私はひたすら泣いていました。夢を見る程惹かれたアイリス様は、こんなに遠い存在だったのです。全部分かっていたことなのに、アイリス様が困り果てる姿を見る度に胸が苦しくなるのです。楽しいデートの時間も、終わってしまえば苦しさを助長するばかり。あんなに楽しかったからこそ、あとはもう虚無ばかりが襲ってくるのです。私は部屋のカーテンを閉めて、電気もつけずにひたすらベッドを涙で濡らしていました。その日はもうほとんど寝られず、身体が休まることはありませんでした。
翌日、廊下が騒がしいのです。きっとアイリス様とフラン様がここを出発するのでしょう。でも、行きたくありません。もう一度アイリス様を見てしまったら、私はさらに苦しく、辛くなります。もういっそのこと全て忘れて、雑草のようになってしまいたい。この萎れた花冠も、もう見たくない。けれど捨てることのできない自分に嫌気が差しました。時計の秒針だけだった私の部屋の静寂は、私が一番恐れていた人物によって崩されました。
「シャロン、いるだろうか」
なんで、なんで来るの。あなたと私はもう関係ない。これ以上哀れみを向けるのはやめて。寝ていないからきっと酷い顔をしている。そんな私はもっと見られたくない。
「もう、近寄らないでくださいませ」
身体が宙に浮くような感覚がありました。アイリス様が私にハグをしているのです。あんなに酷かった顔が熱くなっていくのが分かります。何が何だか分かりませんでした。これは夢なのでしょうか。どうしてアイリス様がこんなことをしているの。私はこんな酷いことを言ってしまったのに。
「私は、あなたに惹かれてしまった。けれど私にはやらなければいけないことがある。だから全てが終わったら、またここに来ようと思う。その時は、もっともっと私を夢中にさせてほしい」
何を言っているのか分かりませんでした。これは、返事なのでしょうか。アイリス様は優しいお方です、どこまで本気で言っているのか分からない。こんなやつれた私を見て、哀れみを向けているだけなのです。そう思っているはずなのに、そう思いたいのに、脳は期待しているのです。私の思いがアイリス様に届いたと錯覚しているのです。身体が熱くなって、心臓の鼓動が加速しています。
「私はもう逃げない、シャロンの思いからも、自分の思いからも。優柔不断な私はあなたを何度も傷つけてしまった。こんな弱い私をどうか許してほしい」
これは、この瞳は、私の大好きなアイリス様の真っ直ぐな目です。アイリス様は本気です。なのに、喜んでいいはずなのに、どうしても疑ってしまう。けれども、身体は勝手に動いていました。もう彼女への気持ちが抑えられませんでした。もう離したくない、フラン様に取られたくない、私のことだけ考えてほしい。アイリス様に抱きついて、私の匂いを残そうと、私の爪痕を残そうと決して離すことはありませんでした。私を救ってくれた王子様、やっと私は、絵本の主人公になれたのです。こんなに大好きなアイリス様に、振り向いてもらえたのだから。
「私の匂い、いっぱい付けちゃいました。これでしばらくは安心です」
「行ってしまったな」
「お父様、お話があります」
面と向かってお父様とお話しするのはいつ以来でしょうか。そう考えると、アイリス様は私を隅から隅まで変えていってしまいました。お父様のことを考えないようにしていた私を、畏まって話を持ちかけるまでに成長させてくれました。
「お父様は、大会の優勝者を婿にすると言いました」
「言いたいことは分かっている。幸せそうなお前を見れば、おそらくアイリスに惚れたのだろう。氷のようだったお前を変えたのだ、よほど魅力的だったのだな。ワシはお前の幸せを履き違えていた。だからもうワシには何も言う資格は無い。せめて、お前が選んだ幸せを応援させてほしい。まあ、これもアイリスに諭されてやっと気づいただけなのだがな」
「お父様……!」
張り詰めた空気が一瞬で消え去っていきました。目の前には厳格な国王はいなくて、子を愛する父親がいるだけでした。アイリス様はお父様まで変えてしまったのです。アイリス様はただ剣士として強いだけではありません。他人の心のすぐそばまで寄り添ってくれる優しさと強い責任感に根差したカリスマ性があるのです。そんなアイリス様に私はいくつプレゼントをもらったのでしょうか。幸福で胸がいっぱいでした。数日前まではあんなに苦しかった毎日が、今は何でもできる気がしているのです。アイリス様が次にここを訪れた時のために自分を磨こう、そんなことを考えたりもしました。もうとっくに行ってしまった二つの影を思いながら、窓を見つめるのでした。
「いつまでもお待ちしています、アイリス様」