ローズバレーに布陣したリューデン公爵領軍は敗走、そうしなかった勇敢な者は
マリアベルは大白亜を見上げた。岩肌が剥き出しになった禿山の、決して高くはない山頂に建つ大聖堂が、
「さて、どうする。簡単には入山できまい」
ロック卿の問いに、マリアベルは言う。
「見るに、たかだか一
言った所で、慌ただしく伝令が駆け寄ってきた。その伝令は随分と青い顔をしていて、マリアベルはその様子に
「……申しなさい」
「はっ。大白亜に進軍中の輝聖およびマール伯爵領軍が戦闘状態に入れり!」
「その相手は」
「──教皇旗を掲げた正教軍、
マリアベルは目を見開く。一方でヴィルヘルムの
「ヴィルヘルムだと? 教皇が軍を率いて、輝聖に攻撃を仕掛けていると申すか?」
ややあって、マリアベルが言葉を発する。額に手を当て前髪を押し上げ、その声は僅かに震えていた。
「そうか……。そうだったんだ……」
「何ぞ申せ、マリアンヌ。何か分かったのか?」
「ヴィルヘルムは王の死で国が乱れている間は、気配を殺して忍んでいたに過ぎない。輝聖や、輝聖に
深く息を吐いて、続ける。
「正教会にとっては
マリアベルはヴィルヘルム・マーシャルという男の実力については良く知っていた。
彼は正教軍の
ヴィルヘルムは様々な策を用いて、魔物や賊軍から国を護って来た。状況に囚われすぎず、時には柔軟な発想で勝利を掴んで来た
「確かに正教会は輝聖の
「──あの男は神となろうとしている」
「神に……」
伝令が言う。
「正教軍はこちらにも兵を差し向ける様子。あまり猶予はありませぬ」
ロック卿は辺りを見回した。この戦いは圧勝したと言って良いが、それでも無傷とはいかなかった。矢を受けて傷ついた兵もいれば、体力を失って足元も
マリアベルが問う。
「輝聖は、無事なのですか」
「はっ。輝聖は部隊を離脱、大白亜に向かっている模様──」
しかし、言っている途中で新たなる伝令が横入りした。
「も、物申す! 物申す!」
その伝令も青い顔をしていた。マリアベルは震える瞳でその者を見返した。心の中で『これ以上はやめてくれ』と祈りながら。
「三の城からウィカー伯爵領軍騎馬隊および、歩兵一師が出撃! こちらの
ロック卿が息を呑む。
「いつかは気づかれると思ったが、なんとも間が悪い……!」
馬上、マリアベルは目を見開いたまま言う。平然を装ってはいるが、息は荒かった。
「速やかに陣を整え──いや、この際、不完全でも構わない! 即座に大白亜へ突撃! アルジャンナの守備隊を撃滅し、入山する!」
マリアベルの考えはこうである。即座に簒奪者を討ち、戦の大義名分を失わせる。その後は籠城し、正教軍と戦闘。
輝聖は大白亜に向かっている。彼女が来るまでなんとか耐え忍び、信じて待つ。そして輝聖と自分で協力し、正教軍に打撃を与える。正教軍の被害が無視できない程になった時に、休戦を持ちかける。大白亜を輝聖に明け渡させ、教皇は王都に引いてもらうのだ。
とにかく今は
とにかく、このまま三の城の兵と正教軍に挟み撃ちされるのは避けたい。もう、我々には入山しかない。入山しかないのだ。
「──待て、マリアンヌ。何か出てきたぞ、アルジャンナの街から」
マリアベルは顔を上げ、その方を見た。聖都アルジャンナの街、守備隊の前に無防備の人間がずらりと並び始めている。老若男女入り乱れているようで、とても兵とは思えない。 守備隊は彼ら彼女らを剣や銃で脅し、時に蹴りながら、並ばせている。
マリアベルの頬に、冷たい汗が伝う。
「民だ。民を壁にしているんだ……」
恐らく、禁軍は周囲に転々する集落の民達を、アルジャンナに避難させていた。──万が一の時に盾として用いるつもりで。
「守備隊を……、守備隊を指揮しているのは、誰……?」
ロック卿は伝令が持っていた双眼鏡を借りて、目を細めてそれを覗いた。
「……良い身のこなしをした、巻き髪の男か。見た目は文官の様ではあるが、一見して
「間違いない。モラン卿だ……」
ゾッとする。特徴を聞いただけで、内から嫌悪感が膨れ上がり、胃液を押し上げるようであった。
ふと下から冷気が
「嫌……」
確かに彼らを殺して街に入るのが得策。でも、あの民は何の罪を犯したわけでもない。下品な策を講じるモラン卿によって、盾にされているだけだ。彼らを殺してはならない。
ならばどうする。迂回して大白亜に入れる場所を探すか。だめだ。時間がない。それまでの間に三の城の連中が攻めてくる。正教軍だっていつ現れるか分からない。急がなければならない。──何も考えられなくなってきた。
歌が聞こえる。民達が聖歌を歌い始めた。1人1人が、両手を組んで祈っている。盾にされている現状を嘆いて、神に助けを求めている。涙を流す者もいるし、恐怖で立っていられない者もいる。赤子を抱きしめる女も。
彼ら彼女らの
「──!」
民の盾の前に1つの騎馬が出てきて、マリアベルは小さく首を横に振った。その者、青い髪の、眼帯をつけた男だった。その男はどうやら守備隊の人間ではないようで、ローズバレーで戦っていた兵の1人らしい。
男は剣を抜き、こちらを真っ向から見据える。民が盾となっている事を
「なんと、敵にも良心のある者がいるようだが……」
マリアベルの目からは、涙がさらさらと溢れ落ちていた。……分かる。分かるのだ。あれは間違いなく父エドワード・デミである。
「──突撃準備しなさい」
ロック卿は目を見開き、聞き返す。
「何?」
「もう時間がない。突撃準備をしなさい。民の壁は民の壁と思うな。あの騎士は良心の騎士と思うな。歯向かうなら殺しなさい」
魑魅魍魎の手はマリアベルの背中を指で掻く。胸を優しく触る。『決断しなくては味方が死ぬ』『輝聖が大事ではないのか』『このままでは憎いモラン卿まで逃す』と耳元で
「民がおるぞ。あれは恐らく、なんの罪もない民である!」
「構わない」
「いや、それだけはならぬ。今一度策を
周囲に集まって来ていたホルスト卿を含む他の騎士達も、不憫な民達を攻撃するのには抵抗があった。だから、口々に考えなおせと声を上げた。
「構わないと言っているッ‼︎ いいから早くッ‼︎ 死にたいのかッ‼︎」
涙を散らしながらマリアベルは怒鳴る。
「あなたたち、死んでもいいの⁉︎ 輝聖が討たれても良いの⁉︎ 輝聖はこの世界を救うッ! 最大の正義だッ! あの民達と、あの騎士には、輝聖ほどの価値はないッ‼︎ 私たちは輝聖の為に最後まで戦わなくちゃいけないッ‼︎ だから、私たちが今死ぬことは許されないんだ! そんなことも分からないのかッ!」
言って頭を掻き
『──輝聖を助け、輝聖に認められたいのでしょう?』
脳内に少女の声がしていた。6本の指が、そっと背中に触れる。
『大丈夫。罪のない人間を殺したところで、あなたは聖女。何をしても許される。誰もあなたには逆らえない。あなたは輝聖の為に戦い、幸せになる。──あなたはあなたの幸せの事だけを考えていればいい』
ぎゅうと目を瞑る。血の海の中で絶えるキャロルの姿が見えた気がした。そこにはリアンもいて、パトリシアもいる。もちろん、
「あの民達は人と思うなッ! あの騎士は人と思うなッ! 輝聖や私の命に比べれば、
「狂うたか、マリアンヌ! 焦るべきではない! 諦めずに、今一度……ッ!」
他の騎士達も『それだけはならない』と言葉を強める。彼らが教皇領まで参じたのは、
「黙れ! 黙れ黙れ黙れぇ‼︎ もう答えは出ているッ! 早く突撃の準備に──」
マリアベルは殺気に気がついて、言葉を詰まらせた。振り返るとそこには、
「その命を撤回してください。──さもなくば、僕はあなたを殺す」
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