アスカがぴゅーっと浴室に逃げていったその後、である。
シャワーの音が扉越しに聞こえてきたのを確認し、エマが横になったベッドの傍へ椅子を移した。
エマが起きていると言ったのは嘘だ。普段のアスカならエマが気絶したままというのも把握できていただろうに。慣れないことするからだ、と思わず苦笑した。
「ほれ、起きろ。」
ぺんぺんとほっぺたを軽く手のひらで叩き気付けすると、エマの眼球が瞼の下で動いたのがわかった。続けて何度か声掛けしていると、眉を八の字にしつつ目を開けた。
「痛たたた…。うぅぅ、あれ、ここ…どこ…?」
お腹を抑えつつ、俺の呼びかけに身を起こした夢魔。あのメイジャーの蹴りをもろに受けたのに、脊髄や肋骨の骨折もなくせいぜいが打撲程度か。魔族は本当に頑丈である。
この女の名前はエマといい、サンフランシスコサウスダウンタウンにある娼館「ナイトメア・プレジャー」に所属していた娼婦だ。
年齢は人間換算26歳。160cmの身長と、軽めの体重45kg。バストはDカップだったか。ねじくれた赤褐色の角と紫の髪、透き通るような肌、さらには蝙蝠のような小さな羽にその美貌。アスカほどではないにせよ、十分に魅力的で、娼婦としても結構稼いでいる。全部調査書頼りの知識だが。
「起きたか。メイジャーに蹴っ飛ばされた腹は大丈夫か?」
エマは前後の記憶が曖昧なのかぼーっとしていたのだが、俺の声に聞き覚えがあったらしい。
「そ、その声…!アンタが『M』!私を連中に売ったのね!」
すかさず繰り出されたのは右手のビンタである。オークなどと比較して魔族としての肉体的頑強さに劣る夢魔とはいえ、その威力は結構なものだった。人間でいえば、プロボクサー程度の速度はある。
俺としてはむざむざ受けてやる義理は無いので、その手首を掴み止めた。
エマは止められたことにはさほど意外でも無いようだが、今度はバタバタとベッドの上で暴れだす。あんまり暴れると埃が立つから辞めて欲しい。アレルギー鼻炎になりそうだ。
「くっ、このッ、離せ!変態!!早漏!!短小!!対魔忍!!!…変態!!」少し考える間があった後に『変態』が二回も出ているあたり、語彙力の程度が知れる。
「魔族の間では『対魔忍』は悪口なのか?」
「当り前よ!下手な貴族よりヤバいんだから、対魔忍!『話を聞いたら逃げろ。見かけたら逃げろ。目があったら殺される。』って評判なんだから!」
「なんだその古典的ヤンキーみたいな扱いは…。というか、暴れるな。埃が立って迷惑だ。」
「じゃあ手を放して!あんたみたいな根暗陰険遅漏野郎に触られてるだけで気持ち悪いの!」
言いたい放題である。早漏なのか遅漏なのかどっちだと言いたい。どっちでもないが。
「放してもいいが、放せば大人しくするのか?」
「…暴れないではおく。」
「わかった。ほら。」
俺が手を離した途端、エマはベッドから跳ね起き、その翼を使って窓に突進した。
彼女の向かう先はアスカが入ってきた後に俺が閉めた大窓であり、『暴れないとは言ったが、逃げないとは言っていない』というエマの心中が察せる行動である。
小さな翼がパタパタ羽搏くだけで驚くほど大きな推進力を生むのは、魔族が生まれながらに持つ魔力による魔法行使である。遥かに規模は小さいものの、原理はドラゴンの飛行と同じだ。
アスカといいエマといい、空を飛べる連中は窓から出入りするのがルールとかあるんだろうか? 訝しむが、飛翔した彼女が窓に到達し悲惨な事態を招く前に、彼女の背中からドスンとのしかかり、床とサンドイッチして止めた。
「ぐぇっ!」尻の下でエマが潰れた蛙みたいな呻きを上げる。
…割と大きな振動を立ててしまった。階下の学生が怒って怒鳴り込んでこないといいんだが。
「何!?どうし…」 アスカが体の正面だけをバスタオルで隠して浴室から飛び出してきた。片手にはしっかりと苦無を握っている。
物音に驚いたらしい。が、俺がエマを床に押さえつけている光景を見て状況を把握したようだ。うんうん、と納得した表情。
「あー、うん、大体わかった。彼女に怪我させないようにだけ気を付けてあげてね。」
振り返ったら一糸まとわぬ背中と尻が俺に見えてしまうからだろう。すすすっと後ろを向くことなく浴室へバックしていくアスカ。
「放せ!変態!!早漏!!短小!!対魔忍!!!変態!!…覗き魔!!」
数秒前にやり取りした内容なのだが、覗き魔が追加されたようだ。俺が誰をのぞいたと言うのか。男はみんな変態だと思っているのか? あながち外れではないが。
「このやり取り、何回も繰り返すのか?勘弁してほしいんだが。」
「アンタが私の上に乗ってるからでしょう!?退いてよ!」
「退いたらお前はガラスを突き破って逃げるだろう? 誰が窓を修理すると思ってるんだ。俺だぞ。管理人に弁償だってしなきゃならないし、夜中にそんな大きな物音立てたら周りの学生たちに迷惑だ。分かったら、大人しくそこのベッドに座って欲しいんだが。」
理論立てて説明したつもりなのだが、エマにとっては効果が無かったようだ。さらに温度が上がってしまった。
「ハァ!?人を勝手に危険な状況に放り込んでおいて、わけわかんない化け物サイボーグにめっちゃ痛い蹴りされたと思ったら、今度は誘拐!?お次は監禁!?最後にはどーせ殺すんでしょ!?いくら私が夢魔だからってアンタ馬鹿にしてんの!?」
フーッフーッっとまるで威嚇する猫である。アスカも猫っぽい仕草を見せることがあるが、エマは輪をかけて猫っぽいな、と思った。口に出すと火に油なので、代わりに別の言葉を口にした。
「落ち着け。殺すつもりならとっくにしてる。殺すつもりの女をわざわざ助けてベッドで休ませるか?」
途中まで見殺し予定だったが、アスカが助けたので予定変更したのは内緒だ。罪のない嘘というやつだ。みんなが幸せになれる素敵な言葉は大好きである。
エマは俺の尻の下で「ぐぅ」と小さく唸り、少し抵抗が弱まった。話を聞く気になったようだ。
「メイジャーやヘスティアについても俺はちゃんとピアスを通して警告したぞ。残念ながらお前とスペック差がありすぎて警告を生かせなかったようだが。」
「そもそもあんなバケモン共に追われるなんて聞いてなかった!私がアンタからの依頼として受けたのは、『ピアスを通して受ける指示の内容を、太客にそのまま伝えろ』だけよ!」
「お前、そんな簡単な仕事するだけで半年間、月額3万ドルも貰えると思ってたのか?合計18万ドルだぞ。しかも非課税で。」
「だってアンタこの仕事が危ないなんて、そんなこと言わなかったじゃない!そんな危ない橋を渡らされてるだなんて思わないわよ!!」
エマはうつぶせのまま、地団太を踏む。やめてくれ、階下の人の迷惑になる。
「あきらかに危険手当込みだろう。その程度、言われずとも理解しろよ。想定しなかったお前が悪い。むしろ契約相手が俺でよかったと思ってほしいくらいだ。」
この女、本当に魔族か?というより裏社会にどっぷり肩まで浸かっているとは甘えない言動である。
スレてなさすぎだ。娼婦というより、レストランで注文対応しているホールスタッフのようだった。
そもそも、ではあるが。
俺としてはエマへの指示は特務機関Gに対していくつか動かしていたプランの一つに過ぎず、期待もしていなかった。
相手のエマも夢魔だったのでこっちの思惑も理解したうえで契約してたのかと思っていた。俺はどこかで姿を消そうとするくらい予想していたのだが、言葉通りに受け取っていたようだ。まぁ、そのまま働いてくれるなら都合がいいので一切止めなかったのだが。
エマは夢魔だ。サキュバス(インキュバス)として中世文学にも登場するくらいメジャーな魔族だぞ。
怠惰かつ妖艶、奔放に性を求め、夜な夜な男女の夢に現れ、哀れな獲物を淫夢に堕とす。行きつく果ては精力、つまりは生命力を全て吸われた木乃伊の出来上がりである。
魔界勢力の尖兵であり、人間を外道魔道に堕すことにこそ快楽を見出す。お前ら夢魔はそういう存在だろう。
翻って、エマの過去半年の行動を見てみると。
この六か月間、逃げだす素振りも見せず、きちんとピアス型通信機を着用しこちらの指示通りに動いていたエマだった。
娼婦だから夜型生活ではあるものの、娼館勤務に対し無遅刻無欠勤。普通の会社員か?
太客に対しては良くある『夢魔の食事として精力を奪う』だけではなく精気交感を行い、生命力の循環強化を行う。エマを抱いた客は翌日元気はつらつとして仕事に精を出し、『君のおかげで人生に張りが出て、感謝している』といったようなピロートークをピアス越しに聞いたこともある。顧客に感謝されるサービス業の鑑か?
一見客に対してはプラン料金に応じたサービスを過不足なく提供し、娼館としても優秀なスタッフとして目をかけていたようだ。
こちらの意図しない動きはせず、娼婦仲間や娼館側にこの契約を漏らすことはせず、与えられた役割をこなしていた。
……あれ、もしかしてほんとにただの優秀なバイトか? だんだん「これは俺たちの人選ミスでは?」と思えてきた。俺としてはいい感じに裏街道に染まったポイ捨て可能な人材〈エクスペンダブル〉を雇用したつもりだったのだが。
おかしいな。気を付けてはいたが、知らぬ間に夢魔の魅了に嵌っているのか? そんな疑念を自分に抱きつつ、質問する。
「一つ教えろ。お前、俺が振り込んだ口座の金、ほとんど手を付けず残してるよな?」
「残してるけど、それが何よ!?」キレ気味の回答。
「なんで残してるんだ?」
「アンタが言ったんでしょ!? 『契約期間中にこちらの指示以外の言動を行ったり秘密を洩らした場合は契約を打ち切り全額回収する。返済できなければ魔界の果てまで追って回収する』って! …普段の生活なら娼館からのお給料とお得意様からのチップで十分だし、アンタからの入金は取っておいて契約が完了したらそれを元手に故郷で小さなレストランでもやろうかなって……思ってたのにぃ……うぅぅ……。」
話しているうちにアドレナリンの放出も収まってきたのか、プルプル震えだした。アドレナリンが切れたせいで腹部の鎮痛効果も弱まったか。声音も落ち着き、むしろ泣き出しそうである。
認めよう。
完全に俺たちの人選ミスである。真っ当に娼婦として働いていた女を巻き込んでしまったらしい。
忙しくて契約前に調査班の書面情報だけで判断してしまったのが悪かった。夢魔という前提があったために先入観があったことも否めない。
いや、言い訳だな、どれも。
ここまで全部俺を騙すための演技という可能性もあるにはあるが、過去の彼女の勤務態度がそれを否定する。日頃の勤務評定がプラスに働く実例を身を持って経験してしまった俺の心境は極めて複雑である。
俺はエマの上から腰を上げ、彼女の頭の方向に回り、頭を下げた。
「すまなかった。心から詫びよう。」
「ううぅぅ…え? 何よいきなり。キモっ…」
腹ばいのまま痛む腹部を抑えた涙目の夢魔と、頭を下げる男。
「フンフンフン♪おっさきー。……え、何この状況?」
風呂上りにバスローブをまとってご機嫌のアスカがそんな俺たちを見て首を傾げたのだった。
エマは対魔忍RPGに登場するN/サキュバスをモチーフにしています。Nキャラらしいデザイン(誉め言葉)で好こ。
布教です。
楽しんでいただけたら嬉しみ。