リトル・キャロルらがラロッカの
オルテン街道を西へ進み、暗い
白くぼけながらも見えて来たのは、点々と
徐々に回復して行く視界の中、質素な木造の家が連なっているのが分かった。よく見れば、猫や犬といった動物が
「海……」
集落の向こうに広がるのは、どこまでも広い、真っ青な海。
「すごい……」
山地で育ったエリカは海を見たことがない。勿論、話には聞いたことはあるし、子供の頃は湖で遊ぶこともあったから、なんとなくの想像はついていた。だが、それでも思い描くのと実際に見るのとでは、随分と印象が違った。キラキラと煌めく
海からの涼しい風が吹いて、前髪が踊った。汗ばんだ額に、ひやりと潮風が触れる。嗅いだことのない豊かな潮の香りは、湖のそれとは少し違う。耳を澄ませば、ざあざあという波の音と、海鳥たちのみゃあみゃあという歌が聞こえてくる。いつまでも眺めて居られるような光景を前に、呆然と馬の首を撫でた。
馬上、キャロルが指をさす。
「あれがサハンだ」
集落には船を作るのに使うのであろう木材や、漁に使う網、樽などが並んでいた。
「そしてあれが『聖タロスの灯台』。封印の獣が眠る聖地だな」
集落から離れた場所、長く張り出した岬。その
その上部では炎が焚かれていて、生き物のようにうねる
この炎が消えた時、自らの命と引き換えに封印した『八つ目の
封印の獣と聞いてか不安げな表情を浮かべたエリカを見て、キャロルは仄かに微笑み、煙草の吸い口を叩いて灰を落とした。
「
公示とは正教会が発行する、近々に起きた出来事をまとめた紙であり、
□□
ここからはウォルターを先頭に『馬車引き』が待機する場所へと向かう。海に背を向け、小高い丘を登ってゆく。
「馬車引きに私たちを引き渡せば、お前の仕事は終わりだ。呪いも解いてやる」
そう言うキャロルに、ウォルターは何も返さない。
「嬉しくなさそうだな。そういう趣味でもあったか?」
5秒、6秒と経ち、夏の風が吹いて、ウォルターは話し始める。
「俺は俺のやったことを間違いだとは思っていない。騎士として閣下の命さえ実行していれば、俺たちは救われるのだと思っている」
ウォルターは続ける。
「だが、今は正直言ってよく分からない」
「分からないとは?」
キャロルは馬上、ウォルターに煙草を1本、器用に指で弾いて渡した。
「信じているからこそ、知りたくなっている。何故、閣下は女を集めるのか。閣下はどこにいて、何を成そうとしているのか」
そして爪の伸びた長い小指をくるりと回して、ウォルターの煙草に火をつけてやった。
「俺の中でも何かが変わったのかも知れないな。エリカ・フォルダンが徐々に話してくれるようになったように」
エリカはハッとしてウォルターを見る。
「疑問を疑問と思うこと、つまり、自分で考えなくてはならないことを思い出した」
ウォルターは、この素性も知れない小娘2人に、
昨晩、焚き火を見ながらラロッカで起きた事について考えていた。それで、ネリーを共に
それを認めた時、故郷を失って、自分はどう変わったかを顧みる事が出来た。恐らく己は、人間を単に目的を成す道具としてしか見られなくなっていたのかも知れないと思った。だから、卑怯な手を使って女を集めることが出来ていた。己にとって他人は『焼印を刻んだ獣』という消耗品と変わりはなかった。
だが、本来はそうではない。人は自ら考えて、自らの想いで行動する動物だ。そして、自分もその人間だ。意味もなく生贄に出される乙女を見れば心が痛むし、助けたいとも思う。ラロッカでは、そう思える自分がいることに気がついた。
未だ、ネリーが死んでやるせない。彼女の菓子の味は、いつまでも思い出の中で甘く華やかであり続ける。失った我が子を思うと、泣きたくなるくらいに悲しい。妻との出会いは鮮やかだった。──もし時が戻せたなら、次は命を投げ打ってでも3人を救いたい。
騎士として自分を封じていた己でさえ、これだけの人間らしさが残っていた。もし、キャロルとエリカに出会えなかったら、自分の中の人間らしさは、やがて消え失せ、人ではなく獣に成り果てていたかも知れない。
出会いは最悪だったかも知れないが、今では感謝している。
「お前が橋の上で叫んでいたのも聞こえた。この歳で
エリカは少し
ウォルターを連れて旅をする事は、最初は嫌だった。大好きなキャロルの決定だから何も言わないが、正直な所、
だけれど、ウォルターが何を考えているのかが分かった今、これで終わりなのが寂しい気がした。一緒に魚を釣ったことも、ネリーの亡骸を川に浮かべた事も、きっとこの先、忘れられない。
単純に人を憎めれば楽なのに。そうであれば虜と主という関係で、とてもわかりやすい。悩まなくても良いし、胸のもやもやも晴れよう。
エリカは溜息交じりに空を見上げる。走り出したくなるくらいにどこまでも澄んだ青空が、なんだか悔しかった。空の下、冴えて煌めく夏の世界も、同じく悔しい。
「そう言えば、聞くのを忘れていたな。何故、お前たちはこの問題に首を突っ込む」
キャロルはウォルターの問いに、さらりと答えた。
「放っておけないからだ」
「放っておけなければ、何でも首を突っ込むのか?」
「誰かが言うに、そういう定らしい」
ウォルターは鼻で笑う。本当に、この娘はいったい何者なのだろうか。
「あの……」
エリカは小さく言う。
「一緒に突き詰める気は無いんですか? 獅子侯が何をしようとしているのか」
ウォルターはそれに対して暗い笑いで返した。
「知るのが怖いんだ」
共感して、エリカは再び俯く。幼い頃、両親が死んで自分に印が刻まれた時、何故それに至ったのかを知るのが怖かった。知らなければ、ただの可哀想な女の子でいられるから。
□□
辿り着いたのは丘の上にある牧場だった。
広大な原の上に管理小屋と、幾つかの
その管理小屋に近寄り、ウォルターが扉に手をかけた時、ふいに動きを止めた。後ろにいたキャロルも、エリカも、理由は分かった。扉の向こう、異様だ。
「死臭がします」
エリカは剣の柄に手を添えた。誰かがいる気配は無いが、用心に越した事はない。
「開けるぞ」
ウォルターは扉から手を離し、勢いよく蹴り開けた。薪の棚と
「う……」
エリカは思わず口を抑えた。あまりに残酷な亡骸だった。性別はうまく判断できない。小柄だから若いのか、それとも小柄な大人なのか。
「ウィル……」
呟いて、ウォルターがゆっくりと近寄る。潰れた亡骸を壁から剥がしてやろうとするが、
「馬車引きか?」
「いや、違う。馬車引きの
馬車引きはアンデルセン伯爵領の騎士。他に従騎士が三人いて、みな12歳の同い年。馬車引きを手伝ったり、潜伏中の金を工面したりするのが仕事だったと、ウォルターは説明する。
ウォルターにとっては三人とも故郷にいた頃から知る仲で、剣技を指南することもあった。このウィルという男子には魔法を教えていた。故郷が滅んで別れるその時、いつかもう1度魔法を教えると約束していた。
「一体誰がウィルを。俺が女を集めた事で、復讐にあったのだとしたら、俺は……」
キャロルが死体に触れる。全身に対して均等に圧力がかかり、骨も肉も潰れている。
「今言えるのは、闇の魔法だということ。強烈な重力で押し潰されている」
気温が高い事もあってか腐乱している。だが腐った臭いに混じって、キャロルは
「──カタロニアの人間が好んで使う香だ」
何か嫌な予感がした。胸の奥深くでねっとりと絡みつく、例えば薬に使う
エリカは小屋の中を物色した。寝台の下には大量の酒瓶が転がっていて、馬車引きの男が荒れた生活をしていたことが想像できた。暇を潰すための
「……これは」
エリカは机の上、小さな日記帳のようなものを発見した。書き途中だ。きっと、これを書いている最中に襲われたのだろう。
表紙は血に塗れているが、細かい細工が施されていて、汚れる前は美しかった事が分かる。見るのも悪い気がするが、何か分かるかも知れないので拝借する事にした。
□□
その後、牧場内に馬車引き、もしくは犯人がいないかを三人で捜索したが、良い結果は得られなかった。
厩舎の裏、小さめの風車の側に丁寧に弔われた墓が二つ。恐らくはこの牧場主のもの。
家畜小屋には牛や山羊などの動物がいた。動物達は弱っている様子はなく、持ち主が変わった後も大切にされていたようだった。ウォルターは従騎士たちが世話をしていたのだろうと予測した。
管理小屋の地下室は、簡易的に作られた礼拝堂。そこにある小ぶりな女神像は、椅子に座っていて、腕が三本あった。それぞれ剣と槍と弓を持ち、背に太陽の盤。『
牧場にあった建物は
その為、キャロルは亡骸を剥がして、何者が何の目的で従騎士を殺すに至ったのかを探ることにした。ウォルターもまた、それを手伝う。
狭い小屋の中、3人もいては
日記は血で読めない部分もあったが、内容は何となく解読出来た。国が滅びて騎士や貴族達とカレドニアに来た事。健気な民達を置いてきてしまった事。親と別れた事。潜伏するためにこの牧場主を殺さなければならなかった事。墓を作って弔った事。そして彼らを殺した事を詫びる文面が何度も繰り返されていた。
また、主人である馬車引きが酒を手放せなくなった事や、日ごろ暴力を振るわれている事、家畜は可愛いという事、生まれ変わったら家畜になりたい事、国はもういいから女を集めるのをやめたいという事が書かれていた。
エリカは日記の中、血で滲んだ鳥や犬の落書きを、指でなぞった。可哀想に思った。このウィルという子には会ったこともないのに。本来なら敵の
実は閣下というのは良い人で、攫われた女は丁重に扱われており、きっと女だけの優秀な遊撃隊を作り、ロングランドへと戻って失った土地を取り戻すとか、そうした都合の良い望みを抱いている。女を集めたくないと日記に書くウィルに『大丈夫、閣下を信じて』と励す己の姿さえ妄想する。
獅子侯を、信じようとし始めている。確証もなにもないのに。助けたいと思っていたはずのシャーロットの顔も、記憶の中で遠い。
「私は、
シャーロットや連れ去られた女達を助けたいと思って、ウォルターら百獣軍が憎いと思って、獅子侯を追っている筈なのに。それが揺らぐ。芯が無くて軽薄だから、きっとこのままではシャーロット達を裏切ってしまう。つまり、どっちつかずの薄情で最低な人間なんだ。
──こんな日記、読まなければよかった。
そう思うと、じわりと目に涙が溜まった。
涙が落ちないよう顔を上げた時、原の真ん中に1羽の
エリカは不思議に思って、鴉の降り立つ場所に寄った。そこにあったのは、伸び切った草に埋もれた亡骸。12歳程度の男子。恐らくは従騎士。
「キャロルさ──」
エリカがキャロルを呼ぼうとした時、一羽の鴉がエリカの顔の前でバサバサと跳ねた。
「うわっ……!」
驚いて、尻餅をつく。それで気がつく。この少年、布と短剣を隠すように抱えている。
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