シュウと音が鳴った。ネリーという女の両耳から赤い
その飛沫はネリーの上部、宙に浮いて一つに集まり、ちょうど顔程の大きさに纏まって、円形の玉となった。それは紅玉のように赤く輝き、ぷよぷよと波打って
「魔物……ッ‼︎」
エリカは即座に反応して、それを斬る。だが、手応えがない。刃が玉を通過した。
「
キャロルは3度十字を切って、聖水と塩を撒いた。
「コイツは耳から体内に入り込んで、脳を吸う。体液に成り代わって、体を乗っ取られるぞ」
弾かれた
キャロルは
車厘に命中してドンと炎が上がったが、体が飛び散っただけで、無傷。魔法でも攻撃の通りが悪い。そして、分散した車厘はスッと壁の中に消えた。
「逃げた……⁉︎」
エリカが言って、キャロルは
「いや、違う。殺気が消えていない。
「ほ、他の……?」
エリカは走って、至聖所から出る。その先の廊下、一人の女の子が腰を抜かして動けずにいた。女の子の正面、分散した
「あの時、お母さんに付き添ってた女の子」
この童女は責任を感じていた。姉が自分を庇って嫁入りしたのに、雨は止まず、母も変わってしまったから。だから、静かにキャロルらの後を追って、その仕事を手伝おうとした。
けれど途中で、洞窟のおどろおどろしい雰囲気に怖気つき、どんどんと離されてしまった。泣くものかと涙を我慢して歩き、やっと辿り着いた迷宮の先に、
雨の音が洞窟内にも響いていたのと、数多の霊の気配がしていた為、誰もが彼女の追跡に気づけなかったのは不幸だった。
集合した
「ダメっ!」
エリカは庇おうと踏み出したが、とても届く距離ではない。
その隣、ウォルターが呟いた。詠唱。
『──血潮よ、その
ウォルターは地を蹴り、
「ガフ……ッ‼︎」
そして、ウォルターは黒い血を口と鼻から吐いた。目は真っ赤に充血し、強化魔法をかけた脚も
ウォルターが詠唱したと同時。キャロルは朝顔の実を握った手で聖書を一
『──いと聖なる財産に不敬な手をかけん者、
手の中の実を砕いた瞬間、
「やはり亡霊の類だったか」
キャロルは剣も魔法も効かなかった事で、これは異常だと考えた。そして、『王の涙』の御伽話がただの作り話では無かったのと、霊の気配がしていた事を思い出す。それで、この
「何故、術を使った」
キャロルは脚を押さえて
「お前は、あのまま目の前で脳を吸われる様を見たかったのか……?」
ウォルターは黒い血を吐き出しながら、苦く笑った。目からも涙のように黒い血が流れている。
「舐めるな! お前が動かなくても、祓いは間に合った。お前がやったのは無駄に自分を痛めつけただけだ」
キャロルは強く言い、膝を立てて呪いの進行を確認する。
「二度とするな。私を信じろ」
ウォルターは血の痰を吐き捨てた。それが次々に溜まって息がしにくい。
「ならば……、俺を信じて呪いを……、解きはしないのか?」
「減らず口を叩くな。虜という立場を変えることは出来ない。騎士なら分かれ」
そして、ウォルターは小さくため息をつく。
「優しいのか、厳しいのか……」
□□
至聖所でウォルターの治療が進められた。
キャロルは呪いで傷ついた臓器と、首の傷を修復するための水薬を作り、それを飲ませた。
ウォルターはその間、若い女の死体をじっと見ていた。
「あれは誰だ。話せ」
キャロルが問うと、静かに答える。
「ネリー・アーヴィン。出自は商人だ。軍の新参者で、魔法学校を卒業したばかりの、天才と云われた魔法使いだった。18歳のはずだ」
エリカは同い年だと知って、胸が痛んだ。母親の亡骸を含め何人もの死体を見てきたが、歳の近いのは初めてだった。
「獅子侯閣下に手厚く育てられていた。戦略会議にも参加していたよ。その度に
エリカはネリーの顔を覗きこんだ。虚な茶色い瞳に正気はないが、それでもなお美しい。顔には薄い
「そんな子が何故、生贄を連れ去ったのか……」
ウォルターが言って、少しの沈黙が流れた。それで、キャロルが小さく言う。
「優しい子だったのなら、悪者になりきれなかったのだと思う」
「……どういう意味だ?」
「生贄ならば、元々死んでいるものと考えたんだろう。それを連れ去るなら、そこまで心が痛まない。獅子侯の命令に従って、何の罪のない女を連れ去るより、生贄を連れ去ることで自分の心を守ったんだ」
キャロルはこう続ける。優れた魔術師なら、学びの中でこの村の晴れ乞いの儀式を知っていたのだろう。それで
「隠伏の魔法で気配を殺しつつ、生贄を『馬車引き』に渡していたのだと思う」
ネリーの気配に三人とも気が付かなかったのは、
「だが、恐らく罪悪感に苛まれたんだろう。たった1人で
エリカはネリーの左手を見た。小指、薬指、中指の爪がない。また、腰に下げている袋には自分の髪を切って入れており、瓶には自分の血を入れていて、用いた形跡がある。そして、壊れた
「つまり、この子は卿のように割り切ることが出来なかった」
□□
祭壇の裏に隠し扉があり、開けるとそこには小さな部屋があった。寝台と机と椅子が一つずつ。それから腐った金貨が入った袋が5つ。キャロルはここを、いよいよ敵が攻めてきた時に王が隠れる場所だったのだろうと推測した。
床には魔法陣があった。その中央にあるのは割れた銀の瓶。中を覗くと、血の塊と枯れた
「封だ。やはりあれは『封印の獣』だったと言って良いだろう。王の血溜まりが怨念を含んで、それが魔物となったのだと思う」
「そんな事があるんですか?」
「亡霊の類だ。奴らが死体や骸骨に取り憑いて、
「きっとこの封を施した者は、魔物として討伐しようとした。だが核となる怨念を祓う事が出来ないと倒しきれない。だから、不可思議に思いながらも封印した。きっとネリー・アーヴィンも魔物として対峙したんだと思う。極端に強い、ただの
キャロルは割れた瓶に塩を撒いた。そして瓶の破片をじっくりと見る。
「この封は並の人間が壊せるものじゃない。卿の言う通り、ネリーは天才だよ」
破片を隣に立つウォルターに渡す。
「願わくば、少し見ない間に大きくなったと言って、再会したかった」
部屋の壁には、血で描かれた魔法陣があった。見るに、雲を寄せるもの。つまり、雨乞いの魔法である。
「面白い術だが、私たちには使えないな。術者が死者である事が条件だ」
キャロルは魔法陣に聖水を浴びせる。次いで、吸っていた煙草の火種を押し当ててそれを無力化させた。聖火と香の代わりである。
□□
洞窟を出る。銀の小雨が降っている。鉛色の空から光の帯が何本も降り注いでいた。晴れの日が生まれようとしている。遠く、東の空には大きな虹。
「姉ちゃんも、生贄に選ばれた子達も、必ず俺が連れ戻す。約束だ」
ウォルターはそう言って女の子の頭を撫でてやった。少女は黙ってこくりと頷く。
キャロルは小さな瓶を女の子の掌に乗せて、ぎゅうと握らせる。
「
少女はお金はいいの? と問うた。この薬もそうだが、
「いらない」
キャロルは微笑んで言う。それで、少女は村に向かって駆け出した。
ウォルターはキラキラと光る坂を降りてゆく少女の背中を見て、ふっと笑った。それは小さな子供を見守る親の笑顔だった。
「……そんな顔が出来るんですね」
「娘に似ていたんでな」
ウォルターはそう言って馬にネリーの亡骸を乗せ、差し縄を引いて歩き出す。少女が行くのとは逆の方向へ。
「……娘さんは今もどこかで待っているんですか?」
エリカは聞こえるか聞こえないかの小さな声で問うた。
何故だか、ウォルターを知りたくなった。体を張って女の子を守る姿を見たからか、ネリーの亡骸を見つめる瞳に悲しさを認めたからか。それは分からないし、憎いのも変わらない。耳飾りを投げ捨てられたのも、未だに腹が立つ。だが悪者と決めつけて接するのも、何か違う。
とにかく、よく分からなかった。でも、彼のことをもう少し知れば、
「もういない。目の前で
ウォルターは歩きながら、エリカに少し振り向いて言う。
「砦から逃げる途中だった。背中を掴まれて空から地面に叩きつけられた。5頭の
エリカは歩みを止めてしまった。目の前で死んでいった母を思い出した。ウォルターに自分との共通点を見つけてしまった。
「領は滅んで、2人の死を弔ってやる場所がない」
蒸れた土の匂いを乗せて、追い風が吹いていた。
「──だが閣下さえ生きていれば、きっと、故郷を蘇らせてくれる。二人の還る場所を作ってくれる。俺は、俺だけの為に閣下を信じているわけじゃない」
ウォルターは再び前を向く。
「ニーナは、あと3日で8歳の誕生日だった。贈り物にと、
□□
川の下流。流れは幾分、穏やかになり始めている。キャロルはネリーの亡骸に
ウォルターはその様子をずっと見ていた。何を言うでもなく、ただ棒のように立って見ていた。亡骸が流れて見えなくなっても、消えた先、川の流れるのをいつまでも見ていた。
キャロルは最後にもう1度十字を切って、馬の元へ歩んだ。出発である。それでもウォルターは動く気配がない。だからエリカはウォルターに寄った。
「行きましょう、ウォルターさん。きっと、ロングランドに辿り着きますよ」
「……そうだな」
二人は並んで馬の元へ歩いた。
□□
その後しばらく街道を行き、リゴー橋前の馬宿で休むことにした。
キャロルは空に向けて、依頼終了を意味する緑の閃光弾を放ち、梟を呼んだ。そして梟が持ってきた報告書に結果を書き、署名をする。──
エリカは一人、橋の中央まで歩き、そこで梟を少し愛でて空に放った。怖いくらい真っ青な夏の空を、西に沈む太陽が赤く染めている。薄い雲は赤から逃げるように、忙しなく東へ、東へと向かう。梟はその雲と共に飛んで行った。
何だか、今日あった事の全てがやるせなくて、切なくて、どうしようもなくて、エリカは橋から身を乗り出し、整理できない感情を全て声に乗せて、わあと叫んだ。そして眼下、川を見ながら胸で浅く息をする。
風が吹いて、エリカはふと気がつく。夏の匂いが戻ってきた。
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