誰に起こされるでもなく自然と目が覚める。いつもと同じ体勢にいつもと変わらない起床時間。布団から起き上がると、朝の寒さを我慢して布団をたたむ。少し重い布団をタンスに押し入れた後、普段着に着替えて廊下に出る。まだ日の出には少し早い。
季節は春。そろそろ梅雨に入る頃だ。朝はまだ少し寒いが、少し前の冷え込みと比べたら幾分かましだ。
静かな廊下を進んでいくと、調理器具の触れ合う音がきこえてくる。廊下を進むにつれて、その音は大きくなっていき、同時に良い香りが漂ってきているのがわかる。
給仕場では私よりずっと早起きの使用人達がいつものように朝食を作っている。稗田家は使用人も含めるとかなりの人数がいるので、食事を作るだけでも大変だ。
「阿求さま、おはようございます」
ひとりが私の存在に気がついて挨拶をすると、他の使用人も一旦手を止めて私に向かってお辞儀をする。
軽い挨拶をした後ほとんどは自分の作業に戻るが、中で最も年配の使用人が、やりかけの作業を他の人に任せて私の方へと近づいてくる。
「いつも言っておりますが、わざわざ来て頂かなくてもお部屋までお持ちしますのに」
「少しくらい運動しないと体に良くないからね。ひとつ貰っていい?」
「え、ええ。もちろん構いませんよ。お食べになった後は部屋の前においで下されば、いつも通り私どもで回収いたしますね」
家の人達は、私が健康や寿命の話をすると、いつも話しにくそうにする。それが哀れみなのか同情なのか、知る由もないが私自身死を八回も経験してきているのだ。最初の方は死が嫌なものだったが、今となってはそういうものだと割り切ってしまっている。
私はお礼を言って積み上げられているおぜんのうちのひとつを取って自室へと戻る。炊事場から少し離れるだけで、掃除の行き届いた床を裸足で歩くぺたぺたという音がはっきりと聞こえるほど、朝の稗田家は静かである。
自室に戻ったところで早速朝食をとる。しばらく置いているので熱々では無いものの、汁物はまだ暖かい。実の所、自室で食事をしているのは私だけである。ほかの人達は決まった時間に大広間に集まって賑やかに食事をするのだ。
何度か私も大広間で食事をしたことがあるのだが、その時の雰囲気はどこかよそよそしいというか、どうも緊張感があった。私が言うのもなんだが、稗田家に関わりのある人間からすれば御阿礼の子は神様みたいなものだ。粗相はできないと気を張ることだろう。さすがにそれは申し訳ないと思い、私は基本的に自室で過ごしているのだ。
食事を終えておぜんごと部屋の外に空いた食器を置く。この頃にはさすがに日も上ってきており、室内もいくぶん明るくなってきている。
とりあえず書きかけの書物を仕上げなければならない。まだまだ書き留めておかなければならない記憶は沢山あるのだから。
軽く髪を整えたり、炭の準備をしたりしてようやく私が机に向かう頃、家の住人は一斉に起き出す。私の部屋の周りは静かだがそれでも足音や話し声はうっすらと聞こえてくる。この時間になると少しだけ孤独感が薄まるような気がする。
「阿求様、失礼いたします」
私が仕事に取り掛かろうとした時に入ってきたのは、私のお世話係だ。お世話係といっても定期的にお茶を持ってきたり、足りないものがあれば交換する程度の仕事だ。そのため特定の人ではなく、当番制でその仕事を割り振っているようだ。別にお世話をして欲しい訳では無いが、毎日違う人と会えるのはありがたいものだ。
「茶をお持ちしました」
「うん、ありがとう」
緊張した面持ちでそろそろと入ってきたのは、まだ働き出して間もない少女であった。見た目の年は私と同じくらいか少し下であろう。
少女は空の湯のみを机に置き、そこに持ってきた急須で茶を注ぐ。そして、まだお茶の残っている急須を机の上に置くと、「失礼いたしました」といって早々に部屋を立ち去ろうとする。
「ちょっと待って」
思わず私が呼び止めると、少女はびくりと肩を震わせてその場で硬直してしまった。
数秒後、まるで錆びたからくり人形のような動きで私の方を向き、その場で正座をする。
「なな、何か粗相でも致しましたでしょうか」
年齢が近いので少し話をしたかっただけなのだが、警戒されてしまっているようだ。この様子では世間話すらろくにできないだろう。まあ、精神年齢で言ってしまうと大きくかけはなれてしまっているので、話が合うかは疑問だが。
既に壁があることを残念に思ったが、それを顔に出してしまえばそれこそ目の前の少女との溝は二度と埋まらないだろう。
「なんでもないの。あなたさえ良ければ、少し話し相手になってもらえる?」
少女はなにか答えようと口を開けるが、そこから言葉は出てこない。
「もしかして、このあと何かご用事でも?」
私がそう言うと、少女は少しだけ目を逸らしたあと小さく頷いた。
「そう、引き止めてごめんなさい」
「い、いえ、ご要望に添えずもうしわけございません。それでは……失礼いたします」
そのまま逃げるように少女は部屋から出ていった。あの様子を見るに、おそらくそこまで大切な用事などないのだろう。まあ、こんなことは今に始まったことでは無い。人は自分の理解を超えるモノと関わるのを躊躇するものだ。
私は彼女の入れたお茶をひと口すすると、筆を手に取る。今日という日もきっと何も変わらない。平和を否定する訳では無いが、やはり少しうんざりする。
しばらく黙々と文章を書いていたのだが、不意に湧き出た喉の違和感にひとつ咳をする。別に風邪をひいている訳では無いが、咳をするたびにひたひたと死が近くに来ているようにも思う。今の私はあとどのくらい生きられるのだろうか。
そんなことを考えながら筆を止めていると、後ろでドサドサとものがいくつかに落ちる音がした。驚いて振り向くと、棚にしまってあった本の一部が床にちらばっている。そして、その本棚の1番上にはヤマネのような生き物がいた。きっと本棚を登る時にいくつか本を落としてしまったのだろう。
どこから入ってきたのだろうか。その生き物は白色の体毛で、頭から尾にかけて青いたてがみが真っ直ぐに走っている。そして、私のことをじっと見つめるのは、まるで宝石をはめ込んだような美しい赤色の瞳であった。
そういえば、どこかで見たことがあるような気がする。私はその生き物についての記憶を探す。すると、ひとつの心当たりがあった。私はその生き物を刺激しないようにゆっくりと地面にちらばっている本のうちのひとつを手に取った。
『霊獣書』と私の字で書かれたのその本の1ページに、その生き物は存在していた。名前も姿も、生息地さえも空白のそのページには、こう書かれていた。
『暖かくなった頃、特に雨の多い梅雨の時期に多くの目撃情報あり。白い毛並みで真っ赤な目をしている、体調は人の手のひらに乗るくらい。イタチのような、ヤマネのような生物。雷を呼ぶと言われている』
私は筆と紙を手に取り、本棚の上に居座っているその生き物の絵を描く。もしかすると霊獣などではなく、私の知らない動物なのかもしれないが、それでも全く見た事のないものを見るのはやはり楽しい。
あらかた書き終えた後今度はその生き物に接触してみることにした。とは言ったものの、私の背丈では本棚の上は踏み台がないと手が届かない。
邪魔にならないように床にちらばった本をまとめて、とりあえずその場に平積みしてから、ゆっくりと立ち上がる。こうしている間も、本棚の上にいる生き物はじっと私のことを見続けており微動だにしていない。
近くにあった踏み台を本棚の前に置き、できる限り刺激しないようにゆっくりと台の上にのる。そして、本棚の上にいる生き物に右手を伸ばす。すると逃げるどころか私の手にぴょんと飛び乗ったのだ。これにはさすがの私も驚き、危うく台から落ちそうになったものの何とか踏みとどまった。
「ああ、びっくりした。それにしてもどこから入ってきたのかしら」
窓などどこも開いていないし、いくら手のひらサイズとはいえ入る隙などあったのだろうか。私が首を傾げると、つられるようにその生き物も首を傾げた。
その光景に私は思わずくすりと笑う。なんと愛らしい生き物だろうか。その生き物を手に乗せたまま私は机の前に座る。
「とりあえず名前をつけなきゃね」
仮にこの子が霊獣だとすれば、まだ名前はつけられていないはずである。だったら私が勝手に名付けても構わないだろう。
「じゃあ、あなたの名前はヒョウね」
私がそう言うと、ヒョウは「ちちち」と喉を鳴らした。気に入ったかどうかは分からないが、少なくとも嫌そうでは無い。
余談にはなるが、私の考えるヒョウは漢字で漂と書き、縹と同じ意味で薄い青色を指す。漂(縹)色は特に露草で染めた青色を言うため、この季節にピッタリなのだ。あとは、いまが雹の降りやすい時期であるということも付け加えておこう。
私はヒョウを手から机の上に移すと、先程書いた絵の上に、「漂」と書いた。これを霊獣図鑑に載せるかどうかは後で考えることにしよう。