ありふれた錬成師とハイリヒ王女 作:エヒトルジュエの箱庭
ハジメは王都の王宮から離れた庶民の住むような場所で借家を借りることができた。世帯で暮らすには狭いが一人で暮らすには十分すぎる大きさの平屋で、ここから鍛治工房に行っている。
ハジメが紹介された錬成師の工房はウォルペン工房。ウォルペン・スタークというハイリヒ王国直属の筆頭錬成師が代表の工房で王国で一番の実績と信頼がある場所だった。そこへ昼前に歩いて向かうハジメ。
一月も生活をしていれば住民も慣れてくる。無能と宣伝されたハジメのことも普通に接している。道で会えば普通に挨拶をするし、買い物が一緒の場所なら世間話もする。無能でもただの人間なのだと理解すれば人間の態度も変わる。
そして無能という誹りも実績を上げていけばなくなっていく。
今では一般人と変わりなく歩くハジメの姿に、左足が義足だなんて思わせない様子は人々の希望になっていた。義足は確実にハイリヒ国民の助けになっていた。魔人族との戦争、魔物討伐、冒険者の存在から義足の需要はかなりあったのだ。
足を失った亭主の支えとなる義足が開発され、亭主が元気になって生活が潤い始めたこともある。義足の改良によって走れるようになった者は低ランクながら冒険者に復帰したり、戦術指導員になったりなど雇用を増やす要因になっていった。
走れるようになったことはもちろん、農作業や牧畜の活性化にもなった。義足を手に入れたからといって前職に戻れる訳でもない人が手を出すのは慢性的に人手不足な重労働である牧畜などの生産業が多かった。
これは神の使徒の一人でもある畑山が作農師の力を使って農地開拓や地質改善などを進めて王国のどこでも農作業が行える人手を募集したからだ。戦場を嫌った元騎士や冒険者などがこの募集に群がり、王国の自給率は上がって他国へ輸出をする余裕が出来、経済も回り始めた。
魔人族との戦争を見越して食料の備蓄を始めてもそれだけの余裕が捻出できたのだ。これには畑山の評価がうなぎのぼり。そして人手不足解消のキッカケを作ったハジメのことを無能と呼ぶ人間は少なくなっていった。教会でも表立ってハジメを無能とは呼ばなくなっていく。
これは義足を買った者へ直接畑山が義足の素晴らしさを訴えたことも大きい。畑山の愛らしい見た目と一生懸命な様子、そして仕事にありつけるようになったのは畑山とハジメの二人がいたから。
ハジメの義足の評判が良い理由は義足そのものの頑強さや走れるほどの高性能ということもあったが、それだけじゃない理由もあった。
まず取り外しが楽なこと。太腿や膝に拘束バンドを取り付けるわけだが、このバンドはベルトのように調節ができて一人でも取り外しができること。人に迷惑をかけないというのがユーザーの心を掴んだ。
後は値段が安いことだ。義足はブーツと重りに使っている中身、そして足首と膝間接周りを柔軟にするためにカエル型の魔物の皮膚を用いているのだが、材料はそれだけ。
重りの中身とカエル魔物の皮膚は畑山に同行したクラスメイトに調達してもらっているので元手があまりかかっていない。クラスメイトからすれば護衛ついでに倒した魔物を解体しなくてはならないが、それでハジメというかウォルペン工房から報酬金が支払われるのでアルバイト感覚でこなしてくれる。
それを運ぶのは冒険者にやってもらったりしているが、討伐依頼でもないので依頼費もあまりかからない。この依頼もリリアーナが手を回し、義足の補充は国家の将来を考えて国家事業にすべきだと綿密な企画書を提出したことで国家予算から依頼費が払われている。国が負担しているのはここだけ。
ここだけなのだが、義足の改良型が販売されて僅か半月ほどなのに既に投じた年間予算を回収できる算段ができていた。これには国庫管理大臣も大喜び。それだけ畑山の天職がチートで、チート過ぎるために人手がまだ足りない状況だった。
こうなれば運搬の依頼くらい全額出しても痛くも痒くもなかった。カエル型魔物を絶滅させないことだけを注意喚起したものの、その魔物は結構大きいサイズの上にほぼ全身の皮膚を利用できたのでコスパはかなり良い。
しかも義足で使うのは精々足首周りと膝関節だけ。膝が残っている者用の義足なら必要なく、足首だけなら全然使わない。むしろ今ではカエルの死体が余っていた。
義足の需要に供給が足りず、そもそもウォルペン工房は義足専門ではない。王家に下ろすための武具作成に、名のある冒険者も制作依頼を持ってくる。本業をするためにハジメは他の工房へ義足作成のレシピを公開していた。
ぶっちゃけ拘束バンドの部分がトータスで画期的なだけで、そこさえ錬成してしまえば後の部分は錬成師ではなくてもできる。拘束バンドのみは強靭にしなければならないが、その作業をした後はカエルの皮膚を使った加工などは錬成師がやらずに手先が器用な人間に任せるという分業制を施行。
これで量産体制を整えたために需要に追い付き始めた。分業制にして関わる人が増えたために値段が上がるのではないかという心配の声も出たが、ハジメがそんなことはさせなかった。
今必要なことは数と速度。そこを値段という壁で阻害するわけにはいかなかった。足を失って職に困っていた人から暴利をふんだくるわけにはいかない。それでは義足は売れない。
だから義足は材料費と最低限の手間賃にちょっとだけの利益を足しただけの金額で販売。それでは売れても雀の涙程度にしか儲けにならないではないかという声をハジメは斬り伏せた。
「これは試作品です。完成品ではありません。こんな改良点がたくさんある物を高額で売るなんて物を作ることに情熱を注いできた人間のすることですか?」
そんな煽りも混ぜてハジメは力説した。
この義足はどんな場面でも使える物ではない。ある程度の強度を成立させたが、ぬかるんだ場所や山道に獣道、雪の上や砂漠などどこでも使える物ではないと。
元冒険者が使うなら走る速度に不満だろうし、柔らかい地面では沈んでしまう。山道では膝に負担が掛かるだろう。
だから工房それぞれで強みを、オリジナリティを出して欲しい。全ての顧客の需要に応えられるようにしたい。一つの工房では無理でも王都全ての工房が力を合わせればできるはずだと。僕よりも熟練者であり年配であるあなた方の情熱と知識と誇りを信じたいと。
そこまで言われては黙っていられないのが職人としてプライドのある者達だ。確かにオリジナリティを出せば客層を独占できるかもしれない。しかも王国公認で他国への義足の販売を許可してもらったので砂漠対応型や軍人向けの高性能義足は売れるかもしれないと商人としての勘と経験則がこの市場のデカさを強く訴えかけてきた。
義足で工房の名前が売れれば付随して他の商品も売れるようになる。実際王国では農業従事者が増えたので農具が足らず、農具の売れ行きが良くなっていた。この一大ムーブメントに乗り遅れてたまるかとどこの工房も競うように義足を作り始めた。
そして貧困家庭でも義足を買えた最大の理由は義足の購入に関しては利息なしのローン払いが認可されていたからだ。
国を挟むことでこの大胆な支払い方法を成立させ、貧困家庭は農業の給与から差し障りのない金額でローンを払えることで生活が成り立ち、国としては農業従事者が増えてWin-Winの関係を築く。
ハジメは需要と供給を満たすために安価で義足を整えることに注力したが、本音としてはテスターとして使ってもらっている人達に高額で売りつけるということをしたくなかったのだ。
まだ満足のいく出来ではなく、様々な場面で用いているユーザーの声を聞いて改良する。そんな流れの初期段階で一部の金持ちしか手に取れない状況を作るのはゲーム会社でアルバイトをしていたハジメからすればちゃんちゃら可笑しいこと。
デバッカーにはお金を払い、β版のゲーム体験は無料で配布して意見を集める。ゲーム制作に関わっていたからこその意見をハジメは突き通した。それが回り回って全員に利益を出すのだとリリアーナに説明して意見書を出してもらった。
こうして国に利益をもたらして義足の開発者としてハジメの評判を稼ぎ、ハジメ自身は義足の作成を丸投げしたことでウォルペン工房で錬成の技術を学ぶ時間を確保するという全員が得する状況を作り出していた。
最もこんなことをハジメだけではできず、リリアーナの協力があってこそだ。国の予算関係はリリアーナに丸投げだった上に、他の工房の職人達の人となりも市井に紛れていたリリアーナの助言あってこそ。
ハジメがやったことは設計図を書き起こしたことと、他の工房の人に対する作成講座を開いたこと、後は矢面に立ったことくらい。今回の件はリリアーナの方が働いているとハジメは思っていた。
最近のハジメの一日はお昼前に起きてブランチを食べてから工房に行き、そのまま夜どころか朝まで工房に籠って技術を学んだり武具を作って家に帰り四時間ほど睡眠を取るというサイクルだった。
地球にいた頃もやっていたことなのでハジメとしてはそこまで負担があることではなかった、三徹とかはせず、ウォルペンの教えで必ず睡眠時間と週休一日は確保されていた。命を預ける武具を作るなら休むことも大事だと言われ、「不完全な体調で出勤してきたら全力で殴るからな」とまで言われた。
確かに武具を使う人からしてみれば、使っていた物が鈍だったり不良品だったりしたら死んでも死に切れない。
不良品を売らず、整備にも真剣に取り組む。それが職人としての当たり前。
そんな心構えを初日に叩き込まれたものの、ハジメとしても両親の仕事はプロフェッショナルだったので評価を落とさないように真剣に取り組んでいた。つまりは同じように仕事をしろということ。
ハジメも職人気質だったのですぐに工房に馴染むことになった。義足も作りつつ今は武器の花形である剣と槍を作成して特に剣は最近手応えを感じ始めてその日は帰宅する。
夜ご飯は工房の誰かと近くで食べに行くことが多いが帰る朝方や夜明け前だとやっている飲食店がない。二十四時間営業のコンビニやファミレスがあるわけがなく、深夜食堂と銘打っているお店は基本飲み屋だ。
飲んでしまっては次の日に響きそうだということと、飲酒がハジメの年齢でも許されている世界だとしても未成年という意識があるハジメは飲み屋に足が向かなかった。
冷蔵庫に似た物は開発されていたのでそこに入れておいたパンとソーセージを温めて挟んで口に入れて、シャワーを浴びて寝る。一日の終わりはいつもこんな感じだった。食事だけは面倒で十秒チャージやバランス栄養食、乾パンなどが恋しかったハジメであった。
目覚まし時計はなかったものの、体内時計がこの生活に慣れたのか昼前には起きれるようになったハジメ。学校へ朝早くから行く必要もなく、お昼近くまで寝ていられるというのは地球にいた頃よりも健康的かもしれなかった。工房にはお昼を食って出勤するように言われていて厳密な出勤時間は決まっていなかった。
その日の仕事を終わらせられるのならいつ行っても良いのだ。ハジメは工房の中でも一番の新人だからこそなるべく早く行って最後まで技術習得に執心しているので、今工房に一番いる人間かもしれない。
そんな真面目な姿勢のハジメは工房の人に可愛がられていた。地球の技術の知識を持っていることもあって様々なアイディアを出してくれることと、職人の技術に貪欲なこと、そしてセンスも光り錬成の腕も悪くなかったので職人は気にいるわけだ。
もう一日働けば一日休みだと思いながら太陽の陽射しを目にして起きる。朝ご飯はどこかの喫茶店のような場所で美味しい物を食べようと考えていると、なんだか美味しそうな匂いがした。ジャガイモとベーコンを炒めている匂いだ。胡椒も使っているらしい。
隣の家のご飯だろうかとまだあまり覚醒していない脳で考えながらベッドから出る。左足に義足を着ける習慣もすっかりついていた。
そしてリビングに行くと、金色の長い髪をシュシュで一房に纏めた、質素な庶民のような服を着た場違いな美少女がそこにいた。
(夢かな?)
そうハジメが思うのは仕方がない。色々と協力をしてきたが、借家に無断で上がっている王女殿下なんて予想しろという方が無理だ。
料理をしながらもハジメのことに気付いたのか、リリアーナは笑顔を向けながら挨拶をしてくる。
「おはようございます、ハジメ様。勝手にお邪魔して申し訳ありません。でもじきにご飯ができますのでもうしばらくお待ちください」
「ああ、うん。おはよう……。リリアーナ、どうやって入ったの?」
「一応この借家は
「それって王族には入られ放題ってことじゃないか⁉︎すぐに返して!」
「わたくしかヘリーナしか来ませんわ。父上やランドルは鍵なんて持っていませんし、来る理由もありませんもの」
ついでにお母様も来ませんわと付け足してリリアーナは料理を続ける。バケットも出来立てを買ってきたようで既に食卓に並んでおり、炒め終わったのか料理が並べられていく。スクランブルエッグと、ジャガイモとベーコン炒め、それに野菜も摂取できるようにボウルサラダもあった。
バケットに塗る用のジャムやバターの置き場まで把握されていたようでそれも食卓に並べられる。
何でリリアーナがここにいるのかとか、王女様なのに料理できたんだとか、何で侍女のヘリーナがいなくて一人なんだとか、突っ込みたいことはたくさんあったが折角作ってもらった料理は温かいうちに食べなくてはもったいないと感じてハジメは食べ始める。
電子レンジがない世界だ。温かいご飯というだけで価値がある。
リリアーナはもう既に朝ご飯を食べてきたのか食卓に座るだけで食べないようだった。並べられている料理も一人前だ。いただきますと告げてハジメは食事を始める。
食べながら、用件を尋ねてみた。
「それで、何で直接家に来たの?何か用事があれば手紙でも良かったんじゃ?」
「名目上は神の使徒の一員であるハジメ様の経過観察です。仕事に熱中しすぎて倒れられたら王族も笑われてしまいますから。それに手紙の往復を考えるより、こうして直接見た方が手間もなく状態をしかと確認できますわ」
「なるほど。料理を作っていたのは?」
「趣味、でしょうか。立場的に料理を作る機会も少ないので。それにカオリも地球の頃からハジメ様の食生活は不安に思っていたと言っていました。なのでその辺りも加味して作ってみました。ハジメ様以外の職人の皆様も結構食生活が杜撰ですから」
「あー……。ありがとう。美味しいよ」
「それなら良かったです」
そんな表向きの話を聞いて、食べ終わってから腰を落ち着けて本題に入る。
「それで、名目上じゃない話は?」
「王国内でもハジメ様の評価が上がってきたということを伝えること。それと三日前の出来事になりますが遠征組と迷宮攻略組から手紙が来ました。その内容の報告ですね。遠征組は今の土地が終われば一度王都に戻ってくるそうです」
「確かにそれは僕じゃ知ることのできない情報だ」
遠征組というか、畑山がハジメのことを心配して一人暮らしの様子とか、今の状況を確認したいと手紙には書いてあった。予定通りなら明日にも王都に戻ってくるようで、ハジメの予定を確認しておきたかったとのこと。
ハジメはちょうど明日休みなのでリリアーナに畑山へ住所を教えるようにお願いした。行き違いがあるよりは家で待っている方が良いだろうと判断してだ。家を見にくるのだからその場にいた方が面倒もない。
親かな?と思ってしまうのも仕方がない過保護っぷりだが、口にはしなかったハジメ。
「迷宮攻略組の方は?何か進展があったとか?」
「今はオルクス迷宮があるホルアドを拠点としているので定期連絡として送られてきたようです。現在四十階層を突破したようですわ。一月前の時点で四十階層辺りに出現するトウラムソルジャーを撃破できていたので戦力を鑑みますと順調の一言ですわね。迷宮攻略は力があればできるというわけでもないので迷宮の進み方の基本を押さえ始めた頃でしょう。ここからは攻略速度が上がると思います」
「本当に速度が上がるかな?まだ一ヶ月だし、六十五階層には確実にベヒモスがいるんでしょ?」
ベヒモス。正直ハジメとしては名前も出したくない相手だ。
ベヒモスの名前を出した途端、左足の付け根が疼いた。トラウマになっているためか、特に左足が敏感になっていた。
曰く最強の冒険者も歯が立たなかった魔物。曰く陸の王者。現状確認されている中でもドラゴン種を除いて最強の魔物。
空の王者とも呼ばれ、数あるファンタジー作品でも揺るがぬ最強の名を欲しいままにしているドラゴンの次に強い魔物としてこのトータスでは認知されているのだ。六十五階層で存在を確認できているという情報があるだけでそこに本当にいるのかはわからない。
ハジメ達が遭遇した存在は奈落へ落ちたし、アレがベヒモスだったという確証もない。だがあのレベルの魔物が確実に存在していることは揺るがない事実。
どれだけクラスメイトが強くなったのかハジメは全く理解が及んでいなかったが、あんなバケモノに最初の遭遇時よりも人数が減った状態で倒せるのか疑問だった。量より質の場面もあるだろうが、あのベヒモスはとにかく別格だったとハジメは考える。
最強の守りたる「聖絶」の三重掛けも突破する突進の破壊力。そして当時とはいえこの世界でもチートの力を持ったクラスメイトの魔法の嵐でも全く怯むことなくハジメへ向かってきていた。
あのバケモノに勝てるビジョンがハジメは全く浮かばなかった。だが、たった一体の魔物に勝てなければ戦争にも勝てないだろうという教会と国の判断から迷宮組は攻略を続けている。
ベヒモスを誰もが一つの指標にしているのだ。勇者が最強の冒険者を超えるのか。神の使徒の成長率とはどれほどのものか。ドラゴン種の魔物なんてほぼ見付からないので準最強で力量を測ろうとしている。
ハジメはオルクス迷宮からの脱出の際、気を失っていたので知らなかったのだがトウラムソルジャーを抜けた先の階段を登ったらまた転移する魔法陣があったようで、しかもそれは罠検知に引っ掛からなかったらしい。
転移した先は二十階層の罠があった地点で、そこから超特急で駆け上がって逃げたらしい。その転移は一方通行だったらしく、同じ手段は取れなかったので今は順路で攻略を進めているのだとか。
そんな親切設計だったためにハジメは生きているので、迷宮の仕組みについては何も言うことはなかった。
ただ
ハジメからすればできれば迷宮のことも思い出したくないことだからだ。たまに左足を喰い千切られる瞬間を夢の中で思い出して魘されている。
わざわざ左足を喰い千切ったことも今考えればおかしいと思うが、それはハジメの心の内に仕舞い込んだ。
あの時ベヒモスがもっと暴れて橋を完全に崩壊させてしまえばハジメ諸共奈落に落ちていたとか。
噛んだまま落ちた時も同様。噛み千切った時にベヒモスが首を振らなければ体がメルドの元まで飛ばなかっただろう、とか。
おかしなことも多かったが、結局は推測に過ぎないので何も言わなかった。
「ベヒモスに負けたらそこまでということでしょう。オルクスの迷宮は百階層あると言われています。誰も百階層まで辿り着いていませんが、神の使徒であればそれくらい突破してみせないと箔が足りないのです。戦争が始まる前の宣伝としてわかりやすい偉業であり力を見せつける簡単な方法はオルクス迷宮の攻略ですから」
「最強って呼ばれている人が敵わなかったって指標は民衆にとってわかりやすいからね。最強に打ち勝った勇者様。人類の旗頭になるのなら前人未到の成果が必要ってことだよね」
「はい。いきなり戦場に連れて行くわけにもいきませんから。戦闘経験、箔付け、だんだん強くなる相手という迷宮の構造からレベル上げにも適しています。騎士団が新兵の教育にも使うほどにあそこは訓練に適した場所ですよ。統率が取れていれば、ですが」
報告はそんなところで、この後リリアーナはウィッグを被って市井に紛れるらしい。髪を全部纏めてボブカットのウィッグで目立つ金髪を隠し茶色い髪をした少女として街を練り歩くそうだ。
ヘリーナがいない理由は、いたらリリアーナの正体がバレかねないから。王宮に出入りをしている人間ならヘリーナの顔が割れている可能性があるのだ。もしもの事態に備えて近くに潜伏しているようだが、基本は一人行動をするようだ。
ハジメも工房に向かうことにして家を出る。
これが最近の、ハジメの日常だった。
・・・・・・
迷宮攻略組は二ヶ月という時間をかけて六十五階層に到達していた。五日迷宮に潜ってはホルアドの町に戻って武器のメンテナンスや補給、休養を取っていたので一月ほどで二十階層以上進めたのは大進歩だ。それもこれも王国から与えられたアーティファクトの数々と高いステータスに希少な天職のおかげだった。
ホルアドには王宮に寄越されたメイドや貴族の男達も来ており、休日にはデートに出掛ける神の使徒もいたようだ。それが上手い具合に良い息抜きとモチベーションに繋がり、快進撃を続けていた。
六十五階層は初めてオルクス迷宮に入り、転移で飛ばされた場所と同じだった。撤退する時は気付かなかったのだが登り階段の近くに隠された順路が存在した。退路があるとわかったので攻略組は進む。
転移罠に引っ掛からなかったからか、あの時と状況は違っていた。崩れたはずの橋は元通りになっており、トウラムソルジャーの群れは存在せず、下る階段の前に迷宮の暗さで全容が掴めなかったが巨大なモンスターが一体だけで陣取っていた。
この場にいる、十mを越す魔物。それだけで勇者はあの時の魔物だと判断した。
「アイツは橋と一緒に落ちたはずじゃあ……!」
「橋も復元されているだろう。迷宮にはまだまだ不明なことが多い。気を引き締めていけよ!」
メルドがそう檄を飛ばすのと同時に影は動く。暗い地の底から這い出て来たかのように赤い眼光を走らせ、二本あるはずの象徴的だった角は片方が途中でポッキリと折れており。頭部の兜のような形状も鋭利な何かに傷付けられたのか裂傷の痕などが深く残っており。
どうも肉体にも傷があちこち残っている魔物らしからぬ姿。
そんな
『グオオオオオオ!』
ベヒモスの咆哮が開戦の狼煙となった。
前衛組が駆け寄ることと同時に後衛組が魔法の準備をする。支援魔法に攻撃魔法、自分達の頭で考えて何が必要かを見極め、詠唱を始めていた。
ベヒモスにどの属性の魔法が通じるのか、情報が少なすぎる。だから最大火力の魔法か、魔法の合わせ技で威力を上昇させるか。
なんにせよ、前衛組がベヒモスへ届くまでの牽制を第一にする、はずだった。
「まっず⁉︎全ての敵意と悪意を拒絶する、神の子らに絶対の守りを、ここは聖域なりて、神敵を通さず──〝聖絶〟!」
結界師の少女が用意をしていた結界魔法を用いて前衛組の前に最強の壁を用意した。魔法が発生した直後、それはパリィン!と脆くも呆気なく弾け飛んでいた。
ベヒモスの突進の速度があまりにも速く、前衛が攻撃を仕掛けるよりも、態勢を整えるよりも早く全滅させられると判断した少女の咄嗟の判断だったが、現状最強の防御魔法さえも儚く砕け散った。
ベヒモスは障壁にぶつかった衝撃で若干ノックバックをしたが、すぐに突進を繰り返す。その僅かな時間が他の魔法を間に合わせた。
風と火の複合魔法、純粋に高火力の火の魔法。多種多様な魔法がベヒモスへ降り注ぐが。
ベヒモスは聖絶のノックバックほども足を止めず、速度を一切落とさないまま近接職達へ突っ込んだ。
本来、ボス戦で前衛の人間は後衛からの魔法で足止めしたところから戦闘を始めていた。動かない相手へ連続攻撃を当てて、その最初のアドバンテージを活かした怒涛の攻撃の嵐をぶつけてボスに勝ってきた。
それでも倒せなかったら、勇者の光魔法の出番だ。限界突破という奥の手もあり、火力はステータスも加味して神の使徒一行の中でも最大。
ここまで負けたことはない常勝軍団。それは教会や国にとって既定路線であり、最悪の誤算だった。
同行している騎士団を除き、攻略組の考えはある程度一つになっていた。雑魚なら敵ではない。ボスも、お膳立てをする役目は嫌だが、勇者が最後は決めてくれると。
そんな安定感と精神的主柱がいること、そして楽観視が合わさった慢心を、自分達が撤退したベヒモスが相手でもいつものように心に残して挑んでしまった。
警戒していたのはハジメの左足を奪われたことに対して復讐心にも近い闘志を燃やしていた白崎と、白崎の幼馴染の少女くらいだろう。
だから、ベヒモスの初手。
それだけで士気が一変してしまった。
ドゴン!という何かが壁に激突する音。ソレが殴り飛ばされて壁に激突するまでの速度を視認できた者は一人を除いていなかったし、何が飛ばされたのかも理解できなかった。
初めに気付いたのは前衛組。一緒に走っていたはずの人物が近くにいなかったから。
後から気付いたのは後衛として壁の近くで待機していた人間。壁に激突した際に発生した土埃が晴れて、大穴を作ってまでめり込んだ物体が何か、視認できたのだ。
「こ、光輝⁉︎」
「天乃河がや、やられた⁉︎」
「白崎、辻!即座に天乃河を回復させろ!死にかねんぞ!」
「は、はい!」
エースがやられたことに動揺が走り、士気が下がる。しかも貴重な治癒魔法を使える二人が勇者につきっきりになってしまった。
勇者は聖鎧というアーティファクトのおかげで死んではいなかったが、全ての攻撃も衝撃も抑え込めたわけではなく鎧の下は骨折など痛ましい状況になっていた。首の骨が折れていなかっただけマシ、という状態でたとえ治したとしてもすぐに戦線復帰できるような怪我ではなかった。
ベヒモスからすれば聖剣と聖鎧という妙に眩しい物が目の前にあったから排除しただけ。そして彼は、そんな先制の攻撃で終わるわけがない。
後ろを、状況を確認してしまった前衛組はベヒモスの突進を防げるはずがなかった。最前列にいた拳士は空手の経験を活かしてなんとか避け、重格闘家も柔道の柔を駆使してどうにか迫る拳をいなしたが、他の前衛はそうもいかなかった。
槍術師は突進で突き出された角を避けることができず、そのまま腹部を刺され上半身と下半身が別れた。軽戦士は角と拳は避けたものの、そのまま迫りくる尻尾による地面と水平になるようにきたフルスイングを避けられず、階段がある壁とは異なる、下には深い暗闇しかない絶壁へ叩き付けられた。
軽戦士はそのまま誰にも助けられることなく、体は奈落へ落ちていく。勇者のように壁へめり込まなかったために壁から引きずり落とされるように常闇へ消えていった。
「近藤⁉︎檜山まで……⁉︎」
「ひ、ひいいいいいいいいぃぃぃぃッ⁉︎」
初めての明確な死者が出たことで神の使徒は決壊した。ここまで負傷者は出したものの死者は出なかったために油断していた。
自分達は強いのだと。このまま迷宮を攻略して、戦争も終結させて英雄になるのだと。
自分達は『絶対に死なない』のだと。
どこかで思ってしまったのだろう。
クラスメイトの左足だけではリアリティが足りなかったようだ。
だから、この場面を覆せる行動を取れるものは少なかった。
「魔法寄越せぇ!」
このままでは全員死ぬと、即座に判断した暗殺者が自分の存在を犠牲にしてでも突貫した。敏捷だけなら、瞬間速度だけなら勇者よりも速い彼は全滅と一人の命を天秤にかけて一人の命を捨てた。
ベヒモスは二人を殺した程度で止まろうとはしなかった。だから、動きを止めるために嫌がらせをする。
彼はこの中で唯一、勇者が飛ばされたことに気付いていた。動体視力も一番良く、彼だけは確実にベヒモスの攻撃を見切れていた。
それは暗殺者としてのスキル。相手が魔物だろうと人間だろうと確実に殺すための偏重的なステータスと技能、それに付随した身体能力を得ていた。
だからこそできるだけ気配を消して、いざという時に備えようとした。だが備えるよりも前にベヒモスの行動が早くてどうにもできずに死人が出てしまった。
これ以上はと、それだけを考えて突貫していた。
彼の攻撃力だけではベヒモスを倒せない。だが、足止めだけならできる力があった。彼が一人で戦っているとわかってベヒモスの足元に魔法を放てる者もいた。彼の声に感化されて動けたということもある。
暗殺者は目を狙って攻撃を仕掛けていたからだ。視界さえ奪えば動きを制限できる上に、頭の近くで小さい生き物が動いていれば邪魔で優先的に排除しようとして足が止まると考えての行動だった。
彼の目論見は成功し、ベヒモスは動きを止めた。それに乗じて暗殺者のパーティーリーダーである重格闘家は拳士を連れ立って槍術師の遺体を持って帰る。ここで捨て置くのは何か違う気がしたからだ。
孤軍奮闘を続ける暗殺者のために、同じパーティーの土術師が魔法を完成させる。
「南雲だってやってたんだ!」
錬成師が地面を変形させてやっていたのなら、土術師というもっとエキスパートな自分ができないはずがない。その信念で橋を分解してベヒモスの足元の石材を全部消しとばしていた。
ベヒモスの体の上を走っていた暗殺者は同じパーティーを組んでいた土術師が何をするのか、してくれるのか理解していた。だからベヒモスの顔を蹴って橋の上に戻る。
ベヒモスがあの時のように奈落へ落ちる。その確定事項に安堵と達成感から歓声が湧く。
──前に、おどろおどろしい
『グオオオオ!』
短い遠吠えのようなもの。
負け惜しみの咆哮にも聞こえたが、そうではなかった。一番近くでベヒモスを見ていた暗殺者が顔を青くさせて撤退して大声で叫ぶ。
「逃げろ!アイツ、
「は、はぁ⁉︎」
暗殺者の言葉は到底信じられないもの。翼もない四足歩行の生き物が、どうやって落下から復帰できるというか。
そもそも足場を作るとは何のことか。
全くわからなかった正解が、暗闇を引き裂いて現れる。
軽戦士が衝突した側面の壁から、突如として橋よりも太くて大きな、先端が鋭利になっている岩の槍とでも言うべきものが突き出してきた。それは角にも見える形状で、何やらそれは生き物を載せているかのように振動しているではないか。
暗殺者の言葉を理解したメルドが即座に指示を出す。神の使徒一行のリーダーは勇者だったが、その勇者がダウンしている時点で指揮を取るのはメルドになる。
「撤退だ!即座にこのフロアから逃げるぞ!あのベヒモスはバケモノだ!」
その言葉と同時にベヒモスは岸壁でできた槍を登り切り、地上へ続く階段側に残っている橋へ着地する。
もう挑んで来ないのかと、ベヒモスは問い掛けるかのようにその場を動かなかった。仕切り直しではないのかと、人間の集団を見渡す。
そんな若干の間があったために暗殺者は離脱に成功し、白崎はその見覚えのある魔法のようなものに呟きが出る余裕があった。
「あれ、南雲君の錬成……?」
そんな、ありもしない憶測が口から出ていた。
その呟きは撤退行動の最中だったため誰にも聞かれることなく、誰にも追求されなかった。今回も神の使徒一行はベヒモスを前に無様にも逃げ出した。
ベヒモスは逃げる者を追うことはない。
この六十五階層こそ彼の
またここで待とう。
もう一度、再戦を。
それだけを思い、自分の住処で来訪者を待つ。
神の使徒一行。
六十五階層の攻略失敗。
ベヒモス一体を相手に死者一名、行方不明者一名。
勇者、半月の絶対安静。
感想とか誤字報告、ありがとうございます。励みになります。