巫女レスラー   作:陸 理明

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幻法〈狸提灯〉

 

 

 瞬く間に、浅草寺のタヌキはその体積を増していき、横幅でいえば二倍から三倍、高さは約一・五倍、単純な面積だけならどれだけ膨れ上がったかわからないぐらいにまでなった。

 丸っこい胴体が、完全に丸に近くなったといえばいいか。

 まったく変化のない四肢を除けば、まさに膨張した風船とでもいえばいい状態だった。

 そんなタヌキに四つあるコーナーポストの一角を占められ、藍色さんの動ける範囲は確実に減っていた。

 いや、そんな簡単な次元の問題ではない。

 ただでさえ、サイズに差があったというのに、それが更に拡大したのだから。

 

「―――虚仮脅しだにゃ」

 

 前に進み出た藍色さんの左ストレートが一閃する。

 敵の反撃を恐れる必要がないということから、モーションの大きいまさに全身の力を一点に集めたような拳撃だった。

 まともに食らえば顔面が陥没するレベルだろう。

 タヌキは平然とそれを受けた。

 入った、と思った瞬間に、左の拳がグラブごとめりこみ、手首までが見えなくなっていた。

 膨らんだことによって軟らかくなり、さらにブヨブヨとした粘塊にまでなってしまったかのような変化だった。

 しかし、これでわかることがある。

 おそらくもう打撃は効かない。

 手首が吸い込まれた瞬間に、スイッチした藍色さんの右フックまでも同様に消えてしまったのだ。

 まるで底なし沼の泥水の中に手を突き入れたように。

 

「くっ!」

 

 離れようとした藍色さんだったが、タヌキがお腹を派手に揺らし、ゴミを投げ捨てるかのように動いたせいで放り捨てられた。

 両手を捕られていたせいで受け身をとり切れず、斜めに腰から落下したが、そこは猫の化身とも呼ばれている退魔巫女である。

 一回バウンドしただけでなんとか体勢を整える。

 だが、解放されたとはいえ、形勢は不利だ。

 なんといってもボクサーとしての魂であり、主武器であるパンチが封じられたに等しいのだ。

 これは藍色さんにとっては極めて不利な状況である。

 

「―――おっと、このままいくと藍色さんは何も打つ手がない状態ということになりませんか?」

「そうね。軟らかいだけならまだしも、あの脂肪の塊は彼女の拳を吸い込んで捕らえてしまう効果もあるようです。迂闊には触れられませんから」

「……だが、そうなるとあのボクサーの巫女は何もできないだろ。勝負は決したとみていいのか?」

「いいえ、まだですよ。藍色ちゃんだってただの退魔巫女ではないのですから」

 

 こぶしさんの自信満々の指摘に応えるかのように、藍色さんが両腕を十字に組む。

 今までのボクシングの構えとは違う。

 どちらかというと、御子内さんのよく使うごっちゃまぜのスタイルだ。

 いつもは自在に動かして相手を惑わすフットワークまでが止まる。

 

「あら、猫耳流交殺法・表技ね」

「なんですか、それ?」

「藍色ちゃんのご実家の神主に伝わる武芸よ。彼女自身はそれよりもボクシングの方が性に合っているらしくて滅多に使わないけど」

「はあ、もしかして藍色さんが自分の流儀を曲げたということですか?」

「ええ。己の戦い方に最後までこだわるのもアリだけど、自分たちの守護するものをどうしても守らなければならない退魔の巫女ならば勝つためならどんな変節でもするものなのですよ」

「つまり、あの構えは……」

「猫耳藍色の覚悟の現われでしょう」

 

 藍色さんが一歩踏み出す。

 それだけですぐにタヌキの攻撃の射程距離に入ってしまう。

 ぐおっと膨らんだ太鼓っ腹が彼女を覆い潰すかのように倒れこんできた。

 カウンター気味に藍色さんが組んだ腕を引いた。

 彼女の目の前に不可視のクロスが現われたかと錯覚するほどの速度であった。

 同時にタヌキのまとっていた恥ずかしげに少しだけ残っていた法被が破ける。

 刀的な鋭利な刃物にでも切り裂かれたように。

 その下にあるタヌキ自身の毛皮に、なんと十字の跡が浮かび上がったのだが、すぐに消えてしまった。

 藍色さんの腕の動きとシンクロしたかのような奇妙な現象だった。

 ただ、その瞬間、僕はキィンとした耳鳴りを覚えたのであった。

 何かがあったことだけは間違いないが、どうも不発に終わったらしい。

 マットの上の藍色さんの顔にもやや翳がついていた。

 

「―――いったい何が起きたのですか? たぶん、彼女は何かを仕掛けたようですけど……」

 

 こぶしさんも少し口を開けて驚いていた。

 

「ちょっとびっくりしました。……どうやら、あのタヌキの毛皮と肉は斬撃さえ跳ね返すみたいです」

「どういうことでしょうか」

「今、藍色ちゃんは肘と真空を利用して相手を切り裂くための技を出しました。猫耳流交殺法・表技〈刃拳(ハーケン)〉です。まともに食らえば、タヌキの肉はズタズタにされていたはずです」

「また物騒な技ですね」

「でも、その〈刃拳(ハーケン)〉でも跡をつけることしかできない絶対・打撃防禦があの風船みたいな姿のようです。これは、いくら藍色ちゃんでも……」

 

 ついにこぶしさんの顔にも心配そうな色が浮かんだ。

 どうやら想像以上に、危険な領域に踏み込んでいるらしい。

 仕組みはわからないが、あの一瞬、藍色さんは肘を使ってタヌキを切り裂こうとしたのだが、それでさえあの毛皮に遮られたということらしい。

 確か、あのタヌキのいうところの〈狸提灯〉という幻法の効果なのだろう。

 観客たちが試合前に言っていた 『あいつにはどんな打撃も効かねえし、刃物で切り付けられたって弾き返しちまう。人間側がどんな化け物を用意して来たって絶対に勝つぜ』という言葉の意味はこれか。

 まさに難攻不落の風雲たぬき城だ。

 だが、ただ守っているだけではない。

 浅草寺のタヌキは攻め込むこともできるのだ。

 しかも、ただ一歩踏み出すだけで。

 これだけ巨大な存在が近づいてくるだけでかかる圧力は想像を絶するものがある。

 狭いリングの上だ。

 前に出られず、不用意にパンチも打てない藍色さんは後退するしか道はない。

 しかし、タヌキは鈍重だが計算された動きで彼女を徐々に追い詰めていく。

 あのままロープ傍まで追い詰められ、体重を掛けられたらいかに彼女がタフでも取り込まれてしまうかもしれない。

 圧迫死もありえる相手なのだ。

 藍色さんはもう為す術もなく、ただ必死に逃げる。

 

『くくく、フギャー。逃げるだけか、人間。さっき叩いた大口の報い、ここで受けてもらうぞ、フギャー』

「語尾がちっとも可愛くありません。せめて、脳髄グシャーぐらいはつけたらどうですか?」

「貴様がワシに屈服したらな、フギャー」

 

 台詞のあちこちに、こらえきれないのか嘲笑が入ってきていた。

 楽しくてしょうがないという感じだ。

 確かにタヌキの側から見れば、防戦一方どころか逃げ惑うだけの藍色さんを追い詰めているだけの嗜虐心を駆り立てられるシチュエーションなのだろう。

 だが、どんなに嘲笑われても、決して自棄になって特攻したりせずにチャンスを窺う藍色さんの冷静さが羨ましい限りだ。

 

「こぶしさん、藍色さんはどうすればいいんですか?」

「正直なところ、手の打ちようがないですね。藍色ちゃんの技ではあの肉の壁を撃ち抜くことはできそうもないですから。打撃も、斬撃も効かないゴムゴムの風船みたいなものです」

「しかし、このままでいくとコーナーポストに追い詰められてそのまま圧迫されてジ・エンドだぞ」

「……藍色ちゃんに別の技があればいいのですけれど」

 

 藍色さんの別の技?

 かつての先輩であるところのこぶしさんでさえ知らない、そんなものが……。

 いや、ある。

 僕の脳裏に御子内さんとの激闘が浮かんだ。

 仕組みはわからないけれど、あれなら……。

 

「藍色さん、頑張れ!!」

 

 思わず声をかけると、その可憐な横顔にわずかばかりの余裕が戻ったように思えた。

 ただ策もなく逃げ惑っているだけのように思えていたが、そんなことはなかったようだ。

 猫耳藍色はまだ諦めていない。

 彼女の右手の甲だけが上になった。

 いわゆる横拳―――猫パンチの形に。

 かつて御子内或子をダウンさせた“震打(しんだ)”を使うのだろうか。

 しかし、その変化にタヌキは気がつかない。

 完全に藍色さんを―――人間を侮っている。

 勝負がついてさえいないのに舐めているのがわかった。

 鼻歌交じりに倒れこめば、退魔巫女を仕留められると高でもくくっているのだろう。

 だが、それは間違いだ。

 おまえは知らない。

 藍色さんのことを。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()

 

『これで終わりだぜ、フギャー!!』

 

 タヌキが腹を見せて突っ込んだ。

 トドメを刺して、藍色さんを肉に封じ込めるために。

 藍色さんはロープに背中をつけて、左手をぐっと腋に引きつけた。

 そのまま、天を衝くように高く撥ね上げた拳を掲げて、咽喉が裂けんとばかりに叫びつつ、

 

「だああああああ!!」

 

 と、浅草寺のタヌキ目掛けて伸ばした。

 パンチと呼ぶにはあまりにもスローモーションで、ただ手を伸ばした風に無造作で、誰もが何かがあると見破れるだけの不思議な何かがあった。

 十中八九間違いなく、藍色さんの猫パンチには「何かが」こもっていた。

 グラブがポンとタヌキのメタボな腹を叩いた。

 巨体が揺らいだ。

 いや、震えた。

 ほんの一瞬だけ。

 

『な、なんだ、これ……。腹が、腹が、腹が……』

 

 浅草寺のタヌキは棒立ちのまま呻いた。

 自分に起きた状態異常に戸惑っているのだ。

 想定外の事態だったのだろう。

 

『腹が腹が腹が……、違う! ワシの内臓が―――!!』

 

 タヌキの大きな口が極限まで開いた。

 藍色さんの技が毛皮と肉を通り越して、なんと内臓まで伝わっていたことがここで鈍い僕にもわかる。

 そして、その大口から、

 

『プシュュゥゥゥゥゥゥ』

 

 と空気が抜けていく。

 穴の開いた風船のごとく。

 みるみるうちに元の大きさに戻っていく、化けタヌキ。

 ほんの数秒の間に、完全に最初のサイズにまでなっていってしまった。

 しかも、ヨロヨロと足元がおぼつかないまま。

 戻った瞬間、藍色さんが動いた。

 これまで逃げ回らなくてはならなかった鬱憤をここで晴らすために、ずっと耐え続けていたかのごとき全身全霊の膂力を籠めて―――

 

 必殺の、

 

 ジャンプしてからの、

 

 両足裏がマットから離れた状態で打つジョルト・ブローにも似た、

 

 ハリケーンボルトがタヌキの顔面で火を噴いた。

 

 

 

 

 ―――これで、〈社務所〉側の二勝目が確定した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ちなみに、浅草寺のタヌキは動物病院に直行させられた。

 

 アーメン。

 


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