雪ノ下を巻き込んで無茶ぶりかまして以降、たまに雪ノ下家での夕食に誘われることがある。と言っても、一般庶民にすぎない俺に配慮してか、ドレスコードとかはないちょっとお洒落なお店程度に留まっているが。
とはいえ、他人の家族の中に一人ポツンと放り込まれるのはなかなかきつい。初めて誘われた時は酷かった。借りてきた猫ってレベルじゃなかったからな。ガチガチに緊張して碌に話なんてできなくて、大魔王たる雪ノ下の母親には学校での対話とのギャップで笑われた。雪ノ下議員には逆に心配されたな。お父さん優しい……。娘に母親の遺伝子が引き継がれすぎだ。
「比企谷さん、最近勉強の調子はどうですか?」
「今は志望校の過去問に取り組んでいます。少なくとも国語分野は現時点でも及第点かと」
まあ、回数をこなした今ではそれなりに自然と会話もできるようになったのだが、それでも粗相がないようにと精神を張り詰めさせ続ける時間だ。大丈夫? 口元引き攣ってない?
そんな哀れな俺を見て、隣の姉妹が忍び笑いを漏らす。絶対今変な顔してんだろうなぁ。助けてくれませんかねぇ。やはり二人揃って大魔王の娘である。慈悲がない。
まあ、勉強がそれなりなのは事実だ。元々それなりに地力はあると自負しているし、奉仕部には雪ノ下という心強い先生もいる。故に部活中は読書に勤しむ余裕もあるというものだ。というか、雪ノ下に勉強を教えてもらって思うのだが、なぜ由比ヶ浜の成績が上がらないのだろうか。スパルタではあるが、そこまで教えるの下手じゃねえぞ、こいつ。奉仕部七不思議二つ目、見つかったな。
まあ、余裕ができた分テーブルマナーとかを教わる時間も発生しているわけだが。受験生に対して求めすぎでは? そんな状況にした俺のせいですかそうですか。
「そうですか。そのまま努力を怠らないように。ちなみに理数科目の勉強は進んでいますか?」
「え、まあ、ほどほどに……」
痛いところを突かれて、思わずどもってしまう。しまったと思う頃には既に遅く、雪ノ下母――もうははのんでいいか!――の目つきが少々鋭くなった。
「後日テストをしてみましょう。範囲は雪乃に伝えます」
「はい……」
ほんと、受験生に容赦がない。ここで項垂れなかっただけ褒めてもらいたいくらいだ。
かなり早い段階から察してはいたが、どうもははのん、俺の志望校が不服らしい。三年になって授業のなくなった理数系の話題を出すあたり、国立あたりを受けさせたいという意図を隠す気がない。
いや、それは別にいいんだよ。今の志望校自体消去法で決めたようなもんだし。……非常に面倒この上ないが、自分の幅を広げるというのは悪いことではないはずだし。
ただ、元から苦手意識のある上に二年ほど碌に勉強して来なかった理数系、特に数学の巻き返しはなかなかに難しいもので、テストとかされても赤点必死。ははのんの眉間に皺が寄ることは避けられないだろう。何それ、精神死んじゃう。
「お母さん、あんまり苛めちゃかわいそうだよ」
ほぼほぼ確定した未来に背筋を震わせていると、カラカラと楽しげな笑い声が聞こえてきた。首を傾けると、声の主である陽乃さんは手にしたグラスをゆらゆらと回しながら、悪戯っ気のある笑みを浮かべている。
「まあけど、テスト自体はわたしも賛成かなぁ。なんなら、お姉さんが本格的に数学教えてあげようか? 合宿みたいな感じで!」
ほんのりと朱を帯びた頬を震わせながら、そんな提案をしてくる。思わずははのんに視線を戻すが、目を伏したまま何も口にしない。
詰まるところ、そういう手段もありという表明だ。
正直、魅力的な提案だろう。陽乃さんの頭がいいのは周知の事実であり、その教鞭を受けることができるのは、正直雪ノ下以上に心強い。
それに、優秀とはいえ雪ノ下は俺同様受験生である。あまり頼りすぎるのも気が引ける。いや、いや、陽乃さんも忙しいのだろうが、雪ノ下の方が身近な分、申し訳なさが際立つのだ。
ただまあ――
「前向きに鋭意検討致します」
今回は辞退させていただくことにする。
遠回しなお断りに、ははのんはあら、と口元に手を添える。そういうちょっと気を抜いたところとか、部室での娘さんそっくりですね。あと雪ノ下、じとっとした目を向けるのはやめていただきたい。その視線、スリップダメージみたいな攻撃力があるから。
そして提案を断られた本人は、止まった。ストップモーションのようにピタリと動きを止めていた。慣性の残った透明な液体がグラスの中で揺れている様が、ワールドの能力が行使されたわけではないことを物語っている。
とはいえ、固まっていたのはほんの一瞬。すぐに椅子に座り直すと、チビリとアルコールを飲み込み、一息つく。そうすればすぐにいつもの完璧お姉さんが顔を覗かせる。
「まさか断られるとは思わなかったなぁ。自分で言うのもなんだけど、普通に魅力的な提案したつもりなんだけど?」
「まあ、そうですね」
頬を掻く彼女に同意する。前述の通り、優秀な頭脳を持つ陽乃さんに教えてもらうのは非常に魅力的だ。これが小町あたりなら「え、いいんですか?」なんてわざとらしく目を輝かせるところだろう。
ではなぜ断るのか。理由は色々ある。ポジティブな理由からネガティブな理由まで挙げればキリがないだろう。
「…………」
とはいえ、そのほとんどが口にするのを憚られるものなわけで。
「いや、なんか怖いんで……」
結局、いつも通りの回答に逃げるのであった。
口元に手を当てた俺に対して隣から隠す気のない盛大なため息が聞こえてきたのは、この際聞かなかったことにした。
「それではまた」
「ええ。テスト、楽しみにしていますね」
「忘れてないですよねー……」
俺の「お姉さんちょっと怖いね」発言で今度こそひきつけレベルで陽乃さんの表情筋にダメージを与えた食事会も終わり、最後にははのんからちゃんと勉強しておくよう釘を刺された比企谷少年は帰路についていた。ここから家までは電車を使う距離なので送ってもらってもよかったのだが、なんとなく歩きたい気分だったのである。
一人の時間は思索の時間。目前に問題があってもなくても色々と考えを巡らせるのはぼっち共通の趣味と言える。や、他のぼっちの事とか知らんけど。材木座? あいつ結構知り合い多いエセぼっちだから。
目下の問題は二つ。一つは降って湧いた理数系テストのこと。どれくらい理数系の比重を増やすべきか。ぶっちゃけ、理数系だけに絞ればそれなりの成績は出せると思う。しかし、それで本命たる文系科目が疎かになっては元も子もない。バランスが重要なのだ。
周りの人間を参考にしようと思っても、盗賊に戦士の育成論が合わないようなもんで、参考にならんだろう。ハッ、今ナチュラルに自分を陰の者扱いしていた。さすが陰キャの自覚がしっかりしている。
まあ、その辺はおいおい自分の習熟度との相談といこう。手さぐりにはなるが、これも自分の蒔いた種である。
そしてもう一つの問題は――
「おや少年、随分遅い歩みじゃないか」
「うおっ⁉」
ポン、と肩に手を置かれ、大げさなくらい肩が跳ねる。
一瞬の間。駅にほど近いこともあり周りには他の通行人もいるはずなのだが、その一瞬だけ確実に音が消えた――ように錯覚した。
「……ぷっ。ふふ、ふふふっ」
そんな錯覚も一瞬。すぐに後ろから笑い声が聞こえてきて、現実に意識が引き戻される。
一度深めに息を吐き、振り返る。意識して眉間に皺を寄せたのは不満の表れであって、情けない声が出てしまったことに対する誤魔化しの意味合いは決してない。
「いや君……ふふ、肩叩いただけでそれって……ちょっと待って、ほんと……っ」
まあ振り向いた先で腹抱えて本気で笑いを堪えている元凶の姿を見たら、意識せずとも皺が深くなったんですけどね。
「……なんか用すか」
「ああ、ごめんごめん。そんな拗ねないでよ」
一ミリたりとも申し訳なさが伝わってこない笑みを見せた雪ノ下陽乃は、肩から落ちかけていたストールを正し、俺のすぐ隣に並び立った。距離が妙に近くて、くっと息が詰まる。
「たまには電車で帰ろうと思ってね。駅は同じでしょ? 一緒に帰ろうよ」
「はあ」
なぜ、とは口にしなかったし、嫌です、とも言わなかった。前者はなんとなくとか気分とか言われてしまえばそれまでだし、後者に至ってはそもそも比企谷八幡に拒否権というものがない。後半年もないうちに十八年になる人生で学んだ教訓である。……学びたくなかったな、そんな教訓。当然保証されるべき権利のはずなのに、不思議なものである。
「それじゃあ参ろうか!」
俺のどうとでも取れる返事を肯定と捉えたらしい陽乃さんが先に歩き出したのに釣られ、俺も歩みを再開する。いつもより心持ち狭い歩幅で歩けば、ちょうど彼女のそれと同じになった。
ちらりと隣に目をやる。自分より少しだけ低い位置にある横顔には同級生の面影が確かにあって、やはり姉妹なのだなと当たり前な感想を思い浮かべる。というか、顔が良すぎますね。姉妹揃って優秀な遺伝子を取得しすぎだ。俺なんて、小町と違って遺伝子取得の段階から失敗しているまであるのに。……人生不平等すぎる。
人を褒めたらなぜか返ってきたダメージに両目をぎゅっと瞑る。自然と視界が機能しなくなる。視覚がもたらすのは、瞼を透過する街の明かりの淡い輝きくらいだ。
そうして五感の一つを絶ったからだろうか。ふわりと慣れない香りが鼻腔をくすぐった。
齢二十を超えていない俺にとっては馴染みの薄い、けれどそれが何かと聞かれればすぐに答えられるような、大人の匂い。
それが、甘い呼気と共に隣から漂ってくるのだ。
「そういえば」
「ん?」
「結構、酒飲みますよね」
もうそろそろ雪ノ下家との食事会も片手で足りないほどの回数こなしてきたが、陽乃さんはその度に酒を口にしていた。あいにく銘柄とか詳しくはないが、今日飲んでいたのはスパークリングワインとかいうものらしい。炭酸飲料のワイン版みたいな感じだろうか。
「まあ、嫌いじゃないしね」
「酔えないのに、ですか?」
なんとなく、耳に残っていた彼女の言葉を口にする。
雪ノ下陽乃は酔えない。酒でも、空気でも。それは俺も同じだと彼女は言っていた。
アルコールとは酔う為のものだ。好きな歌手がいてもライブの空気に酔えない人間がそこへ足を運ばないように、酒に酔えない人間はそれを避けそうなものな気がする。
「酔えなくても、美味しいものは美味しいもの」
「そういうもんですか」
俺は酒の味を知らない。知っているのは残業明けの親父が「飲まねえとやってられねえ!」と缶ビールを煽っている姿くらいだ。正直、味を重視している印象がない。嗜好品に分類されるのも、酔うことで感じる高揚感が主軸なのではないだろうか。
「比企谷くんも飲み始めたら分かるよ。わたしと同じだもん」
確信めいた陽乃さんの言葉を聞いても、未だガキな俺には分からない。
それでも、後二年と少しすれば俺も合法的に酒が飲める年齢になる。それは否が応でも書類上は〝大人〟になるということだ。そうして飲み始めたら、彼女の言葉も分かるようになるのだろうか。
――そうやってたくさん諦めて、大人になっていくもんよ。
大人、という言葉に引きずられたのか、以前彼女が口にした別のセリフを思い出す。
雪ノ下陽乃の人生は諦めの連続だった。騙し騙しの二十年だった。強化外骨格とも称すべき分厚い仮面でおのれを塗り固め、用意された線路を寸分変わらず走り抜ける。傍から見れば破滅のない人生なんて羨ましい限りだろう。苦労など欠片もないように映るだろう。
けれど、そのために本当にやりたいこと、本当に望むものをいくつも諦めてきたはずだ。彼女のあの言葉には、それを感じさせる重みが含まれていた。
そうして進んできた道、父親の跡を継ぐという未来も、雪ノ下雪乃が成長すれば譲ることになるだろう。
主観的に見れば、これはもはや既定路線と言ってもいい。出会った当初ならいざ知らず、今のあいつが両親を納得させられない未来は想像できない。
ただ――
「おっと、じゃあお姉さんはこっちの路線だから。またね」
「うっす」
諦めた末の結末すら諦めなければならない時、雪ノ下陽乃は何を目指すのだろうか。