不良聖女の巡礼   作:Awaa

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58.聖女

 

 満天の星。太白(たいはく)は黄金に光る。風は南南西から緩やかに吹いて、木々をさわさわと揺らしている。

 

 焔聖は馬宿から高額で借りた駿馬に跨り、街道を駆けていた。主人が言うに、この黒い馬はシュリと名付けられているらしい。

 

 ニスモはまた1人で旅に出た。だけれど、今までとは心持ちが違う。運命に焼け爛れた心に燻る、どうしようもない鬱屈はあまりなく、代わりに淡く煌めく小さな決意と、()()()()()が胸にあった。

 

 ──正教会を離反して輝聖と共に世界を救うか。もしくは、離反せずに教皇の味方をし、輝聖とは関わりを持たぬか。

 

 決めた。答えは、そのどちらでもない。

 

 まず初めにやらなければならないのは、輝聖の従者らしきエリカとかいう可憐な少女に、心からの詫びを入れることだ。一瞬でも、キャロルの幸せを破壊する為に、この子がいなければと思ってしまった。その心の弱さと、若さが彼女を傷つけたのだと思う。

 

 それから、輝聖と少しの対話をしてみようと思った。彼女の全てを突っぱねて来た己を、変えてみるつもりだ。

 

 たとえ彼女の強さを前に自分の弱さが際立っても、堪えたい。手を取り合える部分を探して、そうするように努力する。そして、聖女としての役目を果たす。クララの為に、優しい世界を作る聖女の1人でありたい。

 

 正教会は離反しない。だが、輝聖を理解しようと挑戦はする。これが答えだ。もともと選択肢にはないものだが、聖女ならば新たなる選択肢を作る権限くらいはあるはずだ。

 

 恐らく、輝聖は既に大白亜に到着しているだろうと思う。だから焔聖は、直接聖都アルジャンナに向かった。颯の如く、街道を駆けた。

 

(──クララが笑って過ごせる世界を作りたい。心から幸せだと思える世界を)

 

 世界から瘴気が消えたら、クララと会うんだ。そして祭りへと繰り出して、今日のように楽しい1日を過ごす。後は宿に帰って、思い出を話して、そのまま寝る。翌日からも自由な日々がずっと続いている。心配事もない。心穏やかなまま楽しく暮らす。

 

 実は、沢山やってみたい事があったのを思い出した。例えば魚釣りとかをしてみたい。船で沖まで出て、釣れなければ波に揺られて気儘(きまま)に過ごす。

 

 他には、各地で劇を見てみたい。そして2人で今日の劇はどうだったとか、あの俳優は演技が上手だったとか、語り合いたい。

 

 そして、子供の頃から踊りが好きで、本当は踊り子になりたかった事をクララに話す。姉と見た劇は今でも覚えている。あれは、恐らくはリュカが生まれる前から存在する演目だ。まだ神が複数いると信じられた時代、古代の女王が葡萄酒の神に魅せられて踊り狂う。あの美しさといったら、なかった。私もあんな美しい存在になりたいと思った。

 

 とにかく、クララと過ごす世界には瘴気も魔物も必要ない。そして己には、それを消し去る力が備わっている。やる事は明白だった。

 

 芽生えた希望。止まっていた時が動き出した。僅か、自分に変化の兆しを感じる。それは今までにない活力となって、常に青白かったニスモの頬を桃色に染めさせる。星明かりは髪を撫でて、磨かれた銅のように赤の色を輝かせた。

 

 □□

 

 深夜、教皇領の関所まで続く長い坂道の途中。ニスモは馬を止めた。

 

「……?」

 

 坂の先に見える関所の砦、その門が固く閉ざされていた。普段であれば、開かれた門の前に兵士が居て、多少の問答があった後に領内へと入れるものである。だが、その兵士もいない。

 

 冷ややかな秋の夜風が吹く。深く息を吸い、それが肺を満たすと胸騒ぎがした。

 

 近づくべきか迷っていると、門扉の上の胸壁で何かがキラリと輝く。ニスモは馬から降りて、そっと身を屈めた。音を立てぬよう馬を引き、街道を逸れて、木々の陰に隠れる。今光ったように見えたのは、恐らく銃口か、あるいは(やじり)かである。

 

「どういう事……?」

 

 第一聖女隊と共に大白亜へと向かった時は何の問題もなく領に入れたものだが、随分と警戒している。こうした封鎖は戦乱の最中か、もしくは大罪人が逃亡した時くらいにしか、例がないものと思う。

 

 門扉の外に敵意を向けているのは明らか。つまり、誰も教皇領に入らないようにしている。ニスモにはそれが不気味に感じた。

 

「私が倒れている間に、何があった……?」

 

 関所を避ける為、森を経由して教皇領に忍び込む。そこからはまた駿馬に跨り、原を駆けた。闇に紛れて大白亜へと向かう。

 

(何故、関所を固く閉ざしていたのだろう。アルベルト2世が何者も入れるなと命じたのか)

 

 焦り、手綱を(しご)く。さらに馬の速度が増す。

 

(関所にいた正教軍はどうしたのだろう。王の命令に呼応して教皇領を閉ざしたのか。いや、流石に兵も疑問に思うはずだ。──何かがおかしい。辻褄が合わない)

 

 ふと、閃く。

 

(教皇ヴィルヘルムは『大白亜を護れ』と、第一聖女隊に命を出した。私とセルピコはその命を『大白亜を占拠しようとするアルベルト2世を近づかせるな』という意味だと理解した。そして、私たちは間に合わなかったのだと思った)

 

 焦りは、ゆっくりと、滲むようにして、動揺へと変貌していく。

 

(でもよくよく考えれば、僉議(せんぎ)で王の不信を招いたのは教皇ヴィルヘルム本人。その後、王がどのような行動に出るかは、南方に向かわされた時に察することが出来ただろう。つまり、私たちが間に合うかどうかは、関係がなかったのではないか)

 

 拳の中に汗が溜まり、少しばかり手綱が滑る。

 

(教皇は、アルベルト2世が大白亜に入ったと分かった上で、私たちにそこを護れと命じた? 何故? 可能性があるとしたら、何か別の大いなる意思が大白亜に対して、いや──。王だ。王に対して、何らかの敵意が向けられていた。それを教皇が知っていたんだ)

 

 教皇は敵意を大白亜に入れるな、という意味で命を出したのかも知れない。

 

(それならそうと詳しく勅書に記せば──)

 

 いや、違う。書けなかった理由があると考えた方が自然だ。

 

 教皇はアルベルト2世の命により南方へ説法に行った。王は教皇を疑っているから、禁軍も同行させた可能性も高い。書簡にも検閲があるものと思う。

 

(禁軍に王が狙われている事が知られるとまずかったのか)

 

 教皇が大白亜に座していない間、聖女に留守を守らせるというのは自然な話だ。南方への説法が急な事なら、尚更勅書で急がせる必要があるし、検閲を担当する程度の兵ならば、それで納得するだろう。一兵卒もまさか王が大白亜を占拠しているとは思うまい。

 

 だが、大白亜に王がいて、命が狙われていると単刀直入に書いてしまえば、それは話が違う。大事に至る。一兵卒も焦り、上官に報告するだろう。その後、この勅書が何者かに握り潰されてしまう可能性がある事を、教皇は危惧した。

 

 つまりこの推測だと、王に仇なす者は禁軍か、あるいは禁軍を率いる事が出来るもの、即ち──。

 

(──王族)

 

 迂闊だった。老いた王に恐怖し、輝聖への恨みで我を忘れて、真意を見抜けなかった。己を悲劇の人間だと思って、それで精一杯になっていた。

 

「急ぐよ、シュリ!」

 

 馬の首を押し、さらに加速する。馬は力強く地を蹴り、土の塊を弾け飛ばしながら闇を行く。

 

 □□

 

 聖都アルジャンナの近くにある、緑の芽が出たばかりの麦畑。そこに古い農作業小屋があったので、急ぎ馬を隠した。息荒く、泡を吹く馬の頬を優しく撫でてやり、ニスモは言う。

 

「お疲れ様。よく頑張って走ってくれた。あなた、凄いわ。ここで待ってて。必ず戻るから」

 

 顔を抱きしめ、鼻に口付けをして別れる。

 

 そして自分の足で駆けて、街に忍んだ。前に来たのと同じで、黒い鎧を着た禁軍兵士が歩哨としての役目を果たしている。だが、正教軍の白い鎧は見当たらない。その事に気を揉みながら、姿を隠して大白亜のある山の頂上を目指す。

 

 思っていた通り大白亜へと繋がる門もまた、固く閉ざされているようだった。坂の途中で崖を登り、門を経由せずに大白亜へと入る。そして王がいるであろう、カレーディア大聖堂の裏へと回った。

 

 (にれ)の木を攀じ登り、手に持っていた石で硝子窓を割る。そして、聖堂の中へと侵入した。

 

 降り立ったのは、2階。ニスモに与えられていた客室であった。机の上には筆記具もなく、棚の上には調度品が置かれていない。がらんどうである。それらはニスモが破壊してしまったし、散らばったものはセルピコが処分していた。もちろん、ニスモの私物も存在しなかった。

 

 纏わりつくような静寂の中、ニスモは丁寧にゆっくりと、一つだけ息をついて、汗で頬に張り付いた髪を払った。廊下へと続く扉の先で何か嫌な気配がしていた。いや、気配よりも、もっと()()()()()が鼻をつく。

 

(──香に混ざって、(さび)の臭いがする。血だ)

 

 そっと、扉を開ける。まず目に飛び込んできたのは、下女の亡骸だった。壁に寄りかかるようにして倒れている。尻の下には血溜まりができていて、壁につけられた燭台の灯りがそこに揺れていた。

 

 倒れているのは1人ではなかった。少し離れた場所に下女がもう1人と、禁軍兵士の格好をした男が1人。状況を見るに、彼女達をどこかに逃そうとしたが、ここで追い詰められて斬られたらしい。

 

 ニスモは頬に伝う汗をそのままに、軽く十字を切った。そして、兵士のそばに転がっていた剣を手にする。身一つでは危険だと思った。

 

 そして、そのまま静かに、物音を立てずに、王の座していた聖堂へと続く螺旋階段を、ゆっくりと降りる。その階段は側廊部分へと繋がっていた。

 

 降り立ってすぐの場所、大理石の床には血まみれの男が倒れていた。服装を見るに禁軍の文官である。前にこの聖堂へと到着した時に、迎え入れてくれた文官かも知れない。

 

 荘厳で巨大な祭壇へと目をやった。無数の蝋燭の灯りに照らされる玉座の前、何者かが倒れている。鎧を切り裂かれ、助けを求めるようにして右手を前に出し、そのまま事切れているようだった。

 

「アルベルト2世……」

 

 血溜まりに、王冠。微動だにしない体。

 

 ──死んでいる。

 

 青い顔で祭壇に寄る。すると、礼拝者用の長椅子に座っていた男が急に立ち上がり、マスケット銃を構えて、ニスモに向けて発砲した。

 

 そこに人がいるとは考えていなかったニスモは、反応に遅れて肩を撃ち抜かれた。だが血は出ず、バチンと火花が散った後にゴオと火が上った。聖女の体の特異である。

 

「……そうだな。やはり、人ではない。()()()は穢らわしい魔物だ」

 

 男は祭壇の逆光の中で影になっている。

 

 非常に長身であった。ニスモが見るところ、6(フィート)3(インチ)(190cm)。眩い祭壇の灯りに浮く細く繊細な髪は、美しく金に輝いていた。声は優しげであるが、太く、低い所に響きがある。

 

 ──誰?

 

 ニスモは肩の傷を魔法で治しながら、眉間に皺を寄せてその者をよく見る。

 

 瞳の色は氷のように澄んだ藍緑色(ターコイズ)である。それは王族の証だった。鼻は高く、髭はない。凛々しい顔つきであるが、どこか哀愁のようなものがある。

 

 金の髪はふわりと纏まっているかと思ったが、どうやら背の方でゆるりと三つ編みに垂らしており、青いリボンがちらりと見えた。

 

 服は金糸と銀糸の刺繍が入った、縹色(はなだいろ)胴着(コート)。上品且つ清潔感あふるる代物だが、大いに返り血を浴びて、美しさも清潔さも失っている。

 

 ニスモは記憶を掘り起こす。どこかで、この男を見た事がある気がした。確か、聖女候補、あるいは聖女として王城に呼ばれた際に、謁見室に同席しているはず。必ずと言っていいほど、そこにいた。王とは離れて壁際にじっと立ち、時折、蔑むような冷たい目で己ら聖女達を見ていた。

 

 その男の名は──。

 

「──エリック。第一王子、エリック」

 

 名を当てられても、男は特に表情を変えなかった。

 

「そうだ。覚えていてくれたとは光栄だな、火の聖女ニスモ・フランベルジュ」

 

 エリックはマスケット銃に弾を詰め込み始める。その仕草には、焦りであるとか、動揺であるとか、そうした不安定な様はなかった。まるで訓練中かのように銃口に火薬と弾をいれ、さり気なく槊杖(かるか)で押し込む。

 

「まさか、王はあなたが……」

 

「うん、(しい)(たてまつ)った。老いは怖い。()()は狂ってしまった」

 

 弾が詰め終わると、スッと銃を構えて、何の躊躇もなく引き金を引いた。手元でしゅうと火が吹き、それから弾が放たれる。

 

「……!」

 

 ニスモは掌に防護壁(バリヤー)を纏って、高速で迫る弾丸を掴んでみせた。2度も銃弾を食らうニスモではないが、しかし、つきんと痛む手。握りしめた拳から、血がぼたぼたと落ちる。普段であれば何の問題もなく弾を止める事ができるが、様子がおかしい。

 

 ──硬く握りしめた拳を開くと、青い宝石の弾丸があった。

 

 それを見て、すぐに直感した。この奇妙な弾は、己の胸に撃ち込まれた弾と同じではなかろうかと。

 

 緊迫。汗が一滴、顎から滴り落ちた。

 

「お前ら聖女は人ではない。魔物なのだ。全てを狂わせ、破滅に追いやる。俺は、聖女をそういうものとして捉えている」

 

 エリックは冷気を纏っているのかと錯覚する程に冷えた瞳で、焔聖の赤い瞳をじっと見ていた。ニスモはその静かなる圧が恐ろしくて、持っていた剣を構えた。ぼたぼたと血の滴る手で、ぎゅうと柄を握る。

 

 そして、彼の醸す妙な恐ろしさから目を背けるようにして、ニスモは決意した。──相手は王族とはいえ、王を殺したのであれば、倒さねばならぬ。

 

「聖女はこの世界にとって、騒擾(そうじょう)の元だ。新たなる力は、新たなる火種を作る。そして、新たなる不幸を生んでしまう」

 

 腱を切り、動きを止めて、なんとか生け取りに出来ればよいが、果たしてどうか。

 

 エリックは武芸に秀でると聞く。王城で行われた武芸試合(トーナメント)一騎打ち(ジョスト)では負けを知らないらしい。

 

「焔聖」

 

 銃はもう長椅子に置いている。剣は腰にあるようだ。短剣などは持っているだろうか。投げ小刀などはないか。果たして、どう攻めてくる。

 

「先程から、俺を倒す事だけを考えているようだな。──俺はお前の話をしているのだぞ」

 

 エリックの全てを見透かしたような発言と、その凍てつく瞳に、ニスモの思考は一瞬止まった。

 

「お前には破滅を作っている自覚がないのか? お前は、お前の運命に巻き込まれて死んでいった者を、忘れてしまったのか?」

 

「な、何……?」

 

「姉であるジャンヌ・フランベルジュも忘れたのか?」

 

 ニスモは目を見開く。脳裏、一瞬で断頭台の地獄を思い出した。

 

「王都に来てからも、お前は幼稚なままだった。誰も信用する事ができず、いつも孤独でいようとし、周りを不幸にしている。そんな女が世界を救う聖女だと……?」

 

 ──私は、周りを不幸にしている。

 

 胸に傷を負い、街道で倒れた時に、確かにそう思った。私は炎だから、周りの全てを焼いて傷つけてしまう。だから、死んでしまった方が周りが幸せになるのだと。

 

「違う……」

 

 今は認めたくなかった。確かに人を傷つけて来たかも知れないけれど、私はクララに出会って変わろうとしている。上手く表現出来ないが、それがたまらなく嬉しい。嫌いな自分から脱せられる気がして。

 

「何が違う。俺は王族だ。学園からも忖度のない報告を受けている。俺には常に正しい情報がある」

 

 ニスモは首を横に振った。必死だった。怯えた目をしていた。

 

「違うっ。わ、私は、そんな自分から変わりたい。変わろうと思っているんだ! 変わりたいから、私は大白亜に戻ってきた!」

 

「変わりたい? 変わって、他人に好まれる人間になるのか? まさか、人に愛されたいのか? そうだとしたら、烏滸(おこ)がましいと思わんのか? お前、普通の人間だと思っていないか?」

 

「え……?」

 

「お前などはこの世界で最も穢れた女だ。いいや、お前だけではない。聖女全員が穢れた人間だ。俺は、全てを知っているぞ」

 

 氷の瞳が、ゆらりと揺れた気がした。緊張から鼓動で体が振れて、そう見せた。

 

「海聖の生まれ故郷は滅び、幾つもの尊い命が失われた。隣国カタロニアでは数多の戦士や民が死に続け、陸聖を含む王家を守る。ファルコニア伯爵領では、優秀な少女が次々に殺められて、ついに空聖は聖女の座を手に入れた。輝聖は故郷の人間を救おうとし、逆に殺めた。──そしてお前は、多くの罪のない者を殺した。お前を愛していた姉を殺した」

 

 ニスモは震える手で、もう一度剣の柄を握り直した。この男の話を聞いてはいけない。早く、斬りかからなきゃいけない。

 

「これらの犠牲は、全て聖女の為だ。全て、聖女の運命に巻き込まれて、一人一人の人生は儚くなり、不幸のままに死んでいった」

 

 こんなの、聞いてはいけない。

 

「──聖女は全てを不幸にさせる。友も、肉親さえも。そして、愛する()さえもだ」

 

「違う……! 私は……、バーダー家に命令されて、仕方なく姉さんを……!」

 

「命令されて仕方がなかった? 言っているだろう。俺は王族だ。俺には常に正しい情報がある。真実を知っているんだよ」

 

 エリックは冷たい表情のまま、続ける。

 

「アッテンボロー家の処刑は正教会によって晦まされ、多くの者は真実を知らない。だが、その全ては詳しく記録に残っている。処刑された者の名前。その素性。処刑された時間。処刑される前に発した言葉。公爵家の書記官が事細かに記録していたんだ」

 

 ニスモは表情を崩す。今にも泣きそうな顔だった。

 

「午前五時。ジャンヌ・フランベルジュが断頭台の上で言ったことを、お前は覚えていないのか?」

 

「言わないで……」

 

「確か、こう書いてあった」

 

「お願いだから、言わないで……」

 

「『どうか神様。お願いです。アッテンボロー家もバーダー家も、みんな殺してしまって下さい。私はどうなってもいいので、地獄に堕としてください』。民と無宿(ナッカー)に私刑に遭い、彼女は茫然自失のまま呟き続けていた」

 

「ねえ、やめて……。お願い……」

 

 景色が蘇る。掠れた姉の声。歓声、風の音。転がる死体、血と糞尿の臭い。曝け出された姉の脚には、股から血の伝った跡があった。

 

「記録によると、お前はジャンヌを慕っていた。離れ離れになっても頻繁に会いに行く姿が目撃されていた。バーダー家はそれを黙認していた。お前にとって、ジャンヌは生きがいだったのを知っていたからだ。そしてジャンヌはお前を()()()にさせる哲学者だった」

 

「嫌だ……」

 

 細い首に斧を下した時の、骨を断ち切る感触が手に、そして腕に甦る。力を入れても一思いに首を落とす事が出来なくて。何度も振り下ろし、4度目で成せた。

 

 歓声も耳に蘇る。喜びの聖歌も聞こえていた。

 

「彼女が断頭台に上がっても、2人で逃げ仰る事も出来たろう。混乱の最中だからな。手に持つ血塗れの斧を振るい、魔法を使い、周りを振り切れば、或いは。でも、お前はそれをしなかった」

 

「お願いだから、もう……」

 

 視界が滲む。何とか涙を噛み殺してみようと努力してみる。喉に力を入れて、声を潰す。鼻がつんと痛むが、堪える。

 

「──お前は、愛する姉の失墜を認められなくて、自分の意思で命を奪ったんだろう?」

 

「もうやめてッ──‼︎」

 

 叫んで、両の目から涙が溢れた。

 

「ヒィ────……、イィ──……」

 

 次いで、か細い嗚咽が漏れた。あの時と同じように、手に力は入らない。足も同様で、立っているのもやっとだった。肩が震える。呼吸もままならない。──ついに剣を下ろした。

 

「そしてお前は神に代わって、姉の願いを叶えた。それがお前の、罪滅ぼしだ。その為に罪のない赤子が無惨にも床に叩きつけられ、幼子も水に沈められた。だが、聖女だからそれで良いのだ。それがあったから、ヴィルヘルム・マーシャルがお前の存在に気がつき、聖女と認めるに至った。──そういう運命だった」

 

 エリックは腰に下げた剣に、手を添える。

 

「運命の力だ。これが聖女の運命の力なんだ。死んでいった罪のない彼ら彼女らは、お前のために存在して、お前のために不幸になり、お前のために唐突に命を奪われる。それがこれからも続く。お前達が聖女として覚醒するまでに、何人もの人間が不幸になり、死んでいく。お前にとって近しく、大切に想っている者からだ」

 

 身廊の中央を歩き、ゆっくりとニスモへと近寄る。

 

「やがてお前らの運命は全土を巻き込む。全てが貴様ら聖女のせいで破滅していく。──俺はその運命を断とうと思う。聖女と密接に関わった全てを抹消し、聖女を信じる者の教えを正し、正常な世の中に戻す」

 

 聖女と関わった全てを抹消する。混乱の脳内でも、クララとの日々が蘇った。

 

 ──私のせいで、クララが死んでしまう。

 

 どうしよう。まだ、涙が止まらない。

 

「世界を綺麗に戻そう。聖女などは初めからいなかったことにし、正教会の作り話ということにしよう。聖女などはいなくとも、瘴気は祓える。俺は人間の可能性を信じる」

 

 エリックは剣を抜いた。その刃は青く、澄んでいた。聖女の体を蝕んだ青い弾丸と同じように輝いていた。

 

「聖女こそ真の悪なのだ。悪は己を悪だと気付けない。だから悪であり続ける。不幸の連鎖はもうここで終わりにしよう」

 

 キュッと靴を鳴らし、剣を構える。全く隙のない型だった。

 

「丁度良い。貴様らリンカーンシャー公爵領には汚名を被って貰おうと計画していた。奴らは叔母上を殺すなど、王室に対して忠誠がないからな」

 

 エリックは地を蹴り、ぐんと迫った。完膚なきまでに心を乱されたニスモは、反応を遅らせてしまう。

 

 下ろしていた剣を持ち上げるも、青い刃の一振りで手に持っていた剣は弾かれた。無詠唱の魔法で反撃しようとするが、やはり心が乱れていて不発。隙を突かれ、膝で胃を打たれた。屈んだところ、髪を掴まれて、投げられる。

 

「さあ、ここに首を置いていけ。()()()は俺が殺した事にする」

 

 倒れたニスモに、青い刃が降りかかる。それを何とか転がって避け、近くにあった背の丈ほどの燭台を振るった。

 

「……ッ!」

 

 その時、奇跡的に熱された蝋がエリックの左目に入る。それで、蹈鞴(たたら)を踏んだように下がった。

 

 ニスモは急ぎ立ち上がり、逃走した。とても戦闘を継続できる精神状態では無かった。こけつまろびつエリックから離れ、袖廊にあった窓を割って外に出る。

 

 エリックは左目を押さえながらその割れた窓に寄ったが、すでに焔聖の姿は無かった。

 

 ───

 ──

 ―

 

 □□

 

 ―

 ──

 ───

 

 聖エルダーと名付けられた巨山の中腹には、岩肌をくり抜いて作られた廟が存在していた。正式に名はつけられておらず、人によって『山の廟』であるとか『岩屋の廟』などと呼ばれている。この場所は聖エルダーで修行をし、志半ばで命を落とした僧や信心深い騎士、冒険者などが祀られていた。

 

 暗い廟の一室、ずらりと並ぶ石棺の上には聖書が置かれている。どれも使い古されていて、中には劣化が進んで崩壊しているものも存在した。第一聖女隊のジャン・セルピコは聖書の内の一つを手に取り、パラパラとめくっている。紙がおくる風をいっぱいに鼻から吸い込んで、この地で果てた者たちに思いを馳せるのであった。

 

「首尾はどうなんだ、ジャン・セルピコ」

 

 声が岩屋の中で反射して響いた。セルピコは本を閉じて、振り向く。

 

 ひやりとした一室に入ってきたのは、白い鎧を身につけた無骨な男である。肌は日に焼けて浅黒く、面相は厳しい。歳は40代か。艶のある黒髪は後ろで結かれており、苦労をしているのであろう、そこには白髪も束となって目立つ。1番特徴的なのは、左腕が存在しない事であった。

 

 名はコナー・スタッブスと言う。後から合流した第一聖女隊の兵で、普段は王国南部、特に沿岸地域にて正教軍として働く。元は冒険者の身の上であり、その為か粗暴な物言いをした。彼にとってセルピコは数段上の階級にも関わらず。

 

「到着したか、スタッブス。久しいな。茶でも淹れてやりたい所であるが、茶器を持ち合わせておらぬ」

 

「質問に答えろ、セルピコ。馴れ合いに来たわけじゃない」

 

 スタッブスは半ば呆れ気味に溜息をつく。

 

「首尾か。そうさね……。王都では、暗に焔聖が暗殺したことになり始めた由」

 

「それはマズいんじゃねえのか」

 

(それがし)などは()と捉えるがな」

 

 セルピコは持っていた聖書を棺の上に戻して、軽く十字を切った。この本の所有者が栞として使用していた髭撫子(ひげなでしこ)の押し花が、(ページ)の隙間からチラリと赤を見せている。

 

「機だと? 状況は悪くなっているように思えるが?」

 

「良く考えてみよ。初めからそうする気であれば、リンカーンシャー家のロザリオを証拠に、焔聖が王を暗殺した事にして広めておけば良かろう」

 

「……成る程。だが、禁軍はそうしなかった。正確には、すぐにそういう事には出来なかった、と言いたいのか」

 

「奴らは統率が取れておらぬ。簒奪者の側近、もしくは禁軍中枢部には、まだ聖女を信じている者もいるのだろう。だから、機は今ぞ。奴らを磐石にさせてはならぬ」

 

 スタッブスは寄って、セルピコに一本の煙草を渡す。

 

「で、簒奪者の正体は分かったのか」

 

 そして軽く呪文を唱え、魔法で火をつけてやる。

 

「焔聖は大白亜で第一王子エリックと戦った由。状況については、詳しくは聞き出せなかったがな」

 

「何? 押して聞き出せ。重要だろう」

 

「本人が話したがらないのだから、仕方あるまい」

 

「またそれか。あの()()()は1人で生きていると思ってやがるんだ」

 

 スタッブスはあまり焔聖のことをよく思っていなかった。愛想がなければ可愛げもなく、いつも不機嫌なように見えた。戦闘の際にも仲間と助け合おうとしない。常に周りをいないものとして扱い、1人の世界を築き上げていた。

 

 仲間と協力して危険な依頼や任務をこなしてきたスタッブスには、それは我慢ならなかった。特に幼少の頃に魔物に襲われた事で隻腕として生きているから、助け合うことの大切さは身に染みている。

 

 セルピコから彼女の背景を聞いてはいるものの、『だからどうした』という思いがある。可哀想かもしれないが、今関わりのある人間を蔑ろにする理由にはならないだろう。

 

「さて、畏れ多い物言いにはなるが、王子1人では事は成せぬだろう」

 

「ならば、その背後に誰かおるのか」

 

「某が調べた所、リューデン公爵らが大いに関わっている。特に、海聖の首を持ち上げたモラン卿などは勇んで関わろうとしているらしい」

 

 スタッブスは眉間に皺を寄せた。

 

 彼には、正教軍としてモラン子爵領の魔物を討伐した事がある。そこで何人かの仲間が犠牲になったが、弔いの場に子爵が訪れなかったのを思い出した。熱血のスタッブスは我慢ならず、領軍に物申して子爵に謁見したが、そこで罵詈雑言を浴びせられた。まるで犠牲になった仲間が悪いような言い草であった。それ以来モラン子爵を、この世界で1番下品な貴族であると認識している。

 

「公爵が関わる目的としては……、まあ利が大きいと言うことか、セルピコ」

 

 己らの唾がついた者が王になれば、当然恩恵がある。瘴気で狭まる世界、いつ自分の土地がそれに飲み込まれるか分からない。特にリューデン公爵領は瘴気に面してしまっている。

 

 しかし仮に領が瘴気に飲み込まれようとも、王から気に入られていて、庇護を受ける事ができれば、貴族達は多少安心できる。王都、ないしは王城に迎え入れられて、今まで通り贅沢が出来ると考えているのだろう、とスタッブスは推測した。

 

「あと一つは、私怨であろう。リューデン公爵はアルベルト2世を恨んでいた」

 

 スタッブスは目を丸くした。

 

「恨んでいたのか? 何故?」

 

「所領を奪われたからと存ずる。どこぞの騎士が魔物相手に手柄を立てて、南部沿岸がサウスダナンとかいう領になった」

 

「聞いたことある名だ。確か……、海聖の故郷だな」

 

「騎士が手柄を立てたからと、ほいほい土地を切り分けられたら敵わぬ。新王の覚えがめでたければ今後そうした事もあるまい、と怒り心頭なのであろう」

 

 話を聞きながら、モラン卿が公爵にそう吹き込んだ可能性もあるな、とスタッブスは思った。あれはどうも下品が過ぎるし、自身の利益の為なら他がどうなっても良いという思いが強すぎる。

 

 元々リューデン公爵は素朴で知的な貴族だと聞いた。だがモラン卿を騎士とした日を境に、奢侈(しゃし)耽溺(たんでき)し始めたと聞く。何らか吹き込まれていても不思議ではあるまい。

 

 そして、公爵領は緩やかに綻び始め、田舎では既に荒れ始めているとも聞く。

 

 スタッブスは煙草を咥え、火をつける。そして溜息と共に鼻から大量の煙を出して、太々しく問うた。

 

「──で、どうすんだ?」

 

「はて?」

 

「公爵家のお嬢様だよ。さっき顔を出したが、崖の上でベソをかきながら占ってやがった。あんな腑抜けた面で、大白亜を奪還出来るのか?」

 

 セルピコは遊ぶように煙を輪っかにして、吐き出す。

 

「輝聖に会いに行かせたと聞いた。それが失敗だったんじゃねえかと思う。心が乱れたんだ。俺ならば絶対に近づけない。セルピコ、これはお前の保護観察不足だ」

 

「失敗ということはあるまい」

 

「何故そう言い切れる?」

 

「──光の聖女であれば全てを受け止め、焔聖を混沌から救い出す。それが出来ねば、光の聖女ではない。或いは光の聖女として未熟である」

 

 浮かぶ輪っか。セルピコは、その中央にさらに輪っかを通そうとして失敗する。

 

「他の聖女も同じく。聖女が聖女同士を救い、互いを尊く思わぬのなら、それは聖女ではない。或いは聖女として未熟である」

 

「言いたい事は分かる。だが、今はそんな悠長な事を言ってる場合じゃねえ。ピピン公爵領軍やマール伯爵領軍は、もう既に動き始めてるんだろう。それに乗じるのが得策だ。機は今なのだろう?」

 

「左様。機は今なり。だがそれでも、行くか行かぬかは焔聖が決めるべし。彼女は大人にならねばならない」

 

「大人だと?」

 

「大人になるには、己の考えで、勇気をもって、様々な選択をしなくてはならぬ。その選択を間違え、それで挫けようとも、歯を食いしばって立ち上がらなくてはならぬ。焔聖に必要なのは、そうした経験である」

 

「あの赤ん坊が大人になる姿が思いつかん」

 

「思いつかんでも、そうなって貰うしかあるまい。──のう、スタッブス」

 

「なんだ。煙草はもう無いぞ。あとは全部俺の分だ」

 

「まず我ら人類が見るべきは、瘴気のない平和な世界に在らず。憎しみや苦しみ、迷いや恐れ、そして強さと愛の塊である少女5人が、全ての過去と未来を受け入れ、肩を寄せ合い、頬をくっつけ、心から笑い合う姿であると。某などは、そう思うのだ」

 

 スタッブスは少しの溜息をついて、2本目の煙草に火をつけた。かつては第一聖女隊に配属されて神のために働けると喜んだが、蓋を開けてみれば3年前からずっと赤ん坊のお()りである。

 

 □□

 

 西の水平線に真っ赤な太陽が蕩けてゆく。潰れた蕃茄(ばんか)のようであった。

 

 ニスモ・フランベルジュは未だ白い崖の上にいた。箱のようになって蹲り、微動だにしない。辺りに置いてある香炉からは、もう煙も出ていない。そばにある羊の亡骸には蠅が集っていて、ぷんという羽音が鳴り続けている。

 

 ──全てが裏返った。

 

 クララのために変わろうとした事も、クララが教えてくれた道筋も、喜びも、希望も、全てが黒く塗りつぶされてしまった。気持ちが反転していく。希望が絶望に蝕まれる。

 

 浅はかだったのかもしれない。クララに会えて浮かれていたのかも知れない。まるで、ぬいぐるみを貰った子供のように、はしゃぎたかっただけなのかも知れない。

 

 ──聖女のせいで不幸になってしまう。運命に巻き込まれてしまう。

 

 認めたく無いのに、認めざるを得なかった。その言葉は千本の短剣となって全身を刺した。これが現実なような気がしたし、銃弾を撃ち込まれて這いつくばった時にも、自分は周りを傷つけてしまうのだと、そう思った。

 

 エリカという子も、己のせいで怪我を負った。

 いや、少し違う。

 私と関わる以前に、輝聖と関わったから、怪我を負ってしまった。

 何故なら、聖女は周りを不幸にしていくのだから。

 

 これからどうすれば良いのか。

 このまま塞ぎ込んでいて良いわけはないけれど、何をしたら良いか分らない。

 クララに会いに行こうと思ったが、危険が及ぶと思ったからやめてしまった。

 全てが怖くて、金縛りにあったように動けなくなった。

 きっと、どんな哲学書を読もうとも、一歩の踏み出し方も、顔を上げて前を向く方法も、書いていないだろう。書いてあったとしても、(ページ)を開けば、肝臓の癌のように黒く塗りつぶされているに違いない。

 

 もうどうしたらいい。弱くて惨めで、変わりたくても変わろうとした瞬間に、その資格のない人間だと分からせられる。どうにも出来ない。

 

 ──聖女がいなければ、誰もが幸せになれるのだろうか。クララは幸せになれるのだろうか。

 

 ニスモは聖女を殺める銃弾を衣嚢(ポケット)から取り出し、これを見つめた。酷く陰鬱な気分にさせる青いそれは、西陽の光を吸収して摩訶不思議な虹色となっている。綺麗だった。

 

 暫く眺めて、力無く地に転がす。飲み込めばどうにかなると思ったが、その勇気も無かった。

 

「神さま……」

 

 再び箱のようになって、ロザリオを握って祈る。

 

 陽が完全に沈み、地平線が瑠璃色に変わり始めた。蕭蕭(しょうしょう)たる夜が来る。

 

 その時、とんとんとニスモの肩を叩く者があった。セルピコかと思い、暫く伏せる。放っておいてくれという意思表示だった。

 

 だが、もう一度肩を叩かれる。しつこい、と思いながらゆっくりと顔を上げた。

 

「……なんで、ここに?」

 

 目の前、失ったはずの聖具『夏の聖墓矢』が地に刺さるわけでもないのに、垂直に立っている。

 

 矢の先には、転がした青い弾丸が刺さっていた。不思議なことにそれは、布が水を吸うようにしてジワリと聖墓矢に吸収されていく。瞬きを2回した時には、矢の先は青く石化し、妙な煌めきを放っていた。

 

 ──夏の聖墓矢は焔聖の敵を穿つ。青い弾丸は聖女を殺める。

 

 ニスモは悪寒を感じながら、辺りを見回す。誰もいない。静けさだけがそこにあった。

 




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