校舎をあてどなく歩く。
人気のない廊下は窓から入る橙色の光に照らされている。
今が何時なのかすらわからない。
ただ確かなのは、現実と幻想の間、常世と幽世の境目、逢魔が時に身を置いていることだけ。
そしてそれは人見広介が人見広介でいる限り、変わることはない。
この黄昏の世界は人見広介が作り出す世界だからだ。
心が歪んでしまったまま、結局最後まで変わることなく終わってしまった。
この世界ではどうなのだろう。
人見広介ではない『僕』は、いったい?
ふと気づけば目の前は中庭。
体育館の横、渡り廊下だ。
円形の花壇も夕日に照らされ、黄昏の世界に飲み込まれている。
その花壇の縁に腰かける。
花壇に咲いている赤い花はなんだったろうか。
確か…。
「おにーちゃ~~~ん!」
元気いっぱいの猫撫で声が聞こえてくる。
声の方向に目を向けると、転がるようにかけてくる女の子がいる。
田町まひる。僕の、ではなく、人見広介の幼いころのお友達。
「おにーちゃん、先生のお仕事終わったの?暇?暇なんでしょ!」
こちらに近づくなり矢継早で囃し立ててくる。
「僕はまひるみたいに暇じゃないぞ。まだ仕事はある」
まひるの元気いっぱいな声とは対照的に僕の声は倦怠感にあふれていた。
まひるの元気を分けてもらいたいものだ。
しかし、仕事とはいったいなんだったろうか。
「えーなんで!!仕事って何するの?」
まひるは不満を大いに乗せて口をとがらせる。
しかし、仕事とはいったいなんだったろうか。なんだったろうか。
そうだ、僕、いや人見広介は毎日日誌を書いているのだった。
日誌。報告書。日記。なんでもいい。とにかくそれが僕の仕事だ。
「えっと……報告書をまとめないといけないんだよ」
少し間を置いて答える。恰好を付けた言い回しをしてしまった。
まひるには僕のことを頼れるおにーちゃんとしてみていてほしいのだった。
「ぶー。つまんないの」
「それと学校でおにーちゃんはやめろって言っただろ」
「んと……じゃあセンセ。せめてちょっとお話しよっ」
「しょうがないな」
かわいい女の子の満面の笑みでの誘いは断りにくいものである。
ひとつため息をつきながら了承する。
「それで、話って?」
「え……えっとぉ……」
不意を突かれたかのように急に思案顔になるまひる。
何も考えてなかったようだ。
ため息をつき、おもむろに煙草を取り出し火をつけようとする。
「あーーーーー!!」
急にまひるが大声を出した。
「何?話を思いついたの?」
「そうじゃなくて、煙草!」
「煙草、が何?」
「煙草嫌い!」
そうだった。彼女は変なにおいのするものが嫌いなのだった。
猫だからしかたない。猫だから。
かわいい女の子の前で駄々をこねることもないのでおとなしく煙草をしまいなおした。
「もう。健康にも悪いんだから吸っちゃだめだよ!」
「健康、ねえ」
健康。僕には程遠い言葉である。
それこそ、人見広介にも、『僕』にも、である。
健康で健全な生活など、煙草ひとつで迎えられるとも思わない。
健康など僕には程遠い言葉だ。
「むっ。どうせカンケーないって思ってるんでしょ」
「……そんなことないよ」
「嘘ついた。まひるにはわかるもん」
「ははっ。ばれちゃったな」
「ぶー。あっそういえば、おにーちゃん。この学校の七不思議って知ってる?」
かわいらしく頬をふくらませたかと思えば、コロッと表情を変える。
本当に猫のように気まぐれである。猫だから。
「あーなんだったかな。場所なら覚えてるけど」
「そーなの?じゃあ言ってみて!」
「えっと、図書室、中庭、弓道場、屋上、保健室、職員室。それから…」
「それから?」
「…天使の樹」
天使。
ざわり、と。風が木々を撫でた
天使。そうだ、僕は天使に会わなければ。
天使。巣鴨睦月。天使のような顔。天使のような声。天使のような肢体。天使。
天使。怪物。僕は怪物になったのだったか?まだ僕は大丈夫だという根拠のなさ。天使。
彼女は天に帰るのだろうか。
「……せいかーい。なんだ。知ってたんだね」
ふと、世界に色が戻る。橙色の世界。まひるは少しつまらなそうな顔をしている。
それも仕方ない。『僕』はこの世界を知っているから。
だから僕は人見広介ではないし、僕は正常だ。
人見広介はおかしいが僕は正常だ。『僕』は僕じゃない。
大丈夫だ。
「そういうこと。さて、話もないなら仕事に戻るかな」
「つまないのー。じゃあさ、最後に撫でて!」
ぴょんと僕の前に来たかと思ったら頭を差し出してくる。
その小さくてかわいらしい頭を優しくなでる。
まひるは大きなくりくりとした目を細めて嬉しそうにしている。
髪の毛は少し癖があるのか毛先が丸まっている。
その毛並通りに撫で、毛先を優しく梳く。
頭頂部から後頭部にかけて。
優しく、何度も、何度も。
それから、おもむろに頬を撫でる。
まひるは右手に頬を押し付け、さらに撫でることを要求する。
僕は苦笑しながら頬から耳にかけて優しく撫で上げる。
まひるの耳は少し、赤くなっている。
その赤く染まった耳を右手で優しく挟み込み、親指で揉むように愛撫する。
「んにゃ……」
蕩けた声がまひるから漏れてくる。
そのまましばらくの間、まひるを撫で続けた。
どうやらお気に召したようで、ゆっくりと顔を放した。
「ありがとーおにーちゃん。じゃあまたねー!」
そういってまひるはパタパタとスカートを翻しながら中庭を去っていく。
彼女との時間は心温まるものだった。
懐かしい少女。優しい時間。柔らかいにおい。肢体。
昔はほんの少しの好奇心と嗜虐心があった。
壊すつもりは、なかったけれど。
そういえば、思い出した。この花壇に咲く赤い花の名前。
カンナ。赤い花。仏陀の血の色をした花。
花言葉は……『僕』も知らない。
思い出せないことは、まだあっただろうか。
僕はゆっくり立ち上がり、いまだに黄昏の世界の中にある校舎へと自身を滑り込ませた。