発売日はまだですが、店頭に並び始めているところもあるようなので、
見かけた方は是非お手にとっていただけますと幸いです。
靴屋のイーヴァは
黒煙に
だがイーヴァは戦う手段を持たない。魔法も
(どうしてこんな事に……っ)
だから、ついにイーヴァは後悔をした。神が『夢は諦めよ』と告げているのにも関わらず、諦めが悪かったから、神罰が下ったのだと察した。王都などに来るのじゃなかった。
「あっ……!」
正面、空を滑るように小翼竜が飛来した。翼が風を切る音、思いの外素早い速度。イーヴァは恐怖で力が抜けて、へたり込んだ。同じ方面に逃げていた人たちは、蜘蛛の子を散らすように失せる。自分も逃げないと、と思ったが足に力が入らない。当然、出刃包丁も振えない。だからイーヴァは痰の絡みついた喉で、精一杯、がらがらとした、か細い悲鳴を上げた。
──神さま!
痛ましい悲鳴が神に届いたのか、
そして何者かが、のたうつ小翼竜に飛びかかり、その脳天に勢いよく木製の槍を突き刺した。頭蓋を破って一撃必殺、尾がぱしんぱしんと跳ねた後で果てる。
イーヴァは目を丸くして、
「……!」
間違いない。誰が見間違えるものか。心の
「無事か!?」
海聖マリアベル──の影武者ヴェラ・ウルフは、聖女らしい言葉遣いをすっかり忘れてイーヴァに駆け寄り、抱きしめた。
「もう大丈夫。王都は私たちが救う。周りを見てみろ」
言われて、イーヴァは落ち着いて辺りを見た。
いつの間に現れたのであろうか、傷だらけの兵達が各々武器を手に小翼竜と戦ってくれている。そのお陰か、
「いいか。脇目も振らずに一気に走れよイーヴァ。念の為、
竜は耳飾りに目がないと言われている。王国南部に伝わる迷信だった。イーヴァは新生活記念にと浮かれて買った安物のそれを耳から外し、
「郭の外に出たら、壁を背にして蹲るんだ。あの火の鳥は死んじゃいない。またピカっと光る。……さあ、行け!!」
言って、イーヴァの背中をばしんと力強く叩いた。押し出されるようにイーヴァは火炎の
ヴェラは徐々に小さくなる背中を見つめた。彼女は私が影武者になって初めての説法に来てくれて、その後もずっと欠かさず顔を出してくれる子の1人。不慣れな喋りにも関わらず熱心に聞いてくれていたし、中身だって大したものではないのに生活の
「もっと走れっ! 走れーっ! 生きて生きて生きまくって、
肺が空になるまで叫ぶ。聞こえなかったのか、聞こえたけどそれどころではないのか、イーヴァが振り向くことは無かったけれど、それでもヴェラは満足していた。心に青空が広がったような気さえした。
そして顔を歪め、胸を押さえ、膝をつく。
「あいたたたた。強がりすぎたな、こりゃ。ゲボが出そうだぜ」
目をぎゅうと瞑って、俯く。顔面から絞り出された汗が鼻頭へ伝って、ぽたぽたと地に落ちた。
やれやれ。多少の無理が利く程度には空聖に傷を治して貰ったが、当然ながら痛いは痛い。しかし、なんと言うか、クラーク他生き残った神門占拠の決起軍も、第三聖女隊のフォルケとかいう包帯ぐるぐる男も同程度の回復具合のはず。全快した勢いで戦っているのを見るに、自分との圧倒的な差を感じる。奴らは化け物か? 体が痛まないのか? 流石は選りすぐりの
だが私だって根性には自信がある。もう、ほんのちょっぴり休憩したらば、立ち上がって加勢してやる。そして1人でも多くの人を王都から流すんだ。私は偽物でも聖女。救世を成し遂げてやる。──そう思って顔を上げると、目の前に杖を持った老女が立っていた。ビスター伯爵夫人メアリだった。
「あ、あなた、ヴェラ……!」
メアリは背後に従えている何人もの正規
「へへっ。よお、久しぶり。元気ぃ?」
「生きていたのですね! ああ、どれほど心配したか。しかも、こんな地べたに座って! みっともないっ! 立ちなさい!」
安心から、
「お、おいおい、怪我人だっての。もっと優しくっ!」
「何を眠い事を言っているのですか!
メアリはヴェラが捕らわれた後、数名の従者と共に神門から立ち退かされた。彼女は元は翊衛軍の大将であったし、血も
神門から立ち退いてすぐに旧知の将を頼って、メアリは正規翊衛軍に合流。一部隊を借り、指揮して他部隊と共に神門を包囲、救出の機会を探った。怪鳥が現れて半数ほどの負傷者を出したものの、この騒ぎを利用し、王の沙汰を待たずして神門に単独進撃。謀反に問われることも覚悟の上だった。その最中にヴェラに遭遇した。
「装備を見るに、戦っているのは第三聖女隊と決起軍ですか。なぜ彼らが手を取り合い、連携しているのです。神門で何があったのです。その血塗れの祭服はなんですかっ。答えなさい、ヴェラっ」
「質問攻めかよ。せっかく生還したのに泣けてくるぜ」
「それより、空聖はどうしたのですかっ」
メアリに支えられても痛みで体に力が入らず、立ち上がれぬ代わりと言わんばかりに、ヴェラはちらりと背後を振り返った。
神門へと続く長い一本道、炎と土煙の中に幾つかの人影が浮かんでいる。徐々にその姿ははっきりとして、涼やかな
現れたのは6人の巫女。裸であったり、破れた祭服を纏っていたりした。彼女達は閃光に焼かれながら、
空聖は赤黒く染まった祭服と野蛮な血化粧をそのままに、右手には自身の身長の2倍以上はあろうという、旗竿のような金の杖を持っていた。
狂って
本来は
幾千の時を経て甘やかな香りを放つようになった猫の尿と屍蝋のせいか、蝶や蛾が集まるのが妙な特徴であった。今も杖の周りには、冬にも関わらずどこから湧いて出たのか、市中の炎を無視し
「なんと美しいお姿……」
メアリは目を見開き、独りごちた。……この乙女が本当に空聖ローズマリーだというのか。何度か見かけたことはあるが、その姿に特別なものは感じず、
──これが本当のローズマリー・ヴァン=ローゼスなのだ。
ローズマリーは
「ありがとう。貴女の必死さと、その
語る聖女の瞳を、ヴェラはじっと見つめた。しんとした瞳だった。
「あの鳥と戦うのか」
頷く。
「勝てる……、んだよな」
「確かなことは言えない。あの時も聖具を振るって頭を潰したけれど、火の鳥は生き返って隊を壊滅させた」
ヴェラは魔物についての知見はない。だから、あの神秘の鳥を倒すことがどれ程の事なのか、具体的に思い描くことは出来ない。だが今の空聖の言を聞けば、自分が想像しうる範疇を超えて強力な魔物であることは理解できた。
「でもね、私はもう一生分を逃げてしまった。これ以上、逃げるわけにはいかないんだ」
そしてローズマリーは風に葉が揺れるように、さらりと、
「小さい頃から聖女になりたかった。きっかけは些細なこと。ある物語に影響されて瘴気の外を見たいと思っただけ。……無邪気さもあったけれど、でも、結局のところ私は、
「何かって?」
「特別な存在。自分ではない、遠い、ずっと遠い存在」
烟るからか、街の炎がローズマリーに光の
「初めは、ちょっと
「故郷では仲間と勉強して、遊んで、秘密のお話をして、手を繋いで春の丘を駆けた。一緒に
ヴェラは静かに目を見開いた。ローズマリーの周囲に、揺蕩う白い幻が見えた気がした。
「『ここにいるよ』って、声が枯れるくらいに叫んでいたはずなのに、私は聞こえないふりをするのに必死だった」
白い影はヴェラの知らない土地の
「私は風。季節を巡らす。瘴気の時代を……、冬を終わらせなきゃいけない」
ローズマリーは続ける。
「そして神様に教えるの。私は不幸ではなかったって」
問う。
「あなたの名前は?」
「ヴェラ。ヴェラ・ウルフ」
「そう。ヴェラ、心配してくれてありがとう」
言って、そっとヴェラの額に口付けをした。
額から唇が離れた時。ヴェラは周囲に兵が集まっていたことに気がついた。小翼竜は地上で戦う彼らを恐れて、上空を旋回し始めたらしい。兵たちは各々聖女に顔を向け、神妙に言葉を待っている。
それに応えるようにしてローズマリーは彼らを見回し、落ち着いた口調をそのままに、しかし力強く言った。
「北方ファルコニアの戦士に2度の敗北は許されません。この身が消し炭となるまで戦います」
兵らは微動だにせず言葉を聞いている。新たなる世界を夢見たクラークら造反の決起軍も、傷だらけの第三聖女隊も、メアリが連れて来た正規
「救世の聖女として命じます。不遇な民を守りなさい。決して持ち場を離れることのないよう」
異を唱える者はいなかった。
「
ローズマリーは四指を伸ばし敬礼した。第三聖女隊、決起軍、正規翊衛軍、各員答礼。ヴェラも痛みを堪えて立ち上がり、遅れてではあるがメアリらと同じように答礼を行なった。
「特にフォルケ。あなたには迷惑をかけました」
「
「ありがとう。全てが終わったら、一緒にお茶を」
空聖の背後、火の鳥が生み出した光の大樹が明滅し、消えかけていた。そして幹となった
そしてローズマリーはヴェラを向く。
「良ければヴェラも、私の友人として」
十字を切り、金杖を持つ手を地面と水平にする。両脚は揃えて、棒のようにし、爪先で立つ。次いで左手で自身の血を混ぜ込んだ
空聖の髪がふわりと持ち上がり、周囲に3回、4回と稲妻が舞った。ばちんと、手の中の没薬が火花を散らせて煙を上げる。冷たい風が逆巻き、空聖に集約し、彼女を中心に竜巻が生まれる。徐々に竜巻は
復活したばかりの火の鳥は、翠の竜巻に抗う事
降り注ぐ竜の血の雨の中、周囲の兵ら、巫女らは竜巻に飲まれる前にローズマリーから距離を取る。ヴェラもまたメアリに腕を引かれて、竜巻を見上げながら逃げた。
「……」
ヴェラは竜巻から目が離せなかった。ローズマリーが風に隠れる時、天空の火の鳥に向かっていく白い幻影が、見知らぬ乙女の姿をしていたから。
「聖女が風の中で、
そして、ヴェラは両膝をついた。目を丸くしたメアリが小言を言い出す前に、語り始める。
「私にはもう、魔物と戦う力は残っちゃいない。体が痛くて千切れ飛びそうだ。だけど、ここから逃げることはしたくない」
顔を
「だから祈る。ローズマリーの勝利と、国家の安寧秩序を願って」
メアリにも真心が伝わったのだろう。ヴェラと同じように竜巻を見上げ、十字を切ってロザリオを握った。祈るヴェラを見て感化されたか、もう魔物と戦う力の残っていない兵、元々戦闘能力を持たない巫女らも、同じように祈り始める。
徐々に、竜巻の周囲に祈りの人が増え始める。それは商人であったり、庶民であったりした。当然、多くの者は流行病に侵されていた。中には怪我を負っている者もいた。それでも安全より、祈りを優先させた。
戦う兵らは祈る彼らに逃げるよう促すことはせず、寧ろ全身全霊で彼らを守るべく、『この厄介な竜巻を止めねば』と地上に降り立つ小翼竜を蹴散らしてゆく。
悲鳴と怒号に支配された王都は、翠の竜巻の登場と共に、祈りの静寂に支配された。
□□
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