シンボリの恥 作:文章修行僧
ストレイシンボリ→道を外れる、的な意味を持つストレイと冠名の合わせ。
“ウマ娘”
見目麗しき乙女の外見に、人ならざる耳と尻尾を携え、人ならざる怪力を持って生まれる彼女達は、何よりも“走ること”を好んだ。人もまた、彼女たちが大地を駆け抜ける姿に、羨望、憧憬、そして悦楽を見出したのである。
彼らは今日に至るまで、生活の全てにおいて協力し、穏やかに発展を遂げてきた。その中でも、やはり“走ること”に重きをおいた文化が強い成長を見せ、それはいつしか、熱狂渦巻くスポーツ・エンターテイメントへ変質した。
ウマ娘達は、輝かしい未来の世界へ駆け抜けるために【トレセン学園】へ入学し、人もまた、“トレーナー”となり、彼女達を助け、苦楽を共にし、栄光を掴もうともがく。
そして、大衆はそんな彼らを糧に、今日も穏やかに日々を送るのである____
(辞めようかな、この仕事)
巍然屹立としたビルが列をなし、体臭と排気ガスと飯の香りとが混ざり合う淀んだ空気の中、歩道の中に無造作に散らばって歩く有象無象の流れに逆らい、一人綺麗な青空を見上げる男は、【日本ウマ娘トレーニングセンター学園】通称“トレセン学園”に所属しているトレーナーである。
死人のような目線の男は、まるで、押してしまえばそのまま倒れ崩れてしまいそうな不安定さがあった。
難関を極める中央トレセン学園のトレーナー免許を獲得した頃の彼には、溢れんばかりの情熱と教育心に満ち溢れた目があった。未来は明るいと信じてやまない目であった。それが、一人、また一人とウマ娘の面倒を見ているうちに、レンズが傷つき、曇っていくようにくすんでいき、現在の彼を形成してしまったのである。
(おかしいなぁ〜)
聳え立つビル群が見上げる大空に一つだけ浮かぶ雲は、陽光に照らされて影になっていた。彼はそれが自分にしか思えなかった。
思い上がりは身を滅ぼす。彼が身をもって経験してしまったことである。
しかし、実際のところ彼がこうなってしまったのは、壁に激突し大怪我を負ったからではなかった。
自身が摘んだ新芽が、皆一様に頭を下げてきたことであった。
『トレーナー……今まで、ありがとうございました』
『勝てなくて、ごめんなさい……』
『トレーナーは悪くないよ』
……
罵ってほしかった。殴ってほしかった。その方が、傷は薄皮を切る程度。回復すれば痕も目立たないであろう。
彼は、頭痛で割れそうなボサボサの頭をかきむしり、伸ばし放題の髭が目立つ、乾燥した口から、生温かい空気を吐き出す。そして、多種多様な表情をした群衆の中を、ゆっくりと歩き出す。
彼の革靴が奏でる足音は、不揃い極まりない都市の合奏の一部となり、彼の細い風態もまた、行き交う人の波に沈み、消えた。
霞の中を彷徨うかのような男の放浪は続く。今は、日の傾き具合からして午後3時頃だろうか。トレセン学園の練習コース場は、力強い足音と、熱の乗った息遣い、手厚い指導の声が幾重にも重なっているのだろうが、今の彼にはどうでもいいことであった。
いつの間にやら、道幅は狭くなり、人通りも疎となっていた。電線の隙間から覗ける空の下、錆びた商店や、シャッターの閉じた静かな雑居ビルが所狭しと並ぶ、淋しい下町である。
それが、心地よい風景に感じてしまう自分が、彼は嘲笑の的に感じた。
「____」
その時であった。彼の耳に、確かにソプラノ調の声が聞こえた。
仕事と足の音しかしないこの場所において、彼は小さな不愉快さを覚えた。普段なら些細なことと割り切れるのが、今日に限って堪えようもない怒りに変換されていく。
よく耳をすませてみれば、それはどうやら悲鳴のようである。さらによくよく注意を払えば、男の下卑た低い笑い声が聞こえる。彼の右隣の、ビール缶のゴミが転がる、湿った路地裏の先からである。
彼の足は、右隣へ一転、嬉々として向いた。
白いカバーが茶色に染みて、触るのも憚られる室外機の生暖かい風を乗り越えて、彼は路地裏の中へ足を踏み入れた。
歩けば歩くほど、ヘドロのようなひどい匂いが漂うこの場所からは、女の甲高い声と男の笑いが強まって、自分の足音がよく聞こえるようになった。左右の建屋の壁が、まるで自分を押し潰しにくるように感じた。
無心に進み、進み、ひしゃげた鉄パイプを踏み越え、ようやく辿り着いた場所は、息が詰まりそうな空き地。そこで、男は目当ての事件現場に遭遇した。
「へへ……アン?」
「……!た、助けて……!!」
屈強な若い金髪の男が、仕事帰りかこれから行くのか、スーツを身につけた清楚な女の腕を掴んで離さないでいる。男はこちらに気づいたかと思えば、その辺の野良犬のように凄んで見せ、女は恐怖と冷や汗に濡れた表情で、震えた片手を伸ばしてくる。
そんな情景を眺めていた男の視線は、愛も変わらず冷めきっていた。
「やめなよ、そこの女の人、嫌がってるでしょうに……」
と、自分でも驚くほどやる気の無い声が響き渡った。急に、我に帰ったような気がした。
その瞬間、
「……え」
目の前に、巨大な拳が迫っていた。
ごしゃ、と何かが弾けたような音がした。
「ごふッ……!」
自分の頬が、若い男の手により殴り飛ばされた音であった。ぐわんぐわんと揺さぶられる彼の脳味噌は、燃え上がる痛みが伝播していくのを感じた。
ぐらり、と均衡の崩れた彼の身体は、千鳥足で後退していき、黒い雨の染みがついた外壁に背がついた。
「邪魔ッ」
「ごあっ!?」
「なんだよ!おっさんが……!」
鈍く、傷ましい音が再び鳴った。若い男のローキックが、男の腹に突き刺さった音であった。ゆっくりと崩れるようにして、彼は吸い殻が雨で溶けている地面に臥せた。
べちゃり、と、彼は雨でも無いのに、自身の頬に生暖かい感覚を覚えた。
意気揚々と躍り出て、彼は一瞬にして打ちのめされたのである。
しかし、彼は不思議と落ち着いていた。我に帰ったと言ってもいい。頬と鳩尾付近の断続的な痛みに喘ぎながら、ひしひしと突き刺さる女の視線に晒されながら、タバコ臭い痰のついた彼の表情は虚無であった。
(何やってんだ、俺は)
若い男の足が振り上がり、彼の背中に、力任せに落とされた。彼の身体は、抵抗もなく地面に叩きつけられ、カエルが潰れたような声と共に、びくりと痙攣した。
「へへ……一昨日きやがれってんだよカス!」
そんな声が随分と遠く聞こえる。敷地の隅に置かれていたゴミ袋の山が、随分と霞んで見える。彼の身体が、ある意味で釣り合いが取れたのである。
(……痛え)
意識を失おうにも、全身に痺れる強い痛みが逃げることを許してくれない。しかし、鼻血が垂れ始めた男の表情は苦悶に満ちたものではなく、不気味なほどに無表情。
そんなことなど梅雨知らず、若い男の汗ばんだゴツゴツの手が、再び、今度は女の起伏の激しい部分へ伸ばされ____
「おい」
低いが、確かに女の声であった。それは、この薄暗闇に似合わない気高さが感じられた。
「次から次へと……ぅあ」
気だるそうに振り返った若い男の歪んだ顔が、さっと青くなる。それをみた声の主は、先が黒ずんだ鹿毛の耳をピクリと動かし、潤いのある唇に弧を描く。
一歩踏み出すと、声の主の掛けた不相応なサングラスの光が動いて見えた。若い男は思わず後ずさった。
声の主は、サングラスをずらし、その瞳を露わにした。
「女にそんなぞんざいな扱いしてんじゃあねえよ、消えろ」
その瞬間、脂汗を頬に流した若い男が、まるで悪いことをしたのが見つかった子供のように、声の主の側を回り込み、たった一本しか無い逃げ道を背にしたと思えば、途端に踵を返したのである。
血気盛んな若者であろうと、“ウマ娘”が不愉快そうに耳を絞っているのを見れば、こうなるのは自明の理なのである。
「なっさけねー、男だろうに」
魅惑的に腰に手を当て、あっという間に見えなくなった男の背中を追っていた彼女の黒曜石のような瞳は、這いつくばっていた男にも向けられる。
男は、頬で冷たくなっていた感覚を手で乱雑に拭って、大義そうにゆっくりと立ち上がった。そして、少しふらついていながらも、空っぽな瞳で見下ろして見せた。
しかし、サングラスを元に戻した彼女は、ふいと首を、蚊帳の外であった女へ向ける。
その女はというと、乱れたスーツからこぼれた胸元を気にすることもなく、力なく地面にへたり込み、男と鹿毛のウマ娘を、虚な瞳で交互に眺めていた。
じゃり、と音が鳴った。いやに表情を柔らかくしたウマ娘が、埃くさい地面に片膝立ちとなった音である。男は立ち去るわけでもなく、ただ静観に徹した。
「大丈夫ですか?」
肉付きの良い、綺麗な白い手が、呆然としていた女に差し出された。
「野蛮な輩だ……さぁ、御手を」
溶けてしまいそうな甘い言葉であった。サングラスの照り返しから覗ける、闇と同化したウマ娘の瞳に当てられ、その瞬間、女の正気が虚空より舞い戻った。
「っ……!」
ぱしん、と、ウマ娘の手がはたかれる。
「大丈夫です!……ご、これでっ」
しかし、それが真の正気でないということは一目瞭然。倒れ込むようにして放り投げられていた黒革のバッグの紐を引っ張り上げた女は、酔っ払いのような足取りで立ち上がりつつ、足元の悪い路地を駆け出した。
そして、焦ったような息遣いは、あっという間に室外機の騒音に消えた。
「……」
生暖かい都市の風が、時間が止まったように固まっていた二人を解凍した。
痛烈に叩かれ、空気を握っている手を眺めているウマ娘は、耳をわかりやすく横に倒していた。
「……デリカシーが無かったのは、私の方だ。致し方ないさ」
「まるで狙ってたみたいな言い方だな」
低く、酒焼けた声に、サングラス越しの瞳が向けられる。
「アンタも狙ってたんじゃないの?」
「……違う。暇つぶしに来ただけだ」
「その結果返り討ちにあったってか、ハハ、だっせぇ」
その言葉を聞いた瞬間、大火傷の痛みに喘いでいた男の心に、水がかけられた気がした。男は返答せずに鼻を鳴らした。
「だが嫌いじゃない」
「……あ?」
怪訝そうに呟かれた音を横に、すんなりと立ち上がったウマ娘は、紫色の制服のスカートについた汚れを払う。そして、薄く笑みを湛えた表情で、男を見上げた。
「女守ろうとしたんだ。そこだけは好感に値するね、おっさん」
眉一つ動かさない男は、彼女の身につける服装について、嫌というほどの見識があった。
「お前……トレセン学園の生徒か」
こけた男の口から出てきた掠れ声に、少女の黒々とした瞳が愉快そうに細められた。
サングラスを取った彼女は、その情熱的な瞳を、敢えて晒してみせた。男はたじろぎそうになるのをやせ我慢した。
「“ストレイシンボリ”。それが私の名前。よろしくな、トレーナーのおっさん?」
男は、自身の羽織っていたベージュのトレンチコートの隙間に、小さなバッヂが光っていることに気がついた。
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