「フラン様は、どうしてアイリス様のことをアリアと呼ぶのですか」
当然の疑問だった。私も理由について詳しく聞いたことはないけれど、昔彼女が言及していたことがあった。
「フランが住んでいた村には、英雄として讃えられていた女性がいた。その人の名前から取ってアリアと言っていた気がする」
「私、フラン様との馴れ初めが聞きたいです」
ぐいっと距離を詰めてきた。あまり良い思い出ではないのだが、シャロンになら話してもいい、そう思った。
「少し長くなってしまう、それでも良いだろうか」
「アイリス様のこと、全部知りたいのです」
深い深呼吸をして、記憶の紐を一つ一つ解いていく。いつも記憶の中心にあるのは、初めて会った時のフランの姿だった。
「フランは村で虐げられていたんだ。誰からも相手にされず、魔物の生まれ変わりだとも言われていた。私がその村を訪れた時、村から逃げ出そうとしていたフランに出会った。酷くやつれていて、服もボロボロだった。私が旅人であることを知った彼女は旅に同行させてほしいと私に言ったんだ。あの涙を今でも忘れたことはない」
「そんな、そんな酷いことが……」
「冷たい村だった。部外者である私への風当たりも強く、とても人間とは思えなかった。彼女を連れ戻そうと村人がやってくると、フランは見ている私が目を瞑ってしまう程震えていた」
閉じていた記憶が次々に溢れてきた。私はフランを守るために彼女の前へ、そして村人の前に立ち塞がった。私が人に剣を向けたのはそれが初めてだった。私にできることは少なかったが、とにかく彼女の健康を取り戻すため、できることは何でもやったと思う。それがフランと私の馴れ初めだった。
「そんなことがあったのですね……。でも、今のフラン様はとても美しく、楽しそうです。特にアイリス様の前では。私には少し冷たいですが、いつか私にも笑顔を向けてくれるでしょうか」
今朝のフランを思い出した。彼女はシャロンを明らかに敵視している。どうにか仲良くしてほしいけれど、なかなか難しそうだった。変わったといえば、シャロンも変わったと思う。初めて会った時は少し暗い雰囲気を受けた。何かに絶望しているような、そんな暗い顔だったのだ。今の明るく笑顔な彼女を考えると、少し気になった。
「アイリス様が変えてくれたのです」
彼女は腕を絡ませて私に寄り添っている。周りには花冠の良い匂いが漂っていた。
「このまま堕ちていくだけだった私を、アイリス様が救ってくださったのです」
「そ、そんな殊勝なことはしていない」
「謙虚なところも、素敵です……」
羞恥のせいで彼女をまともに見ることができなかった。どんどん彼女の顔が近づいてくる、私が話題を変えると、シャロンは意地悪そうに離れた。しばらく他愛もない話をしていたが、ふと思い出したように彼女が口を開いた。
「アイリス様は、手から炎が出せるのですか」
またしても当然の疑問だった。こんなことができると知られたら白い目で見られてもおかしくないだろう。けれどシャロンは興味津々に尋ねてきた。私が頷くと、嬉しそうに続けた。
「小さい頃、本で読んだことがあるのです。この世界には火や水、氷や風、雷などを自由に操れる人がいることを。アイリス様はその一人なのですね」
初めて聞く話だった。目を光らせる彼女が言うには、素質がある人は心境に大きな変化があった時に突然芽生えるようになるとか。
「中でも、一瞬にして怪我を治すことができる人もいるみたいです。私が読んだ本の作者は見たことがないと書いてありましたが、確かに存在しているようなのです」
ドキッと身体が跳ねた気がした。その能力には見覚えがあって、さらに何度も助けられてきた。私の一番身近な人物のことだったが、フランのためにも黙っていることにした。
時間はあっという間に過ぎていって、夕日は遠くの山に隠れようとしていた。シャロンもそれを少しずつ理解して、段々と口数も減っていった。しかし有耶無耶にしてはいけない。まだ私は彼女に返事をしていなかった。私が真剣な眼差しで彼女を貫くと、全てを理解したようにシャロンは黙っていた。
「昨日の返事を、まだしていなかった」
「無理をしなくていいのです。元々叶わない願いなのです。アイリス様と一日でも二人で過ごせて私はとても幸せでした。だから、もう私のことは忘れて、アイリス様のしたいことを、なさってください」
そんな表情をされて分かったと言うことができる人間がどこにいるだろう。何度も何度も涙を拭って、諦めようとして。誰がこれを彼女の本心だと思うだろう。少しずつ、私の覚悟は揺らいでいった。私が言おうとしていたことが、真っ黒に塗り潰されていく。彼女の今日の仕草、あどけなさ、瞳、そして全てを受け入れようとする強さ。その全てが私をぐちゃぐちゃに引き裂こうとしている。もう何も分からなくなってしまった私は、結局不都合に逃げようとした。私はやるべきことがあるから、だからあなたを受け入れられない、そう告げようとしても、口が動かなかった。ああ、私はまた彼女を裏切るのだ。自分の思いがなんだと言っておきながら、都合に逃げようとして、さらにそれさえ告げられない。なんて愚かなのだろう。
「全部、分かっています。無理はしないでくださいませ。アイリス様にはフラン様がいます。私が入る余地など無いのです。一言、断っていただくだけで良いのです。それに、たった数日でアイリス様に振り向いてもらうだなんておこがましいのです」
ぼろぼろと涙を落とす彼女を見てもまだ、私は何も言うことができない。心の底から苦しいはずなのに、どうにか現実を受け入れようとしている強いシャロンを見てもまだ、私は何も言うことができない。
「違う、違うんだ……。私は……」
「最後のわがままを、聞いてくださいますか」
返事を待つことなく彼女は私の頬に口づけをした。焼けるような残映の下で、私の瞳から一筋の雫が流れる。ああ、やってしまった。私が何も言わないから、カラクリのようになっているから、彼女は自身で全てを否定してしまった。自分が抱いた感情も、楽しかった今日も、何もかも。せめて私が一言断ってあげることができれば、それは自分自身で過去も未来も閉ざしてしまうよりどんなに楽だっただろう。私の一言で消えた希望なら、手元に残った思い出だけは消えない。しかし自身で否定してしまえば、その思い出まで否定してしまうことになる。それがどれだけ辛いことかは、私だって痛い程分かっているはずなのに。涙が溢れて止まらない。全てを自身で受け入れる強さを持った彼女の前で、何もできない私は情けなく涙を溢れさせている。
「今日は、本当にありがとうございました。今日一日だけでもアイリス様の花嫁となることができて、心から幸せでした」
背中を見せて走り去っていった。とうとう隠れてしまいそうな夕日が見せたのは、橙に染まった彼女の涙だった。