マルコはどうするべきか。寂れた外観とは裏腹に、よく手入れの行き届いた豪奢な内装を眺めながら、ソファーに座るマルコは思案を巡らせる。
断るだけなら簡単だ。しかし、マルコを主と呼んだテレスティアの言葉と表情からは、万感の想いを感じた。
『主様、何なりと妾に命じてよいのだぞ?』
「えっと……、一応聞くけど例えば?」
『ふむり、主様はまだ幼いとは言え男子。男子なれば身を立てる為の勲功が必要であろう。主様の命あれば、妾はこの人界を主様に捧げようぞ』
「よーし、この話は無し」
テレスティアは確かに強力な幽霊だ。しかし、幽霊とは最弱の存在。いくらテレスティアが強力と言っても、人界を落とす事は普通に考えれば不可能だ。
しかし、そう語る彼女なら実現してしまうのではないか、そう思えてしまう何かがあった。
『うーむ、主様は世界を所望せぬか。ならば、あの都はどうじゃ? 妾なら夜が明ける前に……』
「よーし、それも無し。僕はそんな名誉とかは欲しくないんだ」
『おう、なんと謙虚な方じゃ。ならば、主様が一生掛けても使いきれぬ財はどうじゃ?』
「お金か……。欲しいけど、そんなには要らないよ」
『ふむ、となれば参ったのう。妾は主様に何をしてやれる?』
「何をって……」
今、分かっている事はお互いの名前だけ。
テレスティアが何者なのか、何故マルコを主と呼ぶのか。マルコが何故この屋敷に来たのか。それすら話していない。
そんな中で、何を求めるのかと問われても、はっきりとした答えを返せる者は居ないだろう。
「……ねえ」
『なんじゃ、主様』
「君はどうして、僕を主と呼ぶの?」
『何故か、答えはこうじゃ』
答え、マルコの頬に添えられたテレスティアの手だった。ただ冷たく、体温の感じられない掌がそっとマルコの頬に柔らかな感触を伝える。
一瞬、呆けていたマルコだったが、すぐにそれが有り得ない事だと理解する。
幽霊はこの世のものではない。故に、幽霊は生者には触れられない。地に足を着く事も出来ず、ただユラユラと漂うだけの存在。
それなのに、テレスティアの手は確かにマルコの頬に触れていた。
『この通り、主様は妾に触れられる。……妾は生前より決めていた。もし、妾に触れられる者が居たなら、その者を主としようと』
「でも……、なんで? 今までこんな事無かったのに」
『理由は解らぬ。仮定するなら、妾が通常から外れた存在だから、かの』
「通常から外れた存在……」
マルコも幽霊に遭遇したのは初めてではない。
だがこれは、その少ない経験でも有り得なかった事だ。
『……初めて、なのじゃ』
「え?」
『母君以外で、妾に命の温もりを伝えてくれたのは、主様。貴方様が初めてなのじゃ』
「そう、なんだ……」
彼女は孤独の中で生きて、そして孤独の中で死んだ。彼女の未練や無念はきっとそれだろう。
生きた温もりを知りたい。
普通に生きていれば、そんな事は当たり前に知れる。
だが、目の前で愛しそうにこちらの頬に触れている彼女は、そうではなかった。
生前に何があったのか。マルコが聞けば答えてくれる。
しかし、そこはテレスティアの〝核〟となるもので、まだ触れてはいけない場所だ。
『のう、主様。……妾は捧げられてばかりおった。つまり、捧げ方を知らぬ。どうすれば、主様は喜びを得られるのじゃ?』
「僕は……」
すがる様な目、まるで見捨てられまいとする子供の目だ。
マルコはこの目に見覚えがあった。
あの日、幼馴染みの瞳に映っていた自分だ。
「……ねえ、君はどうしたいの?」
マルコは問うた。
あの日に問われる事すら無かった言葉を、テレスティアに向けた。
この感情が同情や憐憫の類いである事は理解している。
だが、それでもマルコはテレスティアを見捨てる事だけは嫌だった。
『妾は……、妾は主様と共に在りたい』
一瞬の躊躇いの後、はっきりとした答えが返ってくる。
共に在りたい。これがテレスティアの答えだ。
ならば、マルコが返す言葉は決まっている。
「……なら、話をしよう。これからどうしたらいいのか。何をするのかさ」
『妾は主様の望みのままに、主様の命に従うぞ』
「僕の望みは、……平穏だよ。変わる事の無い毎日を過ごしたい」
『……なら、妾は邪魔か?』
絶望した様な顔、しかしマルコはそれに頭を振る。
「僕には家族は居ないし、友達も殆ど居ない。良くしてくれる人達は居るけど、言っちゃったら寂しいんだ」
『ならば、妾がその隙間を埋めようぞ』
「でも、僕は君みたいに強くないよ?」
『ならば、妾が主様の力となろう』
「でも、僕は君みたいに賢くないよ?」
『ならば、妾が主様を支えよう』
お互いに見つめ合い、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
マルコは誰かを、テレスティアはマルコを求める。
答えの決まっている問答だが、これは必要な事だ。
「ねえ、君はどうしたいの?」
『妾は主様と共に在り、主様の力となり主様を支えたい。妾の身も心も力も、全て主様の為のものじゃ』
「そう。なら、行こう」
『何処へじゃ?』
「二人で行ける所へ」
欠けた者同士、答えの決まった問答の果て、マルコはテレスティアに手を伸ばす。
開かれた掌に、テレスティアがそっと己の手を添えれば、嘗てにあった温もりを伝える。
『嗚呼、主様。妾は主様の道行きを照らそうぞ』
「なら、一緒に来てくれる?」
『無論じゃ。妾は主様の為なれば、無明の闇すら昼の如く照らそう』
「うん、なら行こう」
ソファーから立ち上がり、マルコはテレスティアの手を引く。一瞬、驚くテレスティアだが、すぐに愛しそうに繋いだ手を確かとする。
欠けた者同士の慰め合いに過ぎないのかもしれない。
しかし、伸ばした手は確かに繋がれ、冷たさと温もりが入り交じる。
『主様、まずはどうするのじゃ?』
「学校、そこで決めよう」
『御意じゃ』
死者と生者、互いに同じ時に在る事は出来なくとも、今のこの時間だけは幻ではない。
朝日が気配を見せ始めた街を目の前に、二人は屋敷から足を踏み出した。