僕とさよならを教えて   作:folland

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巣鴨睦月

僕は教室を目指している。

一歩一歩、最後への道を歩いていることがわかる。

恐れはない。

寂しさも……多分ない。

彼女は天使であるし、天に帰ることが必然であるからだ。

彼女の神聖さは客観的事象から相対的にそうなるということもあるが、しかしそれは絶対のものでもあるのだ。

彼女は天使なのだから。

 

 

教室の前まで辿り着いた。

彼女の気配がする。彼女がいる。天使がいる。

恐れはない。

寂しさもない。

これが最後ということもあるが、それ以上に僕は救われるのだ。

何から……?

人見広介(ひとみひろすけ)から…?

僕は『僕』に戻れるのだろうか。

 

 

橙色に染まった引き戸を、ゆっくりと開けた。

 

「あ……」

 

絹のように細く、しなやかな髪を風になびかせ、彼女はそこにいた。

黄昏の、停滞した世界に輝く神聖さでもって。

腰まで伸ばした美しい髪。

すんなり伸びた手足。

細さと豊かさの均一が完璧にとれた美しい体躯。

感情の全てを含んだかのような、アルカイックスマイル。

天使がここにいる。

巣鴨睦月(すがもむつき)がここにいる。

 

「やあ、さっきぶりだね」

 

「……? えっと……」

 

彼女は形の整った眉をわずかにゆがませ疑問の呈した顔を見せる。

 

そうだった。僕は気狂いだった。

気狂いなので、彼女と会って何日たったか、今日がいつで何時なのかもわからないのだった。

気を付けなければ。僕は気狂いなのだから。

 

「君は、もうだいぶよくなったのかい?」

 

「ええ……。おかげでだいぶ良くなりました。もうそろそろ大丈夫だそうです」

 

「それはよかった」

 

何が良くなったかは、よくわからない。

けど、よくなることはいいことなので、きっとよかったのだろう。

よかったよかった。

 

「本当に……先生とお話したことで、勇気をもらえたんです。ありがとうございます」

 

そうだっただろうか。

僕は彼女と話したのだろうか。

いや、きっと彼女が言うからにはそうなのだろう。

人見広介が覚えていないだけで、きっとそうなのだろう。

僕は気狂いなのだから。

気を付けなければ。

そう、だいぶ人見広介に浸食されている。

だから、気を付けなければ。

 

「どういたしまして。それで、君はいったいどうしてこんなところに来てしまったんだい?」

 

そうなのだ。

彼女は天使で、天にいるべきで、地上に落ちた堕天使なのは何か理由があるのだろう。

しかし、僕は気狂いだ。

気狂いなりに普通の言葉を喋らなければ天使が天に返る手助けをできなくなってしまう。

 

 

「それは……人見さん、いえ、『あなた』こそどうしてここに来たのですか?」

 

 

 

 

 

 

え?

 

 

 

 

 

「『僕』?」

 

「ええ、あなたです」

 

 

 

瞬間、背筋に悪寒が走る。

『僕』がわかる?

僕はトラックの事故でなぜか人見広介に憑依して、結局僕は人見広介として行動して思考も人見広介に染まりだしてつまりほとんど人見広介のようなもので、それなのに『僕』がわかる?

 

 

 

天使だからでしょうか?

 

 

 

「なんで……わかるの?」

 

「それはあまり重要ではありません。大切なのは、あなたがどうしたいかですよ」

 

どういうことだろう。どういうことなのでしょうか。

 

夕日に染められ世界が一色に染まった中、僕と天使は見つめあっている。

僕の頭の中は、狂った思考と正常に思考とが同じように彼女の言葉に疑問を感じている。

 

どういうことだろう。どういうことなのでしょうか。

 

「どういう…ことなんだ?」

 

天使は僕から視線を外し、その目を教室の窓へ、世界の中心へと移す。

右手で髪の毛を掻き上げる仕草は、その一瞬一瞬を彫刻にして残しておきたいほどだ。

 

 

「夕日……きれいですね……」

 

僕の問いには答えず、柔らかそうな唇を動かし、この黄昏の世界の感想を述べる。

ただ、今が本当に夕暮れ時かは僕にはわからないし、この光景は僕の日常であった。

安易なその場だけの同意は、天使の前では許されないだろう。

 

「ここは……仮初めの場所……。来てはいけない場所なんです」

 

そうなのだろうか。

いや、そうなのだ。

気狂いではない僕にはわかるのだが、ここは精神病棟なはず。

たしかに、来てはいけない場所といえばそうなのだろう。

しかし、それと『僕』はどう繋がるのだろうか。

 

「あなたは望んでここに来ました……。だから、選ぶ必要があります」

 

「選ぶって……何を?」

 

僕はただ馬鹿みたいに彼女に聞く。

対する彼女は、無言で笑う。

慈愛や優しさを含んだ笑み。

酷薄さや残酷さも含んだ笑み。

僕はそれに見とれることしかできない。

 

 

途端に目の前の光景が変わる。

ここは……。

 

「天使の樹……」

 

「選んでください……。救うか……救われるか……」

 

鬱蒼と茂った森の中、ひときわ大きな大樹を背にした彼女は、背中から翼を生やし、僕に問う。

天使なのだ。

真っ白な羽を大きく広げ、アルカイックスマイルで僕を見る。

神聖さ、不可侵の美しさ。

 

彼女が何を問うてるかわからない。

ただ、僕には彼女の美しさだけがすべてである。

美しさ、神聖さ。その不可侵性。

汚したい。

怪物。

怪物は救われるのだろうか。

怪物に、なにがしかを救えるものなのだろうか。

 

「ぼ、僕は……僕は……」

 

わからない。何もわからない。

今や、人見広介は鳴りを潜め、僕と天使だけがここにいる。

怪物も気狂いも、ただ僕のものだ。

 

わからない。

わからない。

ただ、そこにあるものだけ。

 

僕は結局ここに来た時から、それを選ぶほかないのだった。

 

「そうですね……。きっとあなたは、そうなんですね……」

 

天使は答える。

僕は跪く。

 

そう、僕には初めから望んでいたことがあったのだ。

 

だから……僕は……。

 

「さよなら……」

 

僕は言う。

彼女は笑う。

彼女の唇はさよならのカタチをえがいて、こわばる。

 

 

僕は真っ白になる。

彼女と同じように。

黒が白に。

僕が彼女に。

彼女が僕に。

 

ひとつになって、それから……。

 

 

 

 

 

 

 

 

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