世界はある日を境に平和を享受する様になった。
数百年前の人界の王、ヘンドリクセンが魔界の王を倒した事で、魔界の驚異を忘れ去ったのだ。
恐怖から解放された人界は急速に発展し、夜の闇を恐れる事すら無くなった。
だが、夜の闇が消えた訳ではない。
闇への恐れが無くなった訳ではない。
全て忘れ去っただけだ。
何も消え去ってはいない。
故に人は必死にそれらを忘れ去ろうとする。
自身の栄華が仮初めのものと理解しつつ。
学都〝フラメリア〟、嘗て魔王討伐に貢献した賢者が拓いたという、人界の知が全て集まると謳われる都で、少年は一人夜の街を歩いていた。
夜更けの時間、街に人影は無く、魔術街灯がちらほらと弱々しく石畳の街路と、少年の茶の髪と気弱そうな顔を照らすだけだ。
少年がこんな夜更けに出歩いているのには訳がある。
少年に親は居ない。流行り病で死別した両親が遺した遺産だけでは、少年が生きていくには心許ない。
だから彼は特技を活かして、学業の合間に街の見世物小屋で働いていた。
しかし、悩み事は尽きない。
見世物小屋の主人は少年に良くしてくれる。他の団員もそうだ。
自分の様な者に、少しでも学費や生活費の足しになればと給金に色を付けたり、食料品を分けたりしてくれる。
しかし、学業は芳しくない。
座学は問題無い。しかし、少年はある問題を抱えていた。
「……どうしようかな」
この世界、魔術が当たり前となった世界で、少年は一定以上の魔力を持って産まれた。
強い魔力は貴族や王族、騎士のみが持つ。しかし、極希に少年の様な平民が強い魔力を持って産まれる。
少年の魔力は強いと言っても、平民としては強い程度に過ぎない。
故に、貴族達の様に魔術を行使する事は難しい。だが、一定以上の魔力を持つ者にのみ、発現する能力がある。
〝生来魔術〟、魔力を持つ者だけが発現する特有の魔術だ。
それは血筋や個人の性格等に由来し、〝生来魔術〟を持つ者は未来を約束される。
少年もその一人だった。
しかし、少年に〝生来魔術〟は発現しなかった。
少年に使えるのは、魔力があれば誰にでも使える身体強化と感覚強化の魔術のみ。それも、少年の魔力では雀の涙程度の強化でしかない。
少年は文字通り、学園の落ちこぼれとなった。
仲の良かった幼馴染みも離れ友人も一部を除いて居らず、学園では居ない者として扱われる。
少年が学園に居る理由は、もう無いに等しかった。
「退学届けは問題無く受理されるだろうし、学費が浮けばもう少し良い部屋に住める」
懐から封筒を取り出し、少年は呟く。
補助金が出るとは言え、フラメリア学園の学費は安くない。少年の稼ぎを足し、生活費を切り詰めて漸く払える。
逃げる様に学園を去る自分を、幼馴染みや友人達はどう思うだろうか。
いや、どうとも思わない。自分はもう学園に居ないと同義だ。
無為に学費を払い続けるより、見世物小屋で芸人として生きた方が賢明だろう。
と、そんな事を考えていた時だった。
街灯の灯りが途切れ、月明かりだけが夜道を照らした時、少年はふと顔を上げた。
「……幽霊屋敷」
学都〝フラメリア〟の外れにある寂れた古い屋敷。
街を見下ろす小高い丘にある屋敷は、過去に貴族の別荘であったという話だが、今は誰も住んでいない。
管理する者も絶えた屋敷は、今や幽霊の巣窟とされている。
「どうせなら……」
あの屋敷に行ってみよう。
大した理由なんて無い。ただの自暴自棄の度胸試しだ。
それに、ここで何かを踏み出さなければ変われない。そんな気がしただけ。
思いを胸に、少年は足を自宅から、幽霊屋敷へと向けた。
〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃
嘗ては強力な存在だったという話もあるが、それはお伽噺に過ぎない。
死者の念が魔力に当てられ、歪な形を得た弱々しい存在。それが幽霊だ。
その筈だった。
『……つまらぬ』
屋敷のすぐ側、庭先の藪に息を潜めた少年が見ている光景は、そんな常識を破壊するものだった。
『祓魔、そんな世迷い言を嘯き、妾の屋敷を騒がせたからには少しはやるものかと思ったが、期待外れも甚だしい』
倒れた姿、それは教会に属する聖職者達のものだった。
辺りには魔を払う術具が散らばり、聖職者達はあちこちが擦り切れ惨憺たる有り様だ。
Ⅰ騒霊《ポルターガイスト》、幽霊が使役する能力で幽霊の種別の一つでもある。物を宙に浮かせ、辺りに奇怪な音を鳴らす。ただそれだけしか出来ない蓮のそれに、教会の聖職者達は為す術無く蹂躙された。
宙に浮かされ地面や木々に打ち付けられ、打ち鳴らされた奇怪な音に耳を破壊された。
極めつけは、あの幽霊の容姿だ。幽霊は生前の無念を元に姿を得る。しかし、その姿は曖昧で少年達の様にはっきりとした輪郭や立体を持たない。薄く朧気で吹けば消える煙の様なものだ。
だが、今目の前で聖職者の一人を、念力で吊り上げる幽霊は違う。
幽霊独特の透けた体と朧に漂うだけの下半身。幽霊は死者で、地に足を着く事は無い。
しかし、はっきりとした美しい冷徹な容姿と銀糸の様な透けた長い髪。表情や声音もしっかりと耳に届き、着ている豪奢なドレスの質感も生前のそれと同じだろう。
ここまではっきりとした姿を持ち、聖職者を圧倒する力を持つ幽霊の存在を、少年は知らない。
『興が冷めた。疾く去ぬがよい』
聖職者達が這う這うの体で逃げ去るの見送り、少年は息を潜めて、幽霊がこの場から去るのを待った。
あの幽霊は少年の常識から外れた存在だ。
見付かれば少年程度瞬きの間に殺されるだろう。
『……ああ、暇じゃ。暇過ぎる。何処かに妾の暇を癒せる者は居らぬか』
冷たい、命を凍らせる様な声で幽霊は呟く。
少年は指一つ動かさず、瞬きもせずその時を待った。
そして短くも長い時が経ち、少年の視界から幽霊が屋敷の方へと姿を消した。
助かった。少年は小さく息を吐き、しかし努めて音を消して、少年はその場から去ろうとした。
『……やはりまだ居ったか』
「ひっ!」
幽霊が地面から姿を現した。
ズルリと、地の底から這い出る様に幽霊は少年の眼前に、その冷酷な顔を突き付ける。
『ヒャヒャヒャ、年端もいかぬ男子が妾の屋敷に何用じゃ? 財目当て、いや、名声でも求めたか』
「あ、ああ……」
『足りぬ。足りぬのう。そなたでは勇も知も力も足りぬ』
吊り上がった口からはこの世のものではない冷気が漏れ、少年の顔と体、命すらを冷やしていく。
冬の雪山の方がまだ暖かいだろう冷気に、少年は死を覚悟した。
だが、少年は一歩を踏み出す為の度胸試しとして、この屋敷に踏み入った。
だからこそ、ここで逃げれば何処にも行けなくなる。
どうせ死ぬなら、最期に一矢報いる。
少年は拳を握り、眼前の幽霊へと突いた。
『ヒョ? おうおう、これは驚きじゃ。まさか、妾に殴り掛かるとは……?』
しかし、少年の必死の覚悟も虚しく、拳は幽霊の手により容易く止められた。
だが、少年の拳を受け止めた幽霊の様子がおかしい。
首を傾げ、少年の拳と己の手を凝視している。
何事かと疑問に思う少年も、違和感に気付いた。
人のそれではない体温、しかし柔らかさは人のそれ。
幽霊は死者であるが故に、この世の地に足を着く事無く、この世のものに触れる事も出来ない。
なのに、少年の拳は念力ではなく、確かに幽霊の手に止められている。
『……お主、名はなんと申す?』
「ま、マルコ。マルコ・ポートランド、です……」
『マルコ・ポートランド……。そうか』
幽霊は一つ頷き、少年の手を取り恭しく頭を下げる。
少年、マルコの困惑を他所に幽霊は己が名と宣誓を告げた。
『我が名はテレスティア・カルデンツィア。卑しくも亡霊の妃となった者。今この時、この瞬間より我が身は貴方様のもの』
「え? ええ……?!」
『宜しく頼むぞ。主様』
この日、落ちこぼれの少年は最強の亡霊と出会った。
そして、この出会いがこの世界の秘密を暴く事になる事を、驚愕に固まるマルコはまだ知らない。