「なに、禁軍が? 何故? おい、誰ぞ! 儂に内緒で支援を申し立てたか!」
「いや、そうではなく……。ピピン公爵に
「なっ⁉︎」
寝耳に水である。
「書簡がここに!」
ロック卿は羊皮紙を開く。そこにはまさに
禁軍の要求はこうである。まず、速やかに聖フォーク城を明け渡す事。ロック卿を引き渡す事。公爵の息女パトリシアを王都に住まわせる事。そして領軍を解体する事。以上4点。ピピン公爵についての処遇は書かれてはいないが、
「待て待て待てい! ここを見よ!」
ロック卿は書簡の一文を指差す。
「この『王の兵らを
「えっ、なになに⁉︎ 何事なの?」
パトリシアは不安げな表情を浮かべて、ロック卿を見た。
「まずは禁軍の誤解を解かねばならぬ。
「ええっ⁉︎」
ロック卿は足早に本陣から出た。パトリシアはそれを追いかける。
「大蛇が復活する前に片付けて来まする。茶でも飲んで待っていて下され」
そのまま闘技場の出口へと向かう。
「誰ぞ、儂と共に禁軍の元へ!
「ど、どど、どこに行く気⁉︎」
「おい、お嬢様に茶を入れて差し上げよ! カレンツァ産の美味いのがあったろう!」
5人の兵がロック卿の後を追う。1人は白い旗に
パトリシアはぽつりと取り残された。周りにいるのは
パトリシアの目から永遠に引っ込んだはずの涙がぽろぽろ溢れた。不安で不安でしようがなかった。それで、本陣の外で大人しくしていたロック卿の愛馬ソロモンがそっと近寄り、パトリシアの体に顔を擦り付け
「お家に、帰りたいっ。お家にっ、ううっ」
温もりを求めて、パトリシアが馬の顔を抱きしめた、その時。突き上げるような地響きがあった。同時に、ごおという低い音もする。
パトリシアは音の方を見上げ、息を呑んだ。巨大な水柱が上がっていた。まるで、天に向かって滝が落ちていくかのよう。周りの兵達もぽかんと口を開けて水柱を見ていた。
次いで、ぼたぼたと大粒の水が落ちてきた。水が激しく体を打つので、パトリシアは悲鳴を上げながら頭を押さえた。本陣の
空からの水が止まる。ソロモンに髪を
「だ、誰か……?」
問いかけても聞こえるのはソロモンの息の音だけ。不気味な静寂。
「誰か。誰か! 誰か、いないのっ⁉︎」
刹那、
連続する稲光が、霧の中に巨大な影を作り出した。大木の幹ほどに太い胴、首は7つあって目だけが白く光っている。その影はデュダの
「デュダの
影を見た兵達は悲鳴を上げて、
パトリシアは恐怖で動けない。守ってくれるはずの人間は全員逃げた。勇敢な
「だ、だっ。大丈夫っ、大丈夫っ」
死にはしない。自分に言い聞かせる。
闘技場は神殿から離れている。比較的安全。ロック卿もそう言っていた。安全だからこそ、ここに本陣を構えたのだ。
今頃、配備した兵が大蛇に攻撃を仕掛けているはず。魔道砲や大砲を
この場所で倒せなくても良いのだ。大蛇をハックル湖の方面に誘導するのも作戦の一つであるし、そこに仕掛けた魔法で
徐々に大蛇の影が色を帯びてきた。白っぽい腹を見せて、立ち上がったまま近づいてくる。
顔もはっきりとしてきた。蛇だ蛇だと言われていたが、その顔はどちらかと言うと
パトリシアはこの巨大な魔物を、震えながら見上げていた。ソロモンの『逃げろ』という
不味いのだろうな、とは思った。どう考えても、今、普通ではない。視界も暗いと言うか、紙を火で
──足を動かせば良いのに、動かない。どうする事も出来ない。もう終わりだ。領も家も、私のせいで。
パトリシアは思った。きっと私は、母親に似て精神が弱いのだ。母は、男を産めと父親からも臣下からも言われ続け、気に病みすぎたから流産した。それでも子を産まなくてはと思い続けたから、心を病んで気鬱になった。そして気が触れてしまって、全てから遠ざけられた。
「は、ははっ。はははっ。あはは……っ」
ああ、何だか笑えてきた。こんな時に笑えるなんて
ずっと母親の事を怖いと思っていたが、同じように狂えば気持ちがよく分かった。触れてはならない存在になる事で救われる。私は今、恐怖からも
「あなた。公爵は何処ですか?」
静かな世界に声がして、振り返る。そこに立っているのは青い髪の女だった。
「公爵は何処ですか? 逃げましたか?」
パトリシアはその女をじっと見た。何かを問われているのであろう事は何となく分かったが、未だ現実に戻れず、
「公爵を知らないのですか? 太った男です。こんな感じの」
女は腹の前で玉を抱えるような仕草をした。それを見て、ふいに質問の意味がわかった。この人は、父を探しているのだ。
「お父様なら亡くなったわ」
「……は?」
女は眉間に皺を寄せて問う。
「あなた、誰?」
「パトリシア・ヒンデマンに決まってるじゃない……。あなたこそ、誰?」
青い髪の女、聖女マリアベルは固まる。その名なら知っていた。
マリアベルは額に手を当て、深いため息をつく。これで全てが繋がった。すぐに公爵が面前に出なかったことも、ヒンデマン家旗が立っているのに公爵の姿が見えなかった事も。
「なんて事……。計画が狂う……」
上空、みしりと音がした。次いで、ぱりりと
ゆっくりと7つの首が降りてくる。そのうちの4つが大きな口を開けていた。毒を吐こうとしているのだろうか、湯を
「聖女さま、来ます……ッ!」
マリアベルの後ろに居たクララが叫ぶ。同時、マリアベルは胸の前で十字を切った。掌の中にある小さな
闘技場の周囲、水面が揺れて、幾つもの竜巻が上がる。その竜巻は次第に細くなり、水の
クララは銀の短剣で手首を切り、
『精霊に告げる。我が
噴き出る血が、真っ赤な光の霧となって輝き出す。
マリアベルは落ちて来た首の1つに登り、その額に勢いよく
炎の中、大蛇は首を再生させようと必死になったが、傷口が焼けて固まり、上手く再生することが出来ない。身体の鱗の剥がれた場所や肛門、性器から、未熟で小さな頭部を出すのが精一杯で、それらはすぐに焼けて
そして雨が止んだ。風が吹くと、霧がそのまま動いて晴れた。
辺りは煮立った
クララもまた、へなへなと脱力して尻をついた。手首から
「そ、それで、ピピン公爵は何処に……?」
マリアベルは煙草に火をつけて、気を失っているパトリシアに寄った。面持ち、暗い。
「死んだらしい」
「えっ⁉︎」
「ピピン公爵領は張りぼてです。まるで空の宝箱を開けたよう」
マリアベルは
ピピン公爵に
ならば私がピピン公爵領の顔となって立ち上がるか。いや、だめだ。領の貴族にだって
第三王子を
輝聖を助けたい。覚悟はしていたけれど、道は
「私が作った壁をあの子が作り直しているみたい」
マリアベルはぼそりと呟く。
遠くから、どんと発砲音が聞こえた。禁軍か、領軍か。とにかく、早くリアンと合流しなくてはならない。考えるのは後だ。ため息一つ
「よし。多少は手荒にやっていくしかない。前を向いて頑張っていきましょう、クララ」
クララは思った。これ以上に手荒な事をするのか!
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