感情を機械的に模倣するだけの上位存在だった天使が愛を理解する話 作:ジョク・カノサ
今までの人生の中で一番苦しい時間が続いたと思うと、それは突如として終わった。
「──!? ────」
咳き込むのが止まらない僕は、朦朧とする視界の中で見た。
いーちゃんの顔だ。息苦しいのと反発するように、安心感が溢れてくるのを感じる。
いーちゃんは珍しく取り乱していた様子だった。ゲームで致命的なミスをした時みたいな顔。
意識が薄れる中、僕には触れられない筈のいーちゃんの手が僕に触れた気がした。
☆
その日は監視経過の報告を含めた諸々の事情で、私──EG-104は一時的に地上から離れなければならなかった。それは私という存在に課せられた義務である。
それに対して、私の中で再現された感情が訴えたのは、言うなれば煩わしさだった。
「……? なぜここに」
地上に戻る際は出現位置を紐付けしている為、即座に与吉の付近へと戻る事が出来る。
全てを済ませた私は再び地上に戻り、そこが与吉の自宅の居間であると気がついた。
この時間帯、与吉は学内に居る筈。何かがおかしかった。
「……っ……っ!」
「っ与吉!? 何を──」
居間の扉の前、そこで手足を暴れさせてもがく与吉。首元には縄が見えた。
自殺。そう判断した私は即座に腕を振るった。縄が切れ、それに伴って与吉の体が床へと倒れる。
「なぜこんな……無事ですか──くっ!」
激しく咳をする与吉に自然と手が伸びていた事を、拒絶されて初めて認識する。
天界規定の一つ、人間との直接的な接触を禁ずる。それに当たって発生するのがこの拒絶障壁。
だからこそ、私と与吉は今まで言語での意思疎通しか行っていない。
「……」
監視が始まったこの数日間で、私は自身が変化していくのを感じていた。
私の感情は所詮紛い物で、ただの模倣。
でも。
『いーちゃん!』
与吉が私をそう呼ぶ度に、不思議と何かが満たされていた。
『感じたままで良いんじゃないかな』
天界規定。拒絶障壁。監視。義務。その全てがこの瞬間に。
「──邪魔だっ!!」
私の頭上にある輪──拒絶障壁の発生原因であるそれを掴み、力任せに引き剥がし潰す。
これで私の天使としての機能はほぼ失われた。しかし喪失感は一瞬で、何よりも大きかったのは解放感だった。
「与吉っ」
脈拍や心音を確認し、目を閉じて動かなくなった与吉が問題無く生命活動を続けている事を確認する。一時的に意識を失っているだけだ。
「良かった」
与吉の手を握る。初めて感じた人間の体温。
与吉の顔を見る。初めて見た時にはあった目元の濃い隈は、今では薄くなっている。
「与吉、貴方は……」
幼少期から持つ悪魔を誘因する性質。当然それは、出現した悪魔により本人以外にも影響を及ぼす。
その結果、与吉の身近に居た彼の家族はその事を理解した上で、自らの保身の為に与吉との別離という手段を取った。
『こ、ここが僕の家で、一人暮らしです』
その事実は与吉の人格形成と精神状況に大きく影響を及ぼす。それは人間関係にも同じ事が言える。
『僕は人と接するのが下手くそだから』
孤独で不安定な人間。それが監視を始める以前に得ていた、与吉の人物像。
「──悪魔の僕よ! 大人しく投降しなさい!」
「っ!」
「隠れても無駄だ! 大人しく──」
外から聞こえだしたのは、間違いなく与吉の事を指す内容だった。
何人もの怒号が響いた後、玄関の扉が殴打される音が聞こえ始めた。
天使と悪魔。人間がその二つをどう認識しているか、想像に難くない。その中には過激な思想を持つ者が居るという事も。外の群衆は、与吉の悪魔を誘因する性質をどうにかして突き止めたのだろう。
「ああ」
少し安心したような与吉の寝顔を見る。私の居ない間に何が与吉を自殺に追い込んだのかは明白だった。
鳴り止まない怒号の中で、私は自らにある二つの大きな感情を自覚する。一つは与吉へ。
もう一つは、与吉を見捨てた家族、この瞬間彼を害そうとする人間、今まで彼を救わなかった者全てに向けて。
「どいつも、こいつも」
感じたのであれば、感じたままに動こう。
☆
「ん……あれ? ──っ」
顔に風が当たる感覚と一緒に、僕は目を覚ました。
目の前にあった太陽が眩しくて、思わず目を逸らした。
ここは……。
「天国?」
「起きましたか」
「えっ、いーちゃん?」
「今、飛んでるので動かないでください」
「飛んで? ──うわっ!」
いーちゃんに抱えられて、僕は飛んでいた。下にいくつもの建物が並んでいるのが見える。
怖い筈なのに、僕を抱えるいーちゃんの手が頼もしくてそこまで怖くない。
「何が、あったの? というか、いーちゃん僕に触ってない!? あれ、確か僕は……」
「気にしないでください、何も」
「いや、気にしないでって……」
「何も考えなくていい」
穏やかな声でそう言われると、もう何も言い返す気が起きなかった。
温かい。太陽と風が気持ち良い。起きたばかりなのに眠くなってきた。
「────」
いーちゃんが何かを呟いたのを最後に、僕の意識は再び落ちていった。
☆
子守歌が聞こえる。でもこれはお母さんの声じゃない。
とても安心するような、天使の声だった。