「雪ノ下から見て、どうなると思う?」
週明けの放課後、雪ノ下にその話をしてみることにした。あの時抱いた疑問を自分の中にとどめておくことができなかったからだ。
ちなみに、今は部室に二人っきり。小町は一色の手伝いをするために生徒会へ向かったし、由比ヶ浜はあーしさん達と歓談の日のため欠席している。
俺の話を聞いた雪ノ下は顎に手を添えて考え込み、やがて小さく「そうね」と言葉を漏らした。
「姉さんにとって、父さんの跡を継ぐのは既定路線だった。そのために多くのものを諦めたはずよ。……今なら、そういうことも少しだけ分かるわ」
少し前まで姉に対してコンプレックスしか持っていなかった彼女も、成長し、完璧なメッキの中の一端を目にした後では思うところがあるのだろう。
まあ、かと言って雪ノ下雪乃という少女が引くわけがないのだが。初めて会ったときからだいぶ丸くなったが、負けず嫌いなのは変わらない。どんなに重かろうが、例えその夢が、父親の跡を継ぐという夢が姉の二十年を奪うものだとしても、今のこいつがそれを理由に諦めるわけがない。
「だから、私は姉さんの二十年を譲ってもらえるように納得させなければならないのよね」
傍から見れば、雪ノ下陽乃は雪ノ下雪乃の超絶上位互換だ。勉強も運動もできて芸術にも明るい。しかもコミュ力に至ってはカンストしていると言ってもいい。そうでなければ、友人や後輩が信者のようにはならないだろう。
そんな彼女の二十年を譲ることを納得させる。相当な難題だ。某日本最難関国立大に主席合格するほうが幾分楽かもしれない。
「けど、お前なら納得させられるだろ。すぐではないだろうけど、最終的には納得させられる」
そんな難題を前にしている彼女になんと無責任だろうかと、何も知らない人間からは言われそうなことを口にする。
しかし、俺は自分の言葉が現実になると確信していた。雪ノ下は絶対にこの難題を乗り越える。絶対に夢を叶えると。
「あら、嬉しい評価をありがとう」
雪ノ下は嬉しそうに微笑を浮かべるが、「でも」とすぐに表情を引き締める。
「そうして私が席を譲ってもらって、譲った姉さんはどうするのか、か。あの人なら何にでもなれると思うけれど……」
「何にもならない可能性もある」
言葉を引き継いだ俺に雪ノ下は首肯する。
雪ノ下陽乃は疑うべくもなく完璧超人だ。スペックだけを見れば、スポーツ選手にもアーティストにもタレントにも実業家にも、きっと本当に何にでもなれるだろう。
しかし、騙し騙しのレールの上のものとはいえ、人生には変わりがない。そんなレールが突然なくなって、振り返れば歩いてきたはずのレールすら消えてしまっていたら、人間はどうなってしまうのだろうか。どういう行動を取ってしまうのだろうか。放任主義な家に生まれた凡人には想像もつかない。
「比企谷くん」
「あん?」
「姉さんのこと、見ててあげて」
「……なんで俺なんだよ」
突然のお願いに一瞬間が空く。絞り出せたのは遠回しな否定だった。
そもそも、この状況は俺にも責任の一端がある。合同プロム強行もそうだし、雪ノ下の夢の後押しもした。陽乃さんの素を見て、それでも部活メイトの夢を応援した。そんな俺が引き受けられるものではない。
いや、それ以前に俺にどうしろとという話ではないか。こちとら一介の高校生に過ぎないのだ。どう考えても荷が勝ちすぎる。
そうしてぐるぐると思考を巡らせるだけの俺に、雪ノ下はなんでもないような顔で首を傾げた。
「あら、あなた以上の適任はいないでしょう?」
「おうおう、評価が高すぎやしませんかね」
あまりになんでもないように答えるものだから、思わずどもってしまった。なぜそこまで自信を持って言えてしまうのか。この同級生、ちょっと俺のこと信頼しすぎじゃないですかね。
「だって、あなたはちゃんと私を助けてくれたもの」
「うぐ……お前、よくそういう事サラッと言えるな」
「う、うるさいわね。そう言われると急に恥ずかしくなるじゃない。削ぎ落とすわよ」
「なにを⁉」
……まあ。
どういう手段であれ、確かにクリスマスの日に雪ノ下から聞いた願いのために動いたことがあるのは事実だ。そこから来る信頼と言われれば納得せざるを得ない。
”パートナー”からの期待だ。無下にするのは俺の少ない沽券に関わる。……少ないって言っちゃった。
「まあ、善処はするよ」
「善処では駄目。最善を尽くしなさい」
「ハードル高すぎでは?」
正直、善処でも一般的に言う最善レベルになる可能性すらあるのに。今までの裏返しで姉ちゃん好きすぎんかこいつ。
などとを考えている俺に、雪ノ下は頬に手を当ててため息を漏らす。
「だって、最善を尽くさないとあなたのためにならないじゃない」
「む……」
その言葉の意味を理解して、言葉に窮する。こういう時、すべてを知っている相手というのは厄介この上ない。特にこいつの場合、一切こちらに逃げ道を与えてくれないのだから余計にだ。その上お節介まで焼いてくる。強制的に前だけ向かせる天才か? やることがいちいちスパルタすぎる。
こういうとき、俺は折れるしか――折れさせてもらうしかないのだ。
「……期待はすんなよ」
「いいえ、期待しているわ」
うーん、本当にこのパートナー、スパルタがすぎる。
***
「……まあ、ギリギリ及第点、といったところですね」
「はい……」
雪ノ下が一人暮らしをしているマンションで答案用紙から顔を上げたははのんの言葉に、安堵と落胆が混ざった声が漏れる。
今日は以前伝えられたははのんによる学力テストの日だ。いや、よくよく考えなくても同級生の家で同級生の親からのテストを受けるってどういう状況だよ。雪ノ下の実家じゃないだけまだましかもしれないけど。県議会議員と大企業社長の家とか、絶対入っただけでいっぱいいっぱいになる自信あるぞ。
しかし、数学だけだと思っていたらまさか国語と英語も出してくるとは……結果午前中ずっと問題用紙とにらめっこすることになってしまった。問題のレベルもやたら高いし、もうほぼ模試だよこれ。
しかも、それで結果がギリギリの及第点ではなぁ。や、落第よりかは全然いいのだが、これでも結構頑張っている自覚があるわけで、その結果がギリギリと言われるとやはり思うところがあるものだ。
そんな俺の心境を読み取ったのか、ははのんはそれまで感情を悟らせなかった表情をふっと和らげる。
「そんなに落ち込むことはありませんよ。これは褒めているのですから」
「……褒められた気はしませんが」
及第点ってあれだろ。赤点回避したとかそのレベルだろ。完璧超人家族の元締めからそれで褒められたと思う方が無理な話だ。
「褒めていますよ。雪乃から聞いていた数学九点の人がこれだけ解けるようになったのなら褒めるべきでしょう。他教科の勉強も疎かにしていなかったようですしね」
「…………」
「………………」
雪ノ下や。
お前、俺のことどんだけ言いふらしてんの⁉ お口ゆるゆるかよお前! あ、こら! 台所に逃げんな! ――クソ、ははのんの前な以上、下手にいつもの口論ができんくて引き止められん。
まあ、今はあのポンコツのことは置いておこう。後日学校で――由比ヶ浜を使って――報復するし。
しかしなるほど、俺の学力をある程度正確に把握しているのであれば、確かに及第点というのは褒めてくれているのかもしれない。まあ、それでもだいぶ甘々なことには変わりないだろうが。
「特に数学の最後の問題。想定では部分点も取れないと思っていましたが、後十分あれば完答もできそうですね」
「ああ、それは陽乃さんのおかげです」
「陽乃の?」
「いい問題集を紹介してもらったので」
実際、陽乃さん推薦の問題集は値段に見合った成果を上げてくれていると思う。あの問題集に取り組み始めてから、少しずつ解答の起点にするべき部分が理解できてきたし、それをまだ時間がかかるとは言え、他の参考書や問題集にも活かせてきている。
「あら、陽乃の助けは借りないつもりだったのでは?」
「……まあ、偶然だったんでノーカンってことにしときました」
あらそうなの? と笑みを漏らすははのん。その目は初期のんの生き写しのような普段の氷の眼光とは違ってだいぶ柔らかだ。
その目を見て――はた、と思い至る。
ひょっとして……バレてる?
「当たり前じゃないですか」
「ナチュラルに心読むのはやめていただけないでしょうか……」
内心にクリティカルヒットする言葉にゴン、と頭をテーブルに打ち付ける。まじで俺の周りにはサトリが多すぎる。俺がサトラレの可能性は全力で否定しておく。これ以上妖怪要素が追加されてたまるか。
いやしかし――
「いいんですか?」
「当人たちが納得していて、かつそれで私たちの方針が変わらないのであれば、口を出すのは野暮というものでしょう」
俺の質問に、台所へちらりと視線を投げながらははのんは答える。
確かに、この件で俺と雪ノ下家の関係が変わることはない。つまりははのん的にはなんの問題もない、というわけだ。
しかし、それはこの件がすべてが上手くいったら、の話。うまく行かなければこの関係も危ういものになるのだが……その場合はどうするのだろうか。
「その時は……ふふっ。どうしましょうか?」
好奇心を抑えきれずにその質問をした返答がこれ。いや、あらあらうふふみたいに言いながら目が全く笑っていないんですが。一体その頭の中で俺はどうされているんですかねぇ。怖い、やっぱははのん怖いよ。
だから雪ノ下よ。俺と母親を残して台所に引きこもるのはやめろ。早くこっちに来なさいハリーハリー!