自分という意識は、いったいどこから生まれるのだろう。
『我思う。故に我あり。』
そんな言葉も自分の体が他人の意志で勝手に動くのであれば揺らぐのではないだろうか。
つまり、僕は今まさにその状態であるということだ。
「悪夢?いいじゃない。キチンと寝てるってことでしょ?」
「まあ、そうなんですけど……」
自分の意志でなく、自分が喋っている。
これほど奇妙な体験もない。
僕は20代中盤のただのサラリーマンだった。
卑屈で陰気で女に免疫がなく、美少女ゲームが趣味である、が頭につくが。
そして、僕の最後のぼんやりとした記憶は大型トラックにはねられるところだ。
再び意識を戻した僕はしかし体を動かせず、見えるものも聞こえる音も遠くのもののように感じる。
今は見知らぬ女と会話しているところだ。
いや、正確にはこの女はわずかに見覚えがある。
ただ、それには何か違和感がある。なぜだろう。
「そう……教育実習……辛いんだ?」
「だから……つまり……その……」
そして会話からもぼんやりとデジャブを感じる。
相変わらず動けもせず、喋れもしない。
幽体離脱でもしたのだろうか。それなら僕はいったい何なのだろうか。
自分という意識があるにもかかわらず、自分の体すらなく、ただあるだけの存在。
それでも、不思議と恐ろしさを感じずにいた。
それが奇妙なデジャブに関係することを、僕はなぜかわかっていた。
コンコン
そして会話は唐突な誰かの訪問によって終わりを告げた。
「失礼します……」
きしむ引き戸を重そうに開けて部屋に入ってきたのは、1人の少女。
『僕』は無関心を装って視線を外し、煙草に火をつけているため、顔を見ることはかなわない。
「せ、先生……あの……」
「ん?どしたの?」
少女は僕の脇でもじもじしている。
少女の髪の毛が僕の眼前で揺れる。
ひどく、もどかしい。
ふと、その髪の毛が風とは別の方向に揺らいだ。
「あっ……」
微かな悲鳴と共に、ふわりと傾く細い体躯。
僕は反射的に彼女を抱きとめた。
僕と、僕の腕の中で驚きの表情を浮かべている少女の視線が交錯する。
彼女の顔に見入る僕の顔が、少女の瞳の中に映っているのが見える。
ようやく、奇妙なデジャブの正体に気付いた。
(
画面上でしか見たことはないが、実際に相対するとやはり神々しいものを感じる。
天使。彼女の正体。
となると、そして先ほど会話していた女は大森となえ、そして僕自身は
彼女の瞳の中に映っている僕も『僕』ではないので、きっと人見広介なのだろう。
「ちょっとぉ、大丈夫?」
止まった時を動かしたのはとなえだった。
そのままずかずかと近寄ってきて僕の腕の中にいた少女の肩を抱きとると、ベッドまで連れて行き、そこに座らせた。
僕は…いや、人見広介はとなえに少女を取り上げられた…そんな風に感じているようであった。
人見広介が少女に思いをはせている間に、僕は先ほどの考えをまとめる。
つまり、僕は何かの間違いで『さよならを教えて』の人見広介に憑依した?
ばかばかしい考えだ。
だがそれ以外に答えなどあろうはずがなかった。
誰が否やを唱えようと、僕の現状は変わらない。
今の僕は人見広介の一部であるのだ。
「名前」
「巣鴨……巣鴨睦月……です」
「ああ……あンた、ここに来たの初めてだね」
「はい……」
間仕切りの向こうから大森となえと少女の会話が聞こえてくる。
やはり、少女は巣鴨睦月だった。
もう疑うべくもないだろう。
しかしなぜ……。
と、少女――巣鴨睦月――が、ベッドに横になる気配が感じられた。
瞬間、僕はこの部屋にいてはいけないのだ、という気がした。
吸い殻でいっぱいの灰皿に煙草を押し付けて、僕は慌てて腰を浮かせた。
とにかく、早くこの部屋から出ようと思った。
「じゃ……ぼ、僕は失礼しますから……」
自分でない自分の声を聞きながら、人見広介とほぼ思考を一致させて返事も待たず、僕は部屋を出た。
職員室に向かい、
その道程で徐々に遠のいていた世界が近づく。
自分の体が徐々に自分のものとして動かせるようになっていく。
はっきりと自身のコントロールを取り戻したのは男子トイレの中。
そこで自身が何者かを思い出そうとする。
しかし、ぼんやりと生前の趣味や死ぬ直前の行動は思い出せるが、その他の僕自身のことについては名前すらはっきりとしなかった。
ただ、なぜか『さよならを教えて』のことだけはすべてはっきりと思い出せるのだ。
屋上の少女、中庭の少女、図書室の少女、弓道場の少女、天使の少女。そして人見広介のあらがえぬ結末について。
結末についてまで考えが及ぶと途端に憂鬱になる。
今は自我を保っているが何日かすれば気狂いになるのでは、と。
『保健室』を『保健室』以外のものと見れなかったし、今夕暮れに染まっているこの世界も、きっと人見広介の幻覚であるのだろう。
しかし、自我は保てている。
「僕は人見広介じゃない。僕は僕だ」
大体、来週には教育実習も終わる。そうすれば……。
と、そこまで考えて自身の考えに寒気を覚える。
先ほどの僕の考えにまったく違和感を覚えなかった。
もしや、人見広介に毒されているのでは?
そもそもこの体は人見広介のものである。顔も、手も、声も、脳みそも、陰茎も、すべて。
毒されないわけがない。
いや、それでもいいのではないか?
生前の僕を振り返っても特に幸せな人生を送ってきた感触でもない。
その上、『さよならを教えて』の世界にも強いあこがれを抱いていた。まさに『入り込みたい』ほどに。
いっそ気が狂ってしまえば同じになれるとも思ったが、そこまでの勇気も狂気もなかった。
ならば、この世界を楽しんでしまえばいいのではないか。どうせ一度死んでしまった身だ。
と、結論付ける。
そして、すべての少女と一度会いたい。
画面越しに焦がれるしかなかった少女たちと直接対面できるのだ。
肉親に犯された少女。殺してしまった少女。バラバラな少女。がらんどうの少女。真っ白に染まる光の少女。
会えることの期待感と恐怖感で一杯になった自身の正気について考えることはもうなかった。