
「それじゃ、トレーニング行く前にこれだけお願い。担当契約の契約書。たづなさんに出してくるよ」
デスクから担当経書を取り出してポールペンと一緒にアイちゃんに渡す。それを受け取ると先まで私が座っていた長椅子に腰掛けさらさらと名前を書いていく。
「トレちゃんちょっと待って。いつどのタイミングでそこまで進展したの?」
「今朝のトレーニングの時にアイちゃんに担当になってほしいって言われたんだ。新人だからって一回断ったんだけど…まぁ、成り行きでね」
「けど、貴方だけなのよ?わたしのレース人生を任せられると思ったのは」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど。足りないところがあったら何でも言ってね?出来るだけ改善していくから」
「ええ。その代わり、トレノさんも遠慮しないで。お互い、加減は無用よね!」
アイちゃんが契約書を渡してくる。これを出せば晴れて担当契約が結ばれる。榛名の事を考えれば、順調すぎる滑り出しだ。怖いくらいだ。本人が聞いたらまず間違いなくブチギレるだろうな。
「よ~うトレノぉ!遊びに来たぜぇ」
「何でこう変なタイミングで来るの。あと一応聞くけどどうやって学園に入ったの?」
「顔パスに決まってんだろ」
安心と信頼の顔パス。なんだか相葉さんに似てきた榛名。しっかしタイミングが悪い。しれっと逃げよう。
「来てくれた所でごめんだけど用事があるからちょっと外すね。適当に掛けといてよ。直ぐに戻ってくるから」
「あいよ~…んんん~~~~?」
榛名が通せんぼして私が持ってる契約書をじっと見ようとする。その目線から契約書を外すと追って来たのでひらりはらりと躱していく。
「トレちゃんそこのアーモンドアイって子と担当契約結ぼうとしてまーす!」
「なにぃ!?」
最悪の援護射撃である。引っぺがすのではなくナナの部室まで追い出しておくべきだったかもしれない。
「なぁおい冗談だろ?俺が30分必死こいて追っかけたあの苦労をお前は体験しなかったのか?」
「しないで済むならそれがいいでしょ…」
「やだー私と同じ苦労味わってよー!トレノちゃんも謹慎食らってよー!」
「んな滅茶苦茶な…」
その場で暴れ狂って収拾がつかなくなる。なりふり構っていないのか口調がトレーナー時代に戻ってる。どっちが素なのかもう分からない。
「と、取り敢えず出しに行ってくるから待っててよ」
「はぁ~…分かったよ。…その前にトレノ」
「あ、戻った。どうしたの」
「良いのか。アイとお前じゃタイプが違い過ぎるだろ」
「見ただけで分かるんだ」
「元トレーナー現役レーサー舐めんな。それ位なら分かるよそれで、良いのか?」
私の懸念していたことを言い当てられた。正直、それもあってアイちゃんを避けてきた節もあるから。けど答えは決まっている。
「言ったでしょ。私の意気込みは挑戦だって。私のテクニックが正統派のアイちゃんにどこまで通用するのか。試してみてもいいんじゃない?それにその言葉、そのままお返しするよ」
「それもそうか。ま、頑張れよ」
「アイツに担当かぁ…早くね?」
「そうなんですよぉ。私もトレちゃんに先を越されるとは思いませんでしたし」
「だよなぁ」
それだけの年月が経ったと感慨深くなっているとアイがポカンとしていた。
「っと、悪い。置いてけぼりにしちまった。渋川榛名、トレノの元トレーナーだ」
「あ、はい。よろしくお願いします。なんだか聞いてた話と違いますね」
「聞いてた話?ナナ、どんな話したんだ?」
「いや私は何にも」
「噂ですよ。ハンドル握ると人が変わるって聞いてたので普段はおとなしい方だと思ってました」
「あぁ、そういう。トレーナーやってる時はだいぶ口調を矯正したからそのせいもあるかもしれん。大体はこっちだ」
「そうなんですか。それで、渋川さんはどんな用件で来たんですか?」
「言っただろ?遊びに来たって」
そう言って部屋の隅の棚の奥を漁る。確かこの辺りに…あったあった。
「人生ゲームー。やろうぜー」
「懐かしいですね、負けませんよ!」
この後、アイに完膚なきまでに負けた。