第四章序盤、リトル・キャロルが大白亜を下山してからリューデン公爵領に到着するまでの間、一人旅のエピソードです。(「ep.131 間話:病」の後)
最後にお知らせがありますので、宜しくお願いします。
三つの難所
葉は大きく、
地方によっては
さて、魔物は人類に害なす存在である。例外はあれども、魔物由来の薬が人の益となることはない。惚れ薬の類が人の益であるかどうかは議論の余地があるが、少なくとも人間という種を繋ぐ事に寄与するわけであるから、つらつら
従って茄参を直接採取するのは危険である。犬を使うと良い。それも、死んでも良いような病気の犬が良い。まず麻紐を用意し、一方を犬の体に括り、もう一方を茄参の葉に結ぶ。それが出来たらば、人間は穴倉か、可能であれば小屋の中に入る。次いで蝋で耳の穴を完全に塞ぎ、準備が出来たら爆竹等で犬を驚かせる。すると犬は驚愕して走り出し、すぽんと茄参が抜ける。茄参が悲鳴をあげるのは凡そ15秒ほどであるから、心の中で秒数を数えて、念の為さらに15秒数えたらば耳栓を外せば良い。茄参は一度黙れば二度とは口を開かない。
脱魂した犬は冷水を浴びせれば蘇ることもあるが、それでだめなら弔う必要がある。怠れば化けて出て大事となるから、
□□
リトル・キャロルは、
歩いて歩いて、
キャロルは跳ねる女に近寄って、血膨れた青い死体を見上げた。『私は
「知り合いか?」
問うと、その強気な風の
「まさかっ!」
と目を丸くして驚いた。それでキャロルが小首を傾げると、女は苛立ちを露わにしてキャロルを
「誰、あなた。浮浪者? 私に話しかけて何をする気?」
「ああ、私は──」
身の上を説明しようと思ったが、女はそれを待たずして早口で
「まあ良いわ。あなたの身分を聞いたところで何の得にもなりやしない。時間の無駄とはこの事よ。いい? 私が言えるのはこれだけ。『私の邪魔をするな』」
キャロルの顔を指差しながら言って、ぷいっと
煙草に火をつけてその様子を眺めていると、女は唐突に『あ!』と声をあげた。何か閃いたのであろう。
「これも何かの縁ね。あなた、ここで四つん這いになりなさいな」
まさか、踏み台にするつもりだろうか。嫌である。
「見ず知らずの死体を下ろして何がしたいんだ?
試しに問うてみると、女は実に
「はあ〜? 私がそんな卑しい身分の人間に見えるわけ? 私はね、
栄光の手とは、
「今すぐにそれが必要なの。急ぐ必要があるわ。少しくらいは恵んであげるから、大人しく私の為に四つん這いになりなさい」
「ん? 今すぐに必要? 栄光の手は今日明日で出来る代物じゃないぞ」
栄光の手は、
あとは罪人の脂肪から蝋燭を作る必要がある。脂肪を溶かし、
「……何よそれ。私の知識が間違っているって言いたいわけ? 私を否定するわけ!?」
女は顔を真っ赤にして激昂した。流石のキャロルも眉尻を下げる。
「ええ? そりゃあ、まあそうだけど、魔法使いくらいしか知らない知識だから、別に知らなくたって──」
しかし、女が
「ああ、結構。結構よ。もう言わないで。良いこと? 私は負けるのが我慢ならないの。これ以上は言わないで」
「……
そして
キャロルは大白亜を下山する際、長旅で使えそうなものを聖ダービー宮殿から持ち出していた。栄光の手はその内の一つ。とは言え、世間一般的に知れ渡っている効果は
女は渋い顔で栄光の手を見た。
「本気? これが?」
顔を近づけて、まじまじと見入る。褪せた手の硬い指紋や、指に生える
「うわっ。
「なんでこれが必要なんだ?」
しかし女は質問に答えなかった。
「あなた、こんな趣味の悪いものを持ち歩いているなんて、普通じゃないわね。辻占い師? それとも歩き巫女?」
「いや、私は聖──」
──聖女と言いかけたのだが。
「あなた気に入ったわ! 着いて来て! 私を手伝いなさい!」
女はパッと満面の笑みを作ると、飛び交う飛蝗に怯むことなく、小走りで街道を北へと進み始めた。
(人の話を聞かない女だな……)
心の中で愚痴を溢して、鼻から煙を噴く。まあ何というか、確かに、こんな日に1人で外を出歩くような人間が至って普通なわけがないのだけれど。
□□
強張った栄光の手をそっと開き、蝋燭を握らせる。枝の先端に手を結びつけ、キャロルは魔法で火を灯した。高く掲げて、蝋の火がぽうと虹の光環を作り出す。すると飛び交う飛蝗はそれを嫌って、2人から距離を取り始めた。
(……へぇ。確かに、松明よりかは良い虫除けにはなるな)
同い年くらいであろう高飛車な女は、メイジーと名乗った。身の上を聞いてみたが、残念ながら答えてはくれなかった。彼女としては別に隠しているつもりはなさそうで、兎にも角にも自分が話したいことだけを話す性分らしかった。
「いいこと。良くお聞きなさいな。私はね、
「え?」
媚薬作りを手伝わされようとしているのか。
「どうしても諦められない男がいるのよ」
「あまり褒められた手段じゃないな。薬なんぞ使わなくても、気立てが良ければ気に入られるよ。ほら、見たところ顔も良いし。頑張ってみたら?」
「初対面で偉そうに。顔が良いのは見れば分かるでしょ。わざわざ言わなくて結構」
キャロルはため息に煙を乗せた。気立ては難あり、
「何をやったって無駄よ、無駄! とにかく媚薬が必要なの! なんとしても媚薬、媚薬、媚薬!! ぜーったい媚薬っ!! その為に私は
「そう簡単に手に入るものじゃない」
どうも放っておくと危険な目に遭いそうな気がする。やれやれ、どうしたものか。ある程度までは付き合ってやる必要があるか。しかし、媚薬は良くない。倫理に
「ふんっ。知った口を利くわね。そもそも、考え無しに私が動き出すと思って?」
「
「当然。もう目星はついてるのよ。ただ、そこに行く為には三つの難所を突破しなきゃならない」
「ほう。三つの難所」
「ふふん。果たしてあなたに突破することは出来るかしら? 精々私から遅れないようにすることね。遭難しても知らないわよ」
「鋭意努力させていただくよ」
「でも安心なさい。第一の難所は、飛蝗のおかげで簡単に突破できるはず」
メイジーはにやりと笑って、街道の先を指差した。
「──第一の難所『
ホーソーン街道は
「やっぱり思った通りね。飛蝗たちが
荊棘の
「ふふん。良くやってくれたわ飛蝗軍団。下々の民にとっては災害かもしれないけど、私にとっては神の恵みってわけ!」
2人は落ちた棘を踏まないように、或いはまだ形を残している荊棘に服を引っ掛けないように、慎重に、長い長い藪を行った。
「でも油断はしないことよ、あなた。荊棘の道は攻略出来たけれど、第二の難所はそうはいかないわ」
藪を抜けた辺りで冷ややかな空気が立ち込めた。微かに水の匂いもしている。キャロルはうそ寒いような、
「それで、その第二の難所っていうのは?」
「──第二の難所は『霧の湖畔』よ」
□□
マーシア公爵領東部には妙な湖があった。それは数百年前、マーシアで起きた局所的な地震、通称『
湖が出現した地点は元々地形が複雑で空気の滞留しやすい場所で、湖畔には頻繁に霧が立ち込めた。昼でも松明を持たねば通行
こんな話がある。今より数十年は前のこと、街道ができるよりもっと前。或る猪狩りの
すると、木々の間に見える湖に、ふわりと青い炎が浮かんでいるのが見えた。釣り人が船釣りでもしているのだろうか。いや、何でも良い。幸運だった。猟師はおおいと声を張り上げて、両腕を大きく振った。すると青い炎は揺らめきながら猟師の方へと寄った。そして声がした。『こっちへおいで』。女の声だった。
こんな場所に何故女が1人で。一瞬疑問に思ったのだが人に会えたことの安堵が勝って、それ以上は深く考えなかった。『森の外へ案内してくれないか』。そう道案内を求めると、青い炎はついて来いとでも言わんばかりに猟師を先導し始めた。助かった。猟師は胸を撫で下ろした。
彼女は何者だろう。目を細めて霧の中を見つめれば、美しい女の後ろ姿が霞んで見えた。『君は誰だい?』。猟師は問うたが、女は『こっちへおいで』と返すだけ。『何処から来たんだい?』。これにも女は答えない。『こっちへおいで』。
猟師が不審に思った時、唐突に、ずぶりと脚が埋まった。経験から、
「街道を作る時に王都からやって来た神官が祓ったらしいわ。それでも何人かの商人は、度々女の声を聞いたのだとか。荷に火をつけられた商隊だってあるんだから」
「
「ウィル? 何それ?」
「怨霊のようなものだ。その正体は諸説あって、例えば天に辿り着けなかった罪人の魂だとか、洗礼を受ける前に死んだ赤子の魂だとか」
「へぇ……」
「王国各地で似たような伝承が残っている。話のオチとしては善良な人間を死へ
「詳しいのね、あなた
「いやだから私は聖──」
「まあいいわ。良くお聞きなさい。そこで役立つのが、この栄光の手!! コイツで退けようってわけよ!! どう? 完璧な作戦でしょう?」
問うてくれる癖して答えを待ってはくれない。なんと
「街道が使われなくなった今、湖畔はどうなってるのかしら? もしかしたら火の玉が大きくなってるかもね? ふふふ。まっ、精々驚いて逃げ惑わないことよっ。私から離れたら終わりなんだからね。良い? 分かった?」
「はい」
次第に木々が鬱蒼としてきて、濃霧が立ち込めた。確かに迷い人が出ても可笑しくない程の霧深さで、30
「ひっ……!」
唐突にメイジーが声をあげ、震える手で一点を指差す。
「あっ、ああ、あっ、あれを見てっ!」
遠く、濃霧の先に青く光る炎が見えた。それは
「まずはその指を下ろそう。あんまりまじまじと観察しない方がいい。霊の
「あ、あんた驚かないわけ!? どうして平然としていられるのよっ!」
2人は愚者火を無視して霧の中を進む。しかし、その青い炎はふらふらと左右に振れながら、送り狼のように着いて来た。メイジーはわなわなと震えながら断固無視を貫こうと努力するが、恐ろしいことに青い炎は1つ、また1つと数を増やしていった。やがてその数は、20余りとなった。
「ククク……。凄いな。ここまでの数は記録にないんじゃないかな。史上初だぞ」
「何よ、その悪人みたいな笑い方っ。ってか反応して大丈夫なわけっ!? 現世と隠り世はっ!?」
「この程度なら大丈夫だよ。雑談、雑談」
「適当女っ! 燃やされたらあんたを呪ってやるわっ!」
「
「か、囲まれてるけどっ。襲われないわよね……?」
「どうかな」
「襲われるとどうなる……?」
「猟師のように燃え尽きるだろうな」
メイジーはさあっと青ざめて、キャロルの腕に自らの腕を絡めて
「だ、だだだだだっ、大丈夫なんでしょうねっ!?」
「メイジーが信じる栄光の手を信じろ」
掲げられた栄光の手からは
「は、はんっ! たっ、たたた、大したことないわねっ! 私を驚かせようったって100年早いわ!」
「あっ。そんな調子で挑発すると……」
愚者火が一つ、虹の境界を割ってひゅんとメイジーの頬を掠めた。弾丸の速さだった。
「ひいっ!!」
現世と隠り世の垣根を超えてしまったらしい。反省したのだろう、メイジーはもう二度と愚者火を挑発することはなかった。
「霧が少しずつ晴れてきた。あとちょっとだ、頑張れメイジー」
「なによ偉そうにっ! あのね、霧の湖畔を越えたら第三の難所が現れるのっ!! 次の難所は本当に、本当に本当に怖いんだからっ!! 覚悟なさいっ!!」
「私をビビらせる事に目的がすげ替わってないか?」
木々の間隔がゆったりと広がり、柔らかな光が霧を満たし始めた。
飛蝗は湖を嫌って到達していない。羽音もなく、通行人もない。つまりは静かな街道がそこにあった。
キャロルは街道の先を見つめた。
「街か……」
遠く、
「ふふふっ。楽しくなってきた旅もそろそろ終着地と言ったところね。最後にして最強の難所の登場よ。あなたの恐怖に歪む顔が楽しみだわっ」
「ん? 楽しかったのか?」
メイジーは不意を突かれたように目を丸くし、そして赤面した。
「馬鹿ねっ! 言葉の
「しかし、どうしてこんなところに街が? メイジーの話では街道は使われなくなって久しいはずだが……」
「はんっ。何にも知らないのね。この街は──」
「ああ、そうか。中継地か」
「ちょっと!! 私が答える前に答えないでよっ!!」
怒られてしまった。キャロルは煙草に火をつける。これは嫌味だが、メイジーと一緒にいると煙草が美味しい。
さて、街の名前はスタンリー・ジェンキンスと言う。街道作りを指揮した商人の名前をそのまま取った。元は単に在所と呼ばれていた庄で、猟師たちが住んでいた。街道が形作られてゆくと、難所オールドマン湖に入る前に
「──あの街こそが第三の難所『
街道が使われなくなると、2年3年で
「
「へぇ……」
「でもね、そこに
メイジーは期待を顔に滲ませて、ぐっと拳を握った。
「さあさあ、私たちのような女子が身一つで入ればどうなってしまうかしらね!? あなたの顔が恐怖に歪むのが楽しみだわっ!!」
「私がこてんこてんにやられたらどうするつもりなんだ?」
「え? それは困るわよっ!! 栄光の手で何とかしてよねっ!!」
そして2人は郭門の前で立ち止まった。通行料をうんとせしめたであろう門は硬く閉ざされ、門番も見当たらない。キャロルはゆっくりと門を押す。
まず2人を出迎えたのは広場であった。敷き詰められていたはずの
「宿場にしては気合の入った広場だったようだ。……ただ、人っ子1人いないな」
「おかしいわね……」
縦に長く作られた宿場であった。通りは広く、大規模な商体が通行する事を想定して作られた宿場だと見て分かる。ずらりと並ぶ宿舎、それから
キャロルは目に付いた酒場の扉を押し開けた。埃の匂い。中は荒らされていて、衣服や毛布等が散らかっている。街に盗賊が住み着いたというのは間違いなさそうだった。
「第三の難所は呆気なく終わったのかな」
そして板張りの床に挟まった硬貨を引き抜いた。金貨だった。噛んでみれば歯形が残る。純金だ。よく見れば部屋のあちこちに金貨が落ちている。こんな価値のある物を
メイジーは頬を膨らませて、
「うるさいっ! 盗賊がいないなら結構! ならさっさと
キャロルは頷いて部屋を出た。行き先は既に分かっている。街に茄参があると聞いた時点で、
茄参という植物は、往々にして穢れに根付くものである。死骸から漏れ出る体液を糧とする事で、根に
絞首となった罪人は見せしめの為に大抵3日は吊るされた。その間には必ずと言って良いほど、体から糞尿が漏れ出る。それがぽたりぽたりと滴ると、地も穢れよう。その首吊り台が使われれば使われるほど、茄参好みのする土壌が出来上がるわけだった。刑場が機能している内は、処刑人が地を踏む為に芽が出ることは少ない。しかし使われなくなれば、休眠していた芽が
ここは宿場にしては規模が大きい。であれば荷を盗んだ罪人等を吊るす為の刑場もあるだろう。十字路があればそこに、無ければ街の中央に備えられていると思うのだが。
「……あったわ。首吊り台よっ!」
宿場の中央付近、大通りと蔵の連なる脇道が交わる十字路に
「しめたっ。やっぱり生えて──」
「待て」
言ってキャロルは、メイジーの口を押さえた。そして素早く伝馬所の扉を開けて中に入る。
「何するのよっ!」
「しっ。臭いがする」
キャロルは出入り口からそっと顔を出し、十字路を覗いた。何もいない。が、極々小さく地面が揺れている。遺棄された伝馬所の、棚や
「第四の難所と言ったところかな」
メイジーもひょこっと顔を出し、十字路を見た。何もいない──と思った瞬間、殆ど音を立てずに、ぬうっと体の大きな魔物が十字路に入ってきて、そして木枠に体を擦り付け始めた。四足の魔物である。メイジーが今まで遭遇した中で、最も大きい魔物であった。立ち上がれば13
それは熊に似ていた。毛深く、茶色い。ふわふわとしている。しかしながらその柔らかな毛皮の下には岩のような筋肉が潜んでいる事は明白、顔には
その魔物は意味ありげに木枠を5周すると、今度は後ろ足で首を掻いて、ごろんと寝っ転がった。
「なっ、なななな、なんじゃありゃ……!」
「
魔物の中でも特に群れることを嫌い、巣を持たない性質のあるものを『獣王』と呼称する。唐突に現れては家畜や人間を喰らって人々の暮らしを破壊するから、一般的に雷や山火事と同等の災害として数えられた。
「梟熊は見ての通りのデカブツで、とにかく力が強い。腕の一振りで塔を壊し、頭から突っ込んで城を崩壊させたなんて話は枚挙に
しかし理外の
「街に住み着いた盗賊は梟熊に喰われたんだ。梟熊は
「な、何よ。随分と知った口ね。出会したことがあるわけ?」
「いいや、初めて見た。
しかし、随分とまあ、のんびりとした個体である。本来魔物というものは殺気に満ち満ちて、ピリピリとした空気を放つもの。群れることでしか事を為せない亜人でさえも、乱暴を働いてやろうというその嫌らしい瞳には悪寒を感じる。比べて、この魔物はなんだろう。その姿は見世物小屋の熊と然して変わりない。
「基本的に獣王は餌を求めたり殺戮を求めたりで移動を続けるものだけど、コイツにはそうするつもりも無さそうだな。何日もここに滞在しているんだろう」
「あの魔物を退けないと茄参が取れないわよ。栄光の手じゃどうにかならないの?」
「デカすぎる。無駄だろうな」
「じゃあどうすんのよっ。諦めろってわけっ?」
魔物は寝転んだまま四肢をぐいと伸ばし、
「なんて太々しいヤツ。完全に油断してるな」
思うに、盗賊たちが非力過ぎたのだ。彼らを襲うことは、枝に実った柿を毟るに等しかった。だから、この宿場で待っていれば直に新たな獲物が現れて、また殺戮と食事を楽しめると見込んでいるのだろう。次いで、あの十字路もお気に入りだ。魔物は穢れの堆積した場所を好むわけなので。
キャロルは腕を組んで考える。さて、どうしたものか。己1人であれば悩む必要はない。真正面から戦っても良い。もし
「
「へ?」
「
メイジーは目をぱちくりと瞬かせた。
「そりゃあ、まあ、耳を塞ぐつもりだったけど」
メイジーは肩に下げた
「練り
瓶からコロコロとした硬い蝋を出して、メイジーは指で
「あなたはどうするわけ?」
「こそっと寄って
「ひ、引き抜くっ!? 生身で!?」
「そんなに心配することじゃない」
「ちょっ。じゃ、じゃあこの耳栓をつけて行きなさいなっ」
「いや、大丈夫。メイジーはしっかりと耳を塞ぐこと。隙間なく蝋を耳穴に詰め込め。思うよりもデカいぞ、茄参の声は。出来るなら私が抜く瞬間に、その上から手で耳を覆うといい」
「というか、あの魔物の側を通らなきゃいけないんでしょ!? 危険よっ!」
「野性を失った魔物ほど簡単な相手はないさ」
言ってキャロルはやおら歩き出し、十字路に向かって行く。
(え〜〜〜〜っ!! いくら魔物が寝てるからって、あんな堂々と出てっていいの!?)
メイジーはわたわたと焦りながら蜜蝋を耳の穴に詰めた。
一方のキャロルは音を立てずに梟熊の横を素通り。当の梟熊は接近に気がつく事なく、くうくうと寝ている。キャロルは木枠にまで寄って、その根本に生えた菜っ葉を掴む。軽く力を入れて根の張り具合を確認。一思いに引き抜けるだろうと確信を得て、そしてメイジーに視線を送った。
(ほ、本気でやる気……?)
メイジーは身振り手振りで『戻ってこい!』と伝えた。茄参の声を聞けば人の心は壊れる。陶器を床に落とすかのように砕けよう。媚薬を夢見て気ぶりとなった商人の噂も
「ああもう!
そしてキャロルは肺いっぱいに空気を吸い込んで、凄まじい大声──と言うか
根が土から顔を出して叫び出す。空気をびりびりと震わせる。メイジーは
梟熊は目を覚ました。飛び跳ねたように立ち上がると、ぴんと手足を張って硬直。棒のように動かなくなって、そのまま後ろに倒れ込み、ズドンと地を揺らした。全身を痙攣させ、仰向けのまま立ち上がらない。嘴からは泡を噴いている。
キャロルは茄参が黙ったのを認めると声を出すのをやめた。そして梟熊の眉間に短剣を突き刺す。これで梟熊は死んだ。
「え? 終わった?」
メイジーは耳から蜜蝋を抜いて、キャロルに走り寄った。短剣が突き刺さったままの梟熊の傍を、
「あんた、大丈夫なわけ!? 気が狂ってない!?」
「私も一緒に叫んだから、茄参の声は聞こえなかった」
骨導と気導、内外双方から自分の声で内耳を満たし、周りの音を掻き消した。何故だかは分からないけど、体感的に茄参の声を認識できなければ、狂気に囚われることは無い。……とキャロルは説明し、メイジーはポカンと大口を開けた。
「なんって大雑把な……」
「学園でも茄参は植っていたけれど、わざわざ耳栓を用意して引っこ抜くヤツなんていなかったよ。大概ぎゃあぎゃあと叫びながら抜くもんだ、こんな野菜は」
茄参は万能な薬材である。従って、聖隷カタリナ学園の
「学園? それって
「通ってたも何も、私は聖女なんだって」
メイジーは一瞬きょとんとすると、直ぐに怪しむように腕を組んで、キャロルの顔をじろりと
「あんたみたいなガサツな女が聖女なわけないじゃない。魔物を倒したのは認めてあげるけど、調子に乗って妙な事を言わない方がいいわよ」
□□
媚薬を作る際には、
茄参を洗ったらば、まず根を
味は美味である。不思議なことに葉は不味くて臭いが、
色も良い。まるで
キャロルは出来上がった媚薬を、鍋から練り蜜蝋の瓶へと移した。馬宿の
「これが媚薬……?」
メイジーがそっと瓶に手を伸ばすが──。
「ちょっと待った」
直ぐにキャロルがそれを引っ込めてしまった。
「えっ!? 渡さないつもり!?」
「タダじゃ難しい」
「こ、ここに来て交渉ってわけ? あなた思いの
「違う違う。金なんていらないよ。いいか、メイジー。私の話を聞いてくれ」
キャロルは媚薬の入った瓶を、窓から差す光に透かした。不純物のない、出来の良い薬となった。十分過ぎる程の効果が期待できる。
「媚薬を使うのは道徳上良くない。惚れた男には真っ向勝負しないと。ここまで付き合っておいて途中で
メイジーは眉根を寄せて、キャロルをじっと見た。
「そんな顔をしたってダメ。もし他人に飲ませないと誓うなら、渡してやっても良い」
そしてメイジーは
「はぁ〜〜。あんたねぇ、人の話を聞かないで説教を垂れるのは良くないわよ」
「それをお前さんが言うのか……」
「──飲ませようたって、もう相手がいないんだから。そんな事、出来るわけないじゃない」
□□
来た道を戻った。栄光の手を高く掲げてオールドマン
山路を行った。
メイジーは井戸から水を汲んで墓石の一つに寄ると、えいと水を浴びせた。次いで舌打ち、墓の横に置かれた馬毛の
「これで後腐れなく終われるわ」
メイジーは勝ち気な笑みを作って、鼻息荒く勝利を宣言した。
「万事よし。あんたは私に惚れた!」
甲高い声が山々に
「……そんなに良い男だったのか?」
「ふんっ。何処にでもいる下男よ。私の知らない所で勝手に魔物に襲われて、勝手に死んでた」
メイジーは続ける。
「私はメイジー・ゴドウィン。ゴドウィン家の一人娘。どうせ知らないだろうから教えてあげるけど、そりゃあもう名家中の名家なんだから」
ゴドウィン家はマーシア公爵領東部商工
「ハイシェパーストウは羊の産地として名高いわ。だけれど、この通りのド田舎でしょう? 貴重な山野草もわんさか取れるのよ。私もお父様の命でハイシェパーストウに
メイジーは寂しい目をして、じっと墓石を見つめた。
「いくじなしなのよ、この男。私に気があるくせに、いつまでも避け続けて。私からやんわりと好意を伝えても
冷たい風が吹いて、メイジーの髪を揺らした。
「私ね、王都の商人の所に行くの。もうここには来られない。毎節のように来てたけれど、今日でおしまい。最後にこの男を本気にさせたかった。……朝起きたら空を飛蝗が埋め尽くしていたわ。媚薬を手に入れるなら今しかないと思った。それで周囲を振り払って屋敷を飛び出して来たけれど、我ながら正しい選択をしたわよね」
「
「馬鹿ね、
しかし、メイジーは胸を張る。
「でも良いの。この天変地異で次々に商家が取り潰しになる中、ゴドウィン家は守られた。私さえ王都に行けば融資を受けられるのよ。私が家を守っただなんて、名誉なことだわ」
にっと笑って、キャロルに振り向く。
「人に飲ませる為に媚薬が欲しかったわけじゃない。私の中の区切りをつけたかっただけ。納得出来たかしら、
「聖女だって信じてくれるのか?」
「あら、調子に乗らないでくれる? あんたに合わせてやっただけよ。私は
キャロルは軽く鼻で笑って、聖水を墓石に垂らして十字を切った。
「
「この時期なら
「
「何よ、藪から棒に」
「私からも何かしら
立膝をついて、キャロルは地に手を置く。無詠唱、体の内で光の力を増す。──僅かに地が輝く。ふわりと髪が躍ったかと思えば、幾つかの緑の芽がふつふつと土を押し上げた。瞬く間にそれが花開く。次々に芽吹いて、咲いて、最後には墓地全体に撫子の花が
メイジーは呆然と立ち尽くした。辺りを見渡せば薄桃色の海。たった一呼吸する内に、柳を中心に花畑が現れた。
「……凄いわね、あなた」
「そういう芸事が得意なだけだよ」
そしてメイジーは花畑に恋焦がれた男の幻影を見た。秋の日に初めて出会った時の光景だった。マーシアの山々で育った撫子が
「さあ、行こう。大きな街まで送ろうか?」
「私はもう少しここにいるわ。きっとこの花畑も、飛蝗が来たら消えてしまうでしょう?」
キャロルは無言で肯定した。
「今日は私の自己満足に付き合ってくれてありがとう。あなた、名前は?」
「リトル・キャロル」
「ふぅん。どっかで聞いた事のある名前ね」
「よく言われるよ」
2人は花畑の中で別れの言葉を探した。長い沈黙を経て、先に口を開いたのはメイジーだった。結局選んだのは、飾り気のない在り来たりな言葉だった。
「さようなら、キャロル。楽しかったわ」
「うん。さようなら、メイジー。体に気をつけて」
キャロルはメイジーに背を向けて、薄桃色の墓場を出た。太陽は西に傾き始めている。あと数刻ほどで空は紺色に染まるだろう。雲は無い。代わりに飛蝗の群れが遥か遠くを
背後から