──瘴気の壁の向こう側には、どんな世界が広がっているのだろう。
そこは荒野か。
枯れ木と枯れ草だけか。
生き物はあるか。
蝿が飛び交い、
魔物が
竜が吠えるか。
死霊だけが
空は何色だ。
黒色か、灰色か。
日は
月は
雲は流れているか、雨は降るか。
そうなら、
反対に、日輪が全てを乾かすか。
瘴気の中では、どんな音がするだろう。
何も聞こえない?
歩くたびに自分の足音が聞こえて、
ただそれだけ。
風もないなら、聞こえる音は、耳鳴りの音。
何も音がしない。
音がしないのに、
キンと鳴っている。
──それともまさか、瘴気の中には楽園があるか。
風
青い空。
鳥の歌、木々の
ああ、水も無限にある。
川の水、雪解け水のように冷えて美味しい。
山に入れば野菜や
野には
思う存分に狩りを楽しめる。
優しい馬も群れていて、
乗れば緑の風となって
そこでは毎日が楽しい。
時間は気にしなくていい。
遊び疲れて地に転がれば、花々の香りに包まれて、すぐに眠くなる。
鼻に
瘴気の中には幸福があるのではないか。
苦しみも悲しみも存在しないのではないか。
私たちが生きる世界こそが地獄であり、
外側こそ楽園ではあるまいか。
そして、この暴論を誰も否定できないのではないか。
□□
ホルスト伯爵領ハンハイムは城壁に囲まれた
城内では第三聖女隊の手当が行われていた。
毛布の上に、全身に包帯を巻かれた大男が横たわっていた。先まで気を失っていたが、その男は目を覚ますと、
「聖女様は……。聖女様は、何をしておられる……」
「中庭でお休みになられております」
大男は起きあがろうとしたが、全身に激痛が走って、諦める。
「ご無理をなさりませぬよう、フォルケ様」
フォルケ・セーデルブロムは第三聖女隊を
彼は領主の息子として生を受け、人生の成功を約束されていた。美しい
父の名を用いず
体が蝕まれてもあの日の決意は変わらない。聖女を助け瘴気を払い、魔物のいない世界を築き上げるのだ。
「誰か、空聖の近くにいてやってくれ……。俺の代わりに支えてやってくれ……」
「今はご自身のお体を
薬師が腹の包帯を代える為にそれを取ると、残酷な傷口が
薬師は焦りに顔を
だが、あらゆる薬を用いても、あらゆる魔法を用いても、良い効果が現れない。これほど自分の無力を
フォルケは体中の傷も、薬師の無念も、まるで目に入らないかのように、ただ一心に聖女の事を考えている。
「空聖は……、
□□
ハンハイム城の中庭は
木々の陰から第三聖女隊に従軍する侍女達が、不安げな表情で様子を見ていた。聖女の
ローズマリーは虚ろな目のまましゃがみ込むと、露草をむんずと
──初めは氷を食べたいだけだった。
蝕が起きて聖女となってから、体が食べ物を受け付けなくなってしまった。だが氷ならば、ひやりとして気持ちが良く、それと一緒に
そして、ここ数日は、もはや氷などといったものではなく、もっと、他の──、例えば、
とにかく、我慢ならないのだ。
良くない事だとは理解している。ちゃんと食べ物を食べなくてはならないとも思っている。でも、どうしようもできない。
すると苦しいのに、生の喜びがここにあるような気がして、自分に対する憎しみだとか、存在の無価値さなどが和らぐ。
そして、ただ吐くことだけに集中できた。
異物を喰らうことで
ローズマリーは四つん這いになって泉のほとりまで行き、吐き戻した。酸が鼻をつく。胃液と露草が水に溶けてゆく。
そうしていると、中庭に1人の聖女隊の兵が現れた。兵はよろよろとした足取りでローズマリーに近づくと、膝を折る。
「聖女様」
ローズマリーは見向きもしない。
「聖女様、お聞きください」
無視を続ける。
「みな、苦しんでおります。聖女様を熱心に支えたフォルケ様も、もはや風前の
兵は涙ながらに訴えるが、やはりローズマリーは無視を続けた。それが悔しくて、兵は土を握りしめる。
その様子を見た侍女たちも意を決したように近づき、同じく膝を折った。
「どうか聖女様、お救いください」
「昨日も1人息絶えましてございます。空聖のご
「このままでは、みな死に絶えてしまうのではと、心配しておりまする」
だがやはり
──確かに倒したはずだった。心の臓を
だのに
これは罰だ。本来であれば、聖女であるべきでない私を聖女にしたせいで、そして私がそれを受け入れたせいで、罰を受けた。
天変地異も罰だ。あらゆる人は勝手な妄想を口にする。教皇が神となろうとしている
だが私だけは答えを知っている。私のような
終わりだ、何もかもが。
私なんかを聖女にしたせいで。
愚かな。
お前達も同罪だ。
私を聖女にしたお前達も、私に救いを求めるお前達も。
みな罪を背負って、罰を受けるべきなんだ。
滅亡という罰を。
───
──
―
□□
―
──
───
その日、世界が変わった。
遠くの物がくっきりと見えるし、指が
「どうだ、見えるか」
背後から父の声が聞こえる。
「何か、言うことはないのか」
齢7歳に
「壁紙は花の模様、窓際に
侍女達が
ローズマリーは周囲を見渡した。侍女達の顔も良く分かる。
「
伯爵は大きな手で、ローズマリーの頭を
「良いか、ようく聞けローズマリー。お前に流れる血はファルコニアの血。叫べば
次の日からローズマリーには本が与えられた。弱視ながらも文字の読み書きに関しては、教師たちの創意工夫により習得していたから、読むことは出来た。
初めて読んだ本は『ギ・マチスの大旅行』であった。これは
瘴気の世界には様々な魔物がいる。ギ・マチスは魔物の真似をするなどの妙な策でそれを退け、やがて面白おかしい出会いを果たす。例えば喋る猫であったり、空飛ぶ馬車に遭遇する。時には星々が降る街を行き、またある時は砂糖菓子の山々を
ローズマリーはこの不思議な話に魅了され、夢中になった。
──本当に瘴気の中には、こんなに面白い場所があるの?
城の資料室に行き、たくさんの本を読み漁って答えを求めた。だが、答えは見当たらない。本によっては瘴気の中は地獄であり、
誰も答えは知らないのだ。何故なら、瘴気に飲まれた者は誰1人として帰ってくる事はないから。人類は想像でしか瘴気を語ることが出来ないらしい。
ああ、瘴気の壁の外側には、どんな光景が広がっているのだろう。想像を
その夢を叶える方法は、一つしかなかった。
「お父様。私、聖女になりたいです」
伯爵は
「素晴らしいではないか。なんと大きな夢であろうかっ!」
そして頬に口付けをした。
「ようし、ローズマリー。この儂が必ずお前を聖女にしてやろう!」
「本当に?」
今度は額に口付けをする。
「ああ、本当だとも。だが約束せよ、ローズマリー」
ファルコニア伯爵は笑顔を崩さず、続ける。
「きっと聖女という存在は、優れた人間でなくてはならぬ。誰からも
「
「無論、
貝を食べなくてはならないなんて、それはそれは深刻な話だった。
「誰よりも優れた乙女でなくば、神はお前を選んでは下さらぬだろう。それを
ローズマリーは硬く頷いた。──必ず聖女になる。貝も食べよう。そしていつか、瘴気の外に何があるかを、自分の目で確かめるのだ。
□□
伯爵は娘を愛していた。故にローズマリーが『聖女になりたい』と望むなら、そうさせてやるのが務めであると思った。
聖女は瘴気を払い、世界に太平を
それに限らず、伯爵は有らん限りをローズマリーに尽くした。例えば、冒険がしたいと言った時には遠乗りの為の馬を与えてやった。気分が晴れぬと
──ある日、ローズマリーは友が欲しいと
その数日後、齢11歳の冬。
いつものように指南役がいる
彼女達は領内から集められた
突然のことでローズマリーは困惑したが、3日と
ローズマリーは友から様々な事を学んだ。指南役はついていたが、やはり同年代の友から学ぶ知識は刺激となって、急成長のきっかけとなった。
ベアトリスからは戦闘の
友が出来てから、ローズマリーには笑顔が増えた。毎日が楽しかった。友に会えば話したい事が
そして、夜になると空を見上げて十字を切り、神に感謝をするのが日課になった。
□□
春になれば、雪が解ける。
ファルコニア伯爵領は冬が長い。だから、貴族も商人も
北方の乙女たちの春の楽しみは、
5人の乙女は苺狩りに出かける約束をした。侍女などの従者は付けずに行く事に決めた。野苺をたくさん摘んで食べるつもりだった。残った分は
前の日の晩、乙女達は城に泊まった。みな興奮で眠れない中、寝台の上で
「良い? 明日は忘れ物はなしよ」
お
一つ、摘んだ苺を入れておく
一つ、早朝から手分けして作る最高の
一つ、喉が乾いた時に飲むための美味しい水。
一つ、汗を拭くための
一つ、日光を
一つ、茎が硬かった時のための
一つ、急な雨が降った時の
一つ、春を楽しむ心。
最後の一つは──。
「──最後の一つ、ローズマリーはわかる?」
ローズマリーは枕を抱きしめて、考える。
「えっと……。あれでしょう? 肌を焼かないための、
「それも必要だけど、違うわ」
ユーフェミアは人差し指を立てて口元に持っていき、しーっと息を漏らした。大声では言いにくい話らしい。乙女達は体を寄せて、ユーフェミアを囲む。
「最後の一つは、大好きな侍女や家族にも言えないような、ナイショの話」
ローズマリーが問う。
「例えばそれはどんなの?」
「どんな男の人とキスをしたいか!」
ユーフェミアが言うと、乙女達は赤面して、くすくすと笑い合った。
□□
乙女達は2頭立ての四輪馬車を借りて、タープ城を
ローズマリー達は馬車の中で、自分たちだけで作った
乙女達は目的地の野っ原に到着すると、野苺の群生する場所まで競走をし、
たくさん苺を摘んだら
踊り疲れたら
ユーフェミアが口いっぱいにパンを頬張りながら言う。
「私ね、気になっている人がいるの」
パンくずだらけの頬をそのままに、ローズマリーの顔をじっと見た。
「わ、私のこと……?」
沈黙が続くから不安になって、きょろきょろと辺りを見回し、
「違うわよ! あなたのお兄様。ウィリアム様よ」
乙女達がどっと笑い、ローズマリーは赤面した。
「ねぇねぇ、ローズマリー。ウィリアム様には
「い、いないよ。そんな話は聞いたことないもの……」
「じゃあ、私にもチャンスがあるかも?」
「う、うん。だってユーフェミアのお家は、お父様を支えるお家だもの……」
ユーフェミアはにひひと嬉しそうに笑った。ウィリアム・ヴァン=ローゼスには恋人がおらず、己にその資格あり!
「私ばっかり話してちゃ
ローズマリーはぴしゃりと居住まいを正して、視線を泳がせる。
「わっ、わたしはっ」
再び沈黙。
「……何も思いつかないっ」
言って、俯く。喉まで出かかっていた『聖女になりたい』という夢は、ごくんと飲み込んだ。大袈裟な話になってしまうから、恥ずかしい。
そうしていると、長身のベアトリスがそろりと言う。
「じゃあ、代わりに私が……」
みながわくわくとした表情で、ベアトリスに注目した。
「あ、あのね。秘密と言うほどではないのだけれど、私ね、数日の間、お
ヘス侯爵領とはファルコニア伯爵領の東に面する領であり、御前試合とは領主の前などで行われる武術の試合であった。
みな、目を丸くして驚く。
「「「女の子なのにっ!?」」」
「う、うん。女の子だけの御前試合なの。それで、私、優勝して、ヘス侯爵に認められたわ」
乙女達は、わあ! と湧き上がった。ローズマリーも満面の笑みで拍手をする。それは本当に凄いことだ!
「そ、それでね。聖ヴィネディネの称号を頂いたのよ。これはね、ヘス侯爵に認められると頂けるものなの。……そ、それからね。ファルコニア伯爵領の乙女で1番強いって、
ユーフェミアがベアトリスに抱きつく。ベアトリスの持っていた
「なんで内緒にしてたのよっ」
「だ、だって、恥ずかしいわ。女の子なのに、強いだなんて。しかも、魔法で勝ったならまだしも、剣の腕でだなんて……」
ローズマリーは赤面しながら、大声を張り上げた。
「そ、そんなことないっ。かっこいいっ!」
みな頷き、ユーフェミアがそれに乗る。
「そうよ! かっこいい! 私たちの大好きなベアトリス! 私たちの自慢の友達!」
乙女達は食事もほどほどに、もう1度踏み踊りを始めた。そして『私の恋人だ』と冗談を言って、男役のベアトリスを取り合った。
日が暮れる前にはタープ城に戻り、乙女達はジャムを作り始めた。使用人や料理人を
苺を手洗いし、
瓶の中、赤いジャム。思い出きらきら、
□□
2日後の
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