「それじゃ、早速だけど紙コップ乗せて走ってもらうよ。今朝のペースで走って零さないようにすることが当面の目標にしていくからね」
「了解よ。その前に、零さないコツはあるかしら?」
「そうだなぁ。多分だけどコップの中で水を回す感じだと思うけど。何故かいる榛名、どう思う?」
「合ってると思うけどなぁ。やったこと無いから分からん。今日やってみるから明日教える」
「了解。という訳だから今日はさっき私が教えて感じでやってみて」
「ええ、行ってくるわ」
紙コップを装備してアイちゃんは走り出す。それを眺める私と何故かいる榛名。担当契約書を提出して帰ってきたらボッコボコに負けてたのにまだいることに少し驚いている。
「どう?榛名から見てアイちゃんはどう映る?」
「速いねぇ。すでに完成の域に達してると言ってもいいだろ。でもまぁ確かにお前の言う通り、所々が雑っていうのも分かるな」
「デビュー前の私よりは全然ましだと思うけどなぁ。アイちゃんが紙コップ初めて付けた時なんて半分も残ってたんだよ?十分な気もするけどね」
「ほーん。所でよぉ、アイツの脚質って分かってんの?」
「まだ何とも。模擬レースの記録を洗ってみた感じ先行が濃厚だけど」
「…お前大丈夫か?」
「多分」
私自身追込メイン逃げサブだから先行ポジションでレースを展開したことが無い。自分自身の経験から教えてあげられることは少ない。けれど応用が利かない訳じゃない。それなら何とかなるはず。
「実戦経験積ませたいなら俺が後ろから突っつきまわしてやるけどどうだ?」
「何やらかす気?アイちゃん免許持ってないよ」
「いやMFGのテスト区間使えば大丈夫だろ。人さえ集めればある程度サマにはなると思うけどな。お前もどうだ?たまには公道攻めてみねぇか?」
「やらないよ」
軽くあしらいながらアイちゃんの様子を見る。やっぱり苦戦してる。ゆっくり走っても基礎が出来ていなければバシャバシャ零れるようなトレーニングだから一筋縄じゃいかないのは分かっていた。デビュー自体はすぐに出来るだろうけど、アイちゃん嫌がるだろうなぁ。
「ハァ…結構零しちゃったわ」
「4割って所かな。良い感じじゃないかな。今話すことじゃないんだけどさ、アイちゃんさえ良ければデビュー戦を1カ月後くらいに設定したいんだけどどうかな?」
「いやよ!まだ零さないで走れるようになってもいないのにデビューなんて出来ないわ!出来るまでは絶対デビューしないわよ!」
「うん、言うと思った。アイちゃん、帽子貸して。お手本になるか分からないけど、一本だけ前を走らせてもらうよ」
放置していても5カ月もあれば問題なく習得できるはずだけど、お手本だけは示しておきたい。それに1度見るだけでも理解度に大きな差が出ると思うし。
「お言葉に甘えさせてもらうわ。形式はどうするの?」
「模擬レースにしようか。3コーナー入ったら自由に仕掛けて貰っていいよ。私としても先行の走り方を知りたいから本気で来て欲しいな」
「良いのね?なら、負けないわよ!」
「やっぱ併せの方が良かったかな」
そんなことをぼそりと言いながら帽子をかぶって榛名に紙コップをセットしてもらう。これをやるのも何年ぶりなんだっけ。確か入学してすぐにスぺさん達の前でやったのが最後かな。突然不安になってきた。けどやるしかないよなぁ。
「それじゃあ行くね。見て欲しいのは荷重の移り方、それに伴う体の使い方かなぁ。なぜ水が零れないのか、なぜそうなるのか考えながら走ってみて。それじゃ、行くよ!」
「お願いします!」
私の走り出しに合わせてアイちゃんも走り出す。変に気負う必要はない、普通に走ればいいだけだ。1コーナーに入って頭が濡れないことを確認する。良かった、出来た。アイちゃんなら後ろから見ているだけで直感的に何が違うのか気付けるはず。
コーナー立ち上がって直線に入ったタイミングでアイちゃんの位置を確認する。私から2バ身後ろか。アイちゃんがどこで仕掛け始めるのか。私としては、そのタイミングも計っておきたい。さて、3コーナー突入。軽めに減速して突っ込んでいく。すると後ろからのプレッシャーが強くなるのを感じる。
「さぁ、行くわよ!」
先行にしては早仕掛けのような気もする。しかしあの自信、持つだろうな。私はスパートを掛けられないとはいえ、少しずつ進出してきている。いくら現役退いたとはいえ、コーナーで負けるのは些か悲しいものがある。変に意地はってもハンカチダメにするだけだし目的は果たせている。このまま行かせてあげよう。
「…!流石、やるわね!」
「?」
アイちゃんが一時的、ほんの一瞬だけ離れ、また少しずつ詰め始める。あの子に限ってスパートを途中で止めて再開するなんて意味不明な事をやるわけがない。何が起こったの?
「逃がさないわ!」
「へぇ、まだ出来るのか」
まただ。少し離れた。アイちゃんが何か不思議な事をやってるとしか思えない。リードは変わらず2バ身、もう4コーナーを抜ける。直線じゃ分が悪いし、これで終わりかな。悠々と私をパスしていくアイちゃん。ふーむ、何をやってるのかちょっと聞いてみようか。
「くうぅぅぅ…負けたわ!コーナーのアプローチが早朝トレよりも凄かった。スパートを掛けても離されてしまったもの!」
「それなんだけどさ、途中でスパートを止めて再開したのはなんで?コホッ、何かそういう論文でもあったの?」
「そんな意味ない事するわけないわ。それにそんな論文もある訳ないじゃない。貴方がペースを上げたんでしょ?」
「そんなことしてないけど…」
「いや、アイの言う通りだ」
榛名が割って入ってくる。2人して私がペースを上げたって言うけど、体のことを考えるとスパートなんて掛けられない。朝よりペースを上げるのは以ての外だ。
「正確に言えば、一時的にスパート掛けてるだけだ。コーナーの節で一瞬だけ加速したんだ。普段無意識にやってることだから今回も自覚が無いんだろ」
「天然の力なのかしらね」
「そういうものかな~…話を戻して、どうだった?何か掴めた?」
「本題はそこだったわね。ええ、ばっちり掴めたわ。忘れないうちにもう1本走ってきていいかしら。その後に所感をノートにまとめるつもりよ」
「おっけ、行ってらっしゃい」
帽子を渡すと押し出されるように走り出していく。走りがどのように変わるのか、見ておかないと。
「ほれトレノ、タオル。…ほぉ、スゲェ吸収力だ。スポンジみてぇ」
「ホントに凄いよね。負けず嫌いが高じてるのは分かってるけど、ここまでとは思わなかった。あの1本だけでここまで改善されるとは」
汗はあまりかいてないけどコーナリングが少し良くなった。滑らかになったというか、エントリーから立ち上がりまでの繋がりが良くなった。想定よりも2ヶ月早くモノにできるかもしれない。
「そういえばさ、タオルくれるのはありがたいんだけど、あんまり汗かいてないよ?」
「そっちにも気づいてねぇのか。耳の辺り触ってみろ、濡れてっから」
触ってみると確かに湿っていた。零した感触は無かったけれど、2人にスパート掛けてたって言われた時なのかな。お手本を見せると言っておきながら僅かでも零してしまっていたとは。やっぱり鈍ったのかな。
「ハァ!」
けど、担当の成長につながったのなら、まあいいかな。