「それって、スタートしたら1回スパートを掛けるって事ですか?」
「まあそんな感じだね。でも注意点、コーナーに侵入する前に先頭と並んだらその時点で後ろに下がって。コーナー前に並べなくても下がって。」
「それは…どういう意味ですか?」
少し考えてもその真意が分からなかった。前に出てわざわざ後ろに下がる理由が分からない。それだったら最初から後ろにいた方が良いんじゃないのかと思う。
「ダービーほどのレースになればギリギリを攻めるクレバーさが大事になってくる。ゴールをハナ差で掠め取るくらいのクレバーさがね。先頭まで並ぶ理由はそこまでにかかる時間を計るため。」
「そこまでにかかる時間?でもそんなの計ってどうするんですか?」
「例えば並ぶまでに7秒かかったとする。そしたらスパートを7秒…いや8秒前倒しする。10秒なら12秒くらい。トレノちゃんの超ロングスパートならどうにかなるはず。」
「成程、結構トリッキーな作戦ですね。決まれば効果は大きそうですけど、決まらなかったら?」
ここまで用意周到な作戦ほど、決まらないことが多いって聞いたことがある。
「決まらなかったら…負ける。」
「!」
「それ位、シビアなレースになるかもしれないって事。相手の成長具合、こっちの落ち度、何か一つでも欠けたら負ける。」
「まさに絶望的ですね。」
何か一つでもミスしたら唯一あるかないかの勝ち筋が無くなると思うとぞっとする。でも不思議と簡単に心構えが出来た。
「でも、私たちが有利だったレースは今まで1回も無かったですもんね。」
「思い返せばね、タマモクロスちゃんとの模擬レースから今まで不利を承知のレースしかしてなかったよね。…よぉし!俄然燃えて来たぁ!」
「私は今にも逃げ出したいですよ。そっちの方が楽ですし。」
「はいぃ?」
つい口から出たぼやき。これは本心であることは確かだ。でも同時にこの思いも本心であると確信する。
「…でも、絶対に逃げちゃいけないとも思うんです。ここまで来たらとことんやってやりますよ。」
「よし来た!それでこそトレノちゃんだよ!本格化前のウマ娘が本格化してばりばりに成長したウマ娘に勝つ、今までもそうだったけどこれほど気持ちいいことは無いよ!」
「いや私は一刻も早く本格化を迎えたいんですけど?」
「とにかく!やれることは限られちゃうけどダービー、絶対に勝つよ!」
「はい!」
「本格化…してないですって?」
ギャアァァアアア
「これほどの高速域になると、やっぱり安定感がなぁ。ウィングとカナード入れて安定させないとMFGじゃ戦えないな。」
トレノちゃんのトレーニングと並行して箱根ターンパイクにてインプの仕上がりをチェックしている。いくら何でも秋名で走る装備そのままで走るわけには行かないから。
芦ノ湖GTは小田原より直線が少ないとはいえそれでも高速ステージであることには変わりない。基本中低速の峠よりも空力を考えないといけない。
今現状、ウィング、カナードを付けてない。そもそも必要になった事が無いからね。
「足のセッティングも細かくいじらないとかぁ。ボディ剛性も考えればロールバーも必須…暫くは寝不足かなぁ?」
「「ふぁあ~。」」
昨日の意気込みは何だったのか。いざトレーニングになった時に2人揃って欠伸する始末。
「トレノちゃん、昨日ちゃんと寝た?ちゃんと寝ないと成長出来ないし何よりお肌に悪いよ?」
「私は朝練やったりでかれこれ6年くらい前からこんな感じです。渋川さんこそ眠そうですよ?」
「私はトレノちゃんのトレーニングを考えたり箱根走ったりパーツ発注したりでそれはもう大変なんだから!」
「後半ただの私用じゃないですか。真面目に働いてください。」
「ふぐぅ、心にかかと落としがぁ。じゃあとりあえず…。」
「榛名、ちょっといいかしら。」
渋川さんが何か言おうとしたタイミングで東条さんが言葉を遮るように話しかけてきた。
「トレノちゃん、ちょっとだけ失礼して良いかな?」
「分かりました。戻ってくるまで適当にトレーニングしてるので私の事は気にせず。」
「ゴメンね。…何かありました?」
「ここだとちょっとね…トレーナー室までいいかしら。」
「流石にそんなに空ける訳には…」
東条さんも何やら深刻そうな顔をしている。それなりに重要な話なのかもしれない。それだったらそっちを優先してもらった方が良い。
「気にしなくて大丈夫ですよ。何年1人で走ってきたと思うんですか?」
「確かに…じゃあゴメン、すぐに戻るね。」
「わざわざ場所変えてまで、本当に何があったんですか?」
「貴方達の事よ、本格化も迎えてない状態で本当にダービーに挑むの?」
「ちょっ!?どこでそれを!?」
本格化の事はトレノちゃんとの秘密事項だった。なんで?どこから漏れたの?
「偶然通りかかった時にね、結構な大声だったから耳に入ったのよ。」
「思った100倍古典的なバレ方だった…。」
「それで、本当に出走するの?貴方もトレーナーだったら分かるでしょ?あれだあけ全力で走ったら体には相当の負担がかかるわ。本格化前となれば尚更よ。」
「それは…そうですけど。」
「栄治さんがここまで育てたんだから体の方は大丈夫なのかもしれない。でも問題なのは内側よ。肺とか心臓にももちろん負担がかかるわ。今は大丈夫なのかもしれない。でもいつか、取り返しのつかないことになるかもしれない。」
東条さんは私が目を背けていたことを掘り起こしてくる。今まで走れてきたからと言って何かの弾みで深刻なダメージを追うかもしれない。もしかしたら何の前触れもなく故障…なんてこともあるかもしれない。
「もちろん、負担がかかるのは百も承知です。限界を感じてるのは、私もトレノちゃんも同じです。半分私の我儘かもしれませんけど、トレノちゃんが出たいっていうなら、私は応えるだけです。」
「そう…だったら私も全力で行かないとね。これ以上貴方達に後れを取るわけには行かないからね。」
「いや東条さんは関係なしに容赦ないじゃないですか。手加減されても面白くないですけど。」
「ダービーはロータリーが頂くわよ。時間貰っちゃって悪かったわね。」
東条さんはなんやかんやで優しい。普通だったら自分の担当ばかり気に掛けるはずなのに、ここまで気が回るとなると頭が上がらない。ついでに宣戦布告されたけど。
「それじゃあ、私はこれで。本格化の事は他言無用でお願いしますね!絶対ですよ!」
「分かってるわよ。そんな大事な事ポンポンと言いふらさないわよ。」
「ありがとうございます。それじゃ、失礼しますね!」
榛名が部屋を出て、天井を仰ぐ。まさかあれで本格化を迎えていないとは。それでもっと皐月賞を制してしまった。もしトレノが本格化を迎えたら?
今であれだけ仕上がっているんだから上がり幅は少ない?想像を超えるくらいの化け物?いずれにしろ、厄介極まりない相手になることは間違いない。
冷や汗が出てくる。
「考えるだけで恐ろしいわね…。」
「遂に来ちゃったね、ダービー。結局本格化は来なかったけど、ここまでで出来る事は全部やってきた。勝てるはずだよ!」
「フーッ、やっぱり緊張しますよ。心臓バクバク言ってますし。でも、これは武者震いです。では、行ってきます。」
「うん!頑張って!」
トレノちゃんを見送ってパドックに来て他出走者の様子を見ておく。ここで得られる情報は大きい。何かあったらトレノちゃんに報告して対策を立てないと。
『日本ダービー、例年以上の熱気を感じます。今年のダービーは何かが起こる、そんな予感がします。まずは3番人気サトノダイヤモンドがパドックに入ってきました。』
『皐月賞では3着でしたが、1着も期待できる仕上がりかと思います。』
ダイヤちゃんは…仕上がってるなぁ。本格化っていうのはここまでとは。肌身で凄さを感じる。それに、ダービーに賭ける気概も手に取るように分かる。
「ダービーこそは…!絶対に、一族の悲願の為に!」
「俺が言うのもなんだが、そう肩ひじ張らない方が良いんじゃないか?そう固くなると実力出せなくて終わるかもしれないぜ?」
「それはそうですけど、ダービーだけは特別なんです。ロータリーさんだって同じはずです。」
「ハッ、違いねぇ。」
『2番人気、イエローロータリー。皐月賞からは1カ月半しか経っていませんがその成長を感じられます。』
えー?あそこまで成長する?エンジン載せ替えたくらいの成長じゃん。これは…少し考えないといけないかも。
『皐月賞でもそうでしたが、1番から4番人気までは人気の差は僅差なんですよね。それほど主力の4人への期待が大きいという事ですね。』
「そうですよ。あたしだってこのダービーだけは譲れません!先頭はあたしのものです!」
「そのセリフ、何だかスズカさんみたい。」
「トレーニングしてる時は大体スズカさんにしごかれてるからかなぁ。」
『4番人気、キタサンブラック。皐月賞ではペースを乱して後半失速してしまいましたが、好走を期待します。』
『3人とも恐ろしく成長していますね。今年のダービーは大波乱の予感がします。』
……頭を抱える。まだ走っていないけど何故か確信できる。タイムで言えば1秒は確実に縮んでいる。作戦を大きく変える必要が…いや、リスクが高すぎる。
即席で組み立てた作戦が通用するような相手じゃなくなっている。
「はーい、そんな中気が重い私が通りますよー。」
「普段通りに見えるがな。その寝ぼけたような顔、気が重いようには見えないぜ?」
「いや、内心ドキドキですよ。よくこんなざまで1番人気になったものですよ。ハハハ…。」
『さあ、満を持して登場しました。皐月賞ウマ娘、トレノスプリンター。堂々の1番人気…ですが、目が虚ろですね。』
『2冠目と言う事で緊張しているのかもしれませんね。』
あれは緊張ではないんじゃないか?もう万策尽きたかのようなそんな目をしている。いーなー、私もそんな目をしたいなー。
「でも、こっちだって出来る事はやって来たんです。簡単に負けるわけには行きません。」
「ちゃんといい顔するじゃねえか。それでこそ倒す価値があるってもんだ。」
「それでこそライバルです。」
「皐月賞は譲りましたけど、勝つのは…。」
「「私です!」」「あたし!」「俺だ!!」
4人は掛け声のように勝利宣言をするとパドックを後にしていく。トレノちゃんは諦めていない。それだけは確かだ。出走までにはまだ時間はある。
それまでに、何か打開策を考えないと!
よく考えたらこの作品初投稿から半年も経ってるんですね。月日が経つのも早いですね。
ここまで続くとは自分でも驚きです。
くそが!書くことがねぇ!日常で特にこれと言って何も起こってないせいで近況報告すら出来ねぇ!
次回までには何か書くことを見つけてきたいと思います。
また次回!