教皇領北部は
山の中腹にある迫り出した真っ白な崖の上、ニスモ・フランベルジュは十字を切った。次いで、目の前に横たわる羊の死骸に聖水を振りかける。側に置かれた香炉からは、
ニスモは短剣で羊の腹を
1つ息を吐き、意を決したように力を込め、引き抜く。手に握られているのは
──まただ。
蒼ざめた顔で肝臓を見つめる。その
既に8頭の羊を生贄に捧げていた。しかし、何度やり直しても黒い
──あの時と同じだ。
クララ・ドーソンと共に過ごした。寝台の上で
幻の中でニスモは、羊の腹を捌いた。肝臓を取り出すと、小さな黒い痼が全面にあった。
すると、腕を掴まれた。6本の指だった。恐る恐るその者を見ると、神秘的な顔つきの少女が隣にいた。
少女は、じっとニスモを見ていた。そして、こう
──優しい子。あなたはお姉さんを解放してあげたんだ。
ああ、それを聞いた時、私はどんな風だったろうか。
「嫌ッ!」
小さく叫んで、肝臓を地面に叩きつけた。真っ白な土に、びしゃりと赤が弾ける。
ニスモは涙を堪える。鼻の奥がつんと痛かった。泣きそうになると蘇る。アッテンボロー家とバーダー家が私達を分つ時。涙を流す私を慰めてくれた姉の声と、自らのロザリオを渡してくれた、その手の温もり。
『大丈夫、泣かないで。いつか神様が私たちを一緒にしてくれる』
離れ離れになっても、人目を盗んで会いに行った。姉が大好きだった。
『おいで。今日は髪を結いてあげる。綺麗な花飾りもつけてあげるわ』
会う度に、指針を示してくれる。
『バーダー家の人間には従いなさい。嫌でも今は耐えるの。神様は見ているから。報われる日が必ず来る』
姉はいつも私を想ってくれていた。いつも優しく抱きしめてくれた。
『大好きよ、ニスモ。とっても』
処刑人の仕事が嫌だった。慣れる事がなかった。我慢ならない時は屋敷から抜け出した。そしてアッテンボロー家の屋敷に忍び込むと、姉が慰めてくれた。
『私たちは、強くならなきゃだめなんだ。この世界で生きていくには、強くならなくちゃ』
手を握って
『耐えて耐えて耐え続ければ、きっと神様は助けてくれる』
立派な人だった。
『いつか2人で領を正そう。お父様を助けてあげよう』
姉はいつも同じ事を言っていた。
『──私はね、いい人になりたい』
本当に、口癖だった。
『恨みなんか抱かなくて、いつも笑顔で、弱きを助ける余裕があって、他人を幸せに出来るだけの、いい人になりたい』
気高かった。
『いい人でいるためには、誰よりも強くなくちゃ』
───
──
―
□□
―
──
───
リトル・キャロルの事が嫌いだ。腹が立ってしょうがない。その顔も、その声も、出立ちも、全てが気に食わなかった。
視界に入るだけで苛立つ。残り香も
あの女は嘘偽りで出来ている。弱いところは見せまいと本心を隠し、
ニスモはキャロルには絶対に負けたくない。幸いにしてバーダー家の手解きを受けて来たから、武術の腕はキャロルと同じくらい優れていたし、筋も良かった。しかし、それに満足することなく、ニスモは狂気の域で鍛錬を続けた。だからいつも手には血豆があったし、たとえ痛かろうと、手の皮を厚くする為に回復魔法すら使わなかった。
鍛錬を積み重ねていたことで、
だけれど、キャロルの事が初めから嫌いなわけではなかった。
□□
聖女が学園に
その日の討伐は無事に終わった。ニスモは服を脱ぎ、体や髪にこびり付いた
木々の陰から傭兵達の声が聞こえる。なにやら『聖女なぞいるものか』『子供のお守りなど』と
愚痴を垂れている男は、
キャロルは傷口の中に指を入れ、中に入り込んだ割れた爪や、小さな
傭兵が『本当に聖女かどうか、体を
だがキャロルは反応をせず、傷口を水で洗いながら、淡々と、丁寧に
「腹が立たないの?」
キャロルはぼそりと返す。
「あんまり」
ニスモは嘘だ、と直感的に思った。否定するには静かすぎた。感情を隠しているよう。
「私だったらあの男は斬り捨てる」
「そんな事をすれば学園が黙っちゃいない」
「どうせ傭兵よ。誰も安否など気にしない。魔物に喰われた事にして適当に報告すれば良い」
「死体が残ってしまう」
「灰にして
「他にも隊員がいる。怪しまれる」
「黙らせる」
するとキャロルは少し笑って、こう言った。
「ありがとう。優しいんだね」
「──でも、私はいい人でいたいんだ」
ニスモは体を洗う手を止めた。
「だって聖女になるのだから、こんな事でいちいち怒っていられないよ。私は強くなりたい。人の悪意であったり、冷たさであったり、心無さであったり、そういうものに侵食されない強い人でありたい」
──この女は姉と同じ言葉を発した。
不思議だった。その瞬間に芽生えかけの淡い想いは砕け散り、目の前の人間が
「──理解したような事を言わないで」
「え?」
「
ニスモの声は怒りで震えていた。赤い瞳は潤んで、涙は今にも目頭を伝いそうだった。
「自分の理想を追い続けようだなんて誰にも出来ない。高潔なつもり? 英雄になるつもり?」
「ニスモ……?」
キャロルはその
「黙れ偽善者。私の名前を呼ぶな」
以降、ニスモはキャロルに執着した。
執着したとは言え、実際に2人が言葉を交わす事は無かった。しかし
ニスモはキャロルを負かす為に鍛錬に
いつもキャロルのことを考えて
□□
次に2人が言葉を交わすのは1年以上も後の事になり、それが学園に入って2年目の
その日、昼からの
ニスモは学園内の
ふと、ニスモは短剣で左手の親指を切った。唐突に手元が狂った。何がそうさせたのかと周囲に意識を向けると、どこからか霊妙な魔力が漂うのを感じた。自分では気が付かなかったが、魔力に当てられて手指が震えていた。
雪の積もった
2日前の朔風
昨日は塞ぎ込んでいたらしいが、夜半に出てきて、早速鍛錬。まるで悲劇の
「惨めね。そんな事をしても自己満足に過ぎないのに」
キャロルはゆっくりと目を開けてニスモの赤い瞳を見た。
「私は強くならなきゃならない。邪魔をしないで欲しい」
「本当に『いい人』でいられるつもり?」
「理想の人間でありたい」
「笑わせないで。あなたは故郷の下民を殺した。穢れた人殺しに、そんな理想を追い求める資格があると思う?」
ディアボロの件は聖女の神秘性を著しく下げると危惧され、当時の教皇クリストフ五世により
「あなたに憧れていた子供も、あなたに斬り殺されたのでしょうね。あなたの為に祈っていた人も。あなたを自慢していた人も。みんなあなたが斬り殺してしまった。ああ、悲しかったと思うわ。祝福で送り出した聖女候補に襲われるだなんて」
間違いなくキャロルは気が触れる。でなくば、首を
「乗り越えたい。寝込んでいる暇なんてない」
「それで
「泣いてたって時間は戻らない。もう2度と間違えない為に、私は──」
「黙れッ‼︎」
ニスモは
「あなたは本当に分かっていないッ! 何も分かっちゃいないんだッ‼︎」
ついにキャロルは天地人の構えを止め、真っ直ぐとニスモを見つめた。金の瞳は涙で
「どうしてそんな風に言う……? 私は前に進みたい。強くなって、理想の人間でありたい。その為に何をすれば良いか、今は分からないけれど、何もしないわけにはいかないんだ……」
「なら教えてやるッ! お前は現実から逃げてるだけなんだよッ‼︎」
「私は逃げたくない。真っ向から向かっていきたい。その為には強くならなきゃいけない。誰よりも強く……」
「現実に目を向けろッ! アンタは仲間を殺して、おめおめと帰って来たッ! 第五聖女隊だってアンタを
「マリアベルが味方になってくれる」
「利用されてるだけだッ! 本当は気づいているんだろうッ!」
キャロルの目から、ついに涙が落ちた。
「気がついているのを気づいていないふりをして、逃げ回っているだけなんだよッ! もう終わったんだ、アンタはッ!」
キャロルは強く踏み込み、素早く間を詰めてニスモの首をがっと掴んだ。力を込めて、絞め上げる。悲しみと怒りで顔は
ニスモは苦悶の表情の中に、満足気な笑みを混ぜて言った。
「ようやく本性を現したわね。今までで一番いい顔をしているわ」
「私の何が憎いッ! 何が気に食わないッ! 言えッ!」
「全部だッ‼︎」
怒りで体を震わせるキャロルの眼前、ニスモは涙を流していた。それは王都に来て初めての涙であった。
「私や姉さんが成せなかった事が、お前に出来るわけがない……! 自己中心的な下民になんかに成せないっ……」
キャロルは怒りに
「お前ら下民の浅ましさは良く知っているつもりだ! 私は分け
ニスモはキャロルの腕を力強く掴む。その手は魔法で発火し、キャロルの肌を焼いた。
「リトル・キャロルッ! そうやって私の事も殺すのかッ!」
だがキャロルは手を離さない。燃え盛る炎の中で、より力を込めて首を絞めた。
「私を睨むなッ!
ニスモは力を込めて、キャロルの腕の骨を砕いた。次いで跳び上がり、蹴りを繰り出そうとしたから、それよりも早くキャロルは左の拳を振るって、ニスモの顔面を殴った。
魔力を込めた拳を顔面に受け、ニスモは地を巻き上げながら吹き飛び、観客席にぶつかって周囲を崩壊させた。土煙がもうもうと上がる。
キャロルは2度十字を切って近寄った。
「ニスモ・フランベルジュ。本当なら分かり合いたい。敵意を向けられると苦しいし、切ない。私はどうしたらいい?」
ニスモは鼻から出る大量の血を腕で押さえながら、ふらりと立ち上がる。そして、呟くような声で答えた。
「お前なんかと出会わなければ、私は普通でいられたんだ……」
キャロルの目を見る事なく、静かにすれ違って、ニスモは去る。──いつか、お前たち聖女を全員殺してやる。それで全部終わりに出来る──。そう心の中で呟いた。こんなつまらない世界は破滅した方が良いと。半分は本音、半分は負け惜しみだった。……いや、大半が負け惜しみだった。
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