頭文字D プリティーステージ   作:サラダ味

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第六十七話 最悪の日

瞬間、トレノは理解できなかった。途端に咳き込み、その手にまみれたものの正体が何か。いや、理解したくはなかったのだろう。

 

だが、理解してしまう。その”赤い“液体が何か。

 

(これ………血……?)

 

そう思ったと同時に体は自分の命令を聞かなくなっていた。意識を手放すのに、そう長くは掛からなかった。

 

 

『一体何が、何が起こったのでしょう…。…こ、故障です!トレノスプリンターに故障発生です!』

 

スタンドは騒然としている。困惑の声を上げる者、現状が理解できずに押し黙る者。

 

「どうなっているんだ?トレノは…」

 

「トレちゃん…おうえぇ…ゲホッ!」

 

長いトレーナー人生で故障は何度も見てきた沖野だが、こんな故障は見たことは無かった。一刻も早く対処しなければ、トレノはこの先走れなくなるかもしれない。

 

沖野は瞬時に理解できた。しかし体が動かない。何故か体が反応しない。それほどまでに動揺していたのだ。

 

「うわあああああああぁぁぁッ!!!」

 

「渋川っ!?」

 

そんな中いち早くターフに飛び出したのは渋川だった。彼女だって狼狽していた。彼女自身、今自分が何をしているのかすら、この後聞いても覚えていないかもしれない。

 

それでも、何をするべきかは、本能で理解っていた。その体はフラフラと、糸の絡まったマリオネットのように不規則な動きをするトレノをしっかりと捉えていた。

 

力なく、惰性で、ほとんど残留思念のようなものだけでゴールへ向かって走るトレノ。しかしそれも長く続かない。脚が絡まり、遂に体は宙に舞った。

 

しかし、トレノが地面に打ち付けられることは無かった。渋川が動きを捉えていたおかげで激突だけは免れた。

 

「うぐうぅッ!!」

 

だが、それは激突の衝撃を渋川が全て受けるという事。もちろん渋川もただでは済まない。時速約50キロで人体を受け止めるのがどれほどのダメージかは想像に難くない。

 

そのまま50メートルほど後ろに吹っ飛んでいく。渋川もかなりの重症になってしまったがそんなことは意に返さずにトレノの状態を確認する。

 

(口から大量の血…内臓の損傷?…そうだ、脈は!?)

 

手の動脈、首筋、その後に心臓に耳を当てる。しかしどこを確認しても脈は確認できなかった。

 

(心臓が止まってる…!?このままじゃ死んじゃう!)

 

すぐに心臓マッサージに取り掛かる。ゆっくり過ぎず、かと言って早過ぎずの一定のリズムでマッサージを施していく。

 

「担架ーー!それに救急車ーー!」

 

「トレちゃん!起きてよ!お願いだから起きてよ!!」

 

少し遅れて沖野とナナが駆けつける。沖野はすぐにケガを確認する。あれほど派手に宙を舞って、ケガをしていないはずがない…のだが。

 

(脚にケガは…ないのか?あれだけ吹っ飛んでいたのにか?渋川がクッションになったって事か。…てことは、渋川も相当な重症じゃ!?)

 

そう思い渋川の顔を見るが心臓マッサージに必死でそのような様子は今の所ない。それも仕方ない。何せこの状況の中、一番錯乱しているのは渋川本人である。

 

「榛名、AEDよ!」

 

遅れて東条が飛び出す。その言葉を聞いて一旦マッサージを止め、血まみれとなったトレノの勝負服を脱がしていく。

 

「うぅええんゲホ!ゴッフ!…トレノちゃん、戻って来て…!」

 

「渋川、もういい休め!お前まで吐血してるぞ!」

 

この言葉を渋川が聞き入れることは無かった。AEDの処置を終え、再度心臓マッサージに取り掛かる。

 

「おいトレノ!しっかりしろよ!」「トレノさん!」「起きてください!」

 

ロータリー、ダイヤ、キタサンの3人も駆けつける。すでにレースは終わっていた。掲示板には既に確定した順位が表示されていた。しかし彼女たちにとってはそんなことはどうでもよかった。

 

今この場ではライバルの、友の安否だけが最優先事項だった。

 

心臓マッサージを始めて3分、サイレンの音が聞こえる。救急車が来たのだ。柵がどけられ、ターフの中に入っていく救急車。迅速にトレノが乗せられていく。

 

「さ、貴方も乗って!酷いケガだ!」

 

「私は大丈夫です!早くトレノちゃんを連れて行ってあげてください!」

 

「そんな訳に行くか!お前だって重症なんだ!さっさと行け!俺たちも後から行く!」

 

救急車に乗ることを一度は断る渋川だが、沖野に半ば無理やり乗せられる形でレース場を後にする。

 

走る救急車の中、必死に心肺蘇生を行う救急隊員。渋川はそれを眺める事しかできない。トレノを受け止めた時、既に体は限界だった。

 

(起きて、トレノちゃん…必ずだよ…。…死んじゃダメだよ………。)

 

そう強く願い。渋川は一筋の涙を流し、死んだように眠りについた。

 

 

ピッ ピッ ピッ

 

「うぐッ! げっふ!ゴッっふ!」

 

「心拍音だ、心臓が動き出した!血を吐いてしまっているが呼吸も正常だ!脳波も出ている!蘇生はひとまず成功だ!トレーナーさん!一先ずは蘇生に成功しました……?」

 

後ろを振り向いた隊員の目には口から血を垂らして力なく座っている渋川が映る。その様はまるで死んでいるようで、救急車の少しの揺れで倒れてしまいそうなほどだった。

 

「まさか、こっちも!?」

 

急ぎ脈、外傷などを確認する。脈は正常、しかし問題は外傷の方だった。

 

「酷いケガだ…ここまで意識を保っていたのが奇跡なくらいだ…。こちらの方のバイタルは安定してきてる。一先ずこっちの処置をしよう。」

 

 

 

「まずはダービー1着おめでとうございます、ロータリーさん。今のお気持ちは…いかがでしょう?」

 

記者は何を聞けばいいかを探りながら質問する。何せあんなことがあった直後だ。慎重に、言葉を選びながらになる。

 

「どうしたもこうしたもねぇ。勝った実感もねぇ。そういや勝ったんだなって感じだ。」

 

「そうですか…次走は菊花賞になるかと思いますが、意気込みはいかがでしょう。」

 

「今は、そういう気持ちになれねぇな。…もういいか?」

 

「す、すいません!最後のこれだけよろしいですか!?…トレノさんに付いてどう考えていますか?」

 

「あ?」

 

途端怒気を放つ。記者として聞きたかった気持ちが勝ったのだろうが、踏んではならない地雷を踏んでしまったと質問してから気付く。

 

撤回することも出来た。しかし聞いてしまったからには、踏み込まなくてはならない。何より、誰もが知りたい事でもある。

 

「レースに復帰する見込みはあると思いますか?ロータリーさんの考えを聞かせて下さい。」

 

「…必ず復活する。俺の中じゃ、この勝負は無効だ。話は終わりだ。…それと、ウイニングライブには出ない。じゃあな。」

 

ライブに出ない。その衝撃の言葉に記者たちは押し黙る。その後、2着だったサトノダイヤモンドも3着のウマ娘も同様に出ない旨を伝えたため、ウイニングライブは中止になった。

 

それを咎めるものは少なからずいたものの、それでも大部分には理解された。

 

余談にはなるが、キタサンブラックは14着に終わった。トレノのペースに乗せられ、早くに仕掛け過ぎて直線で失速してしまったためである。

 

 

 

「トレノの…渋川の容体はその…どうなんですか?」

 

たづなからの連絡を受け、トレノ達が搬送された病院に大急ぎで車を飛ばして沖野達スピカメンバー、そしてナナが到着する。

 

「まず、渋川さんは現在手術中です。飛んできたトレノさんを受け止めたとのことでしたのでCTスキャン、MRI、色々と検査をしました。その結果、肋骨の何か所かにヒビが入っていました。吐血は受け止めた時に内臓が圧迫されて、傷が出来たものかと思われます。ですが、命に別状はないかと。」

 

「そうですか…。」

 

一度は胸をなでおろす沖野だったがまだトレノの診断結果を聞いていない。覚悟を決めて医者に問う。

 

「それで、トレノの方は?」

 

「渋川さんと同様の検査を行いましたが異常なしです。吐血の原因は調査中ですが脈拍、呼吸、脳波とすべて正常です。ケガに関しても軽い打撲程度で済んでいます。ほとんど奇跡です。ただ…。」

 

「…………ただ?」

 

医者が何か溜めていう時、それは決まって良くないことを告げる時である。この場にいる全員が何も起こらないでくれと思ってもである。

 

「トレノさんは現在昏睡状態です。もちろん脳に異常などはありません。しかしなぜ昏睡状態なのか、いつ目覚めるかは、私どもでは……。」

 

「そ、…そんな…トレちゃんが?」

 

膝から崩れ落ちるナナ。近くにいたスペシャルウィークがナナを支える。

 

「今は経過を見守るしかありません。私どもも最善を尽くします。」

 

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