巫女レスラー   作:陸 理明

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第23試合 夜の蝶飛ぶ
キスの顔にはご用心


 

 長谷部大地は、駅の改札口に向かおうとする女の手首を掴み、強く引いた。

 手首を掴まれた方もわかっている。

 一度、視線を外したのはフェイントだ。

 立ち去ろうとする自分を引き留めさせるための故意の行為。

 女の予想通りに、長谷部は立ち回り、二人は互いにまた見つめ合った。

 

「まだ、早いよね」

 

 長谷部は女の手を引っ張って、改札口の脇、光があまり差さない隅に連れていく。

 女もなすがままだ。

 壁に寄りかかると、そのまま引き寄せ、腰を前から抱きしめた。

 柔らかい肉をしている。

 甘いクッキーのような匂いがする。

 これが女の身体だ。

 長谷部は久しぶりに味わう女の抱き心地と甘い体臭に少しだけ興奮した。

 女に慣れてないわけでもないが、やはり意中の女を自分の腕の中に収めたときの高揚感は別物だ。

 ものにしてやる、という征服欲も湧いてくる。

 くびれのある腰を押さえ、やや尻にまで指を這わせつつ、長谷部は女を身長差のある分だけ見下ろす。

 美しい女だった。

 肌もシミ一つなく白い、眉も描いていない生のまま、小鼻が小さくすらっとした鼻梁は通っていて、眼は大きい。

 前があげられていて、後頭部でまとめられているが、色々とウィッグがつけられていて、()()()()()髪型はいかにも客商売の女のようだが、むしろらしくない初々しさがあるとも思っていた。

 力ずくで呼び止めた客にされるがままにしているだけで、どう考えても男を知らぬ女ではあるまいが、それでも長谷部は夢を見るようにしていた。

 こんな仕事をしていても実は一途でシャイな女じゃないかという妄想だ。

 ドラマや漫画があるまいし、なんて野暮は考えもしなかった。

 長谷部はいきつけのガールズバーのコンパニオンであるこの女に惚れているのだから、それでいいではないかと。

 派手なウィッグに触れようとしたら、

 

「髪には触らないで」

 

 と拒絶されたので、「そうか」と諦める。

 髪に触るのは深い情感のある場合だと言うので拒絶されるのはショックだったが、もう腕の中に抱きしめてしまっている女を好きにする時間はたんとあるのだ。

 

「キスするの?」

「あたりまえだろ。俺はおまえが好きなんだよ」

「お客さんと関係持っちゃいけないってママたちに釘を刺されてんだけど」

「だったら、俺の女になればいいだろ。簡単だ」

 

 すると、女はそっと微笑んで、

 

「そうだね。―――キスして」

「ああ」

 

 女の両の掌が長谷部の顔を挟み、お互いに顔を傾けて口づけをした。

 ついばむようにキスをしあい、上唇と下唇を交互になぞってから、舌を少しだけ突き出して口元を舐める。

 普通ならそこで相手も舌を差し入れてくるところだが、女は特に何もせずに唇同士の接触だけで済まそうとする。

 

「舌出せよ」

 

 長谷部は言ったが、よく聞き取れなかったのか、女はフレンチキスを返そうとしない。

 フレンチキスというのは俗にいうディープキスのことだ。

 唇だけのキスはバードキスといい、ディープキスとは濃厚なエロスに満ちた口づけ、互いに口腔の粘液を交換し合う、欲情をそそるための下品なキスのことである。

 名付け親はイギリス人。

 下品で浅ましい行動については、大嫌いなフランスの名前をつけて当然という皮肉な思想の下にフレンチキスと名付けたのである。

 苛立って強引に舌で唇を割り、歯茎のあたりまで侵入させて舐めはじめる。

 キスだったら何分でもできる。

 女はキスが好きだし、しかもこれだけで身体が火照りベッドに連れ込んでも文句を言わない女を作り出せる効果的な手段でもある。

 だから長谷川は時間を掛けてねっとりと女の咥内をなぶった。

 しばらくすると、堅かった身体も弛緩し、尻を掴んでも抵抗を示さなくなる。

 

「らめれすよ……」

 

 多少、ろれつが回らなくなっているようだ。

 勤め先のガールズバーではほとんど飲まないようにさせているようだが、さっき長谷部が強引に飲ましたカクテルの効き目が出ているのかもしれない。

 

「俺の女になるんだろ。キスぐらいさせてくれよ」

「……もう、強引なんだから。癖になったらどうするんですか」

「癖にさせてやるぜ」

 

 長谷部は腰に回していた手を女の髪に添えようとした。

 さらに引きつけようとしたのだ。

 だが、その動きは女に遮られる。

 

「どうした?」

「だから、髪に触らないで。いつも言っているでしょ」

 

 そういえば、こいつは店でも髪に触れようとすると起こったっけ。

 なんだよ、髪ごときで。

 股ぐらに手を入れてパンツの中を指で掻いたわけでもねえだろ。

 

「そういうなよ」

 

 長谷部は前からブラウスの膨らみを揉んだ。

 こちらは断らないらしい。

 胸を揉んでも文句がないのに髪が嫌とはわからない奴だ。

 

「あん」

 

 胸の堅くなった一点を指ではじいて喘がせると、もう一度キスをしてやった。

 長谷部はもうこの女は俺のものになるという確信があった。

 わりと身持ちが堅いとはいえ所詮は商売女だ。

 ここまで持ち込めば流されるはずである。

 あとはすぐ近所のホテルにでもつれこめば……。

 剥き出しになっている肩の付近を舐めて、キスマークができないギリギリまで吸う。

 

「やめてよ……。人が見ているじゃない」

「誰もいないよ」

「ホントだ……」

 

 改札口前の通りに背を向けている女と違って、長谷部には周囲のことを気にする余裕があった。

 さっきから誰もやってこないことはわかっている。

 終電が近いうえ、こちらの改札は裏口扱いなので、あまり利用する人間がいないのだろう。

 もっとも、誰かが来てもみせつけてやるだけさという、羞恥心のない優越感を抱いてもいたこともある。

 だから、女が形だけの抵抗をしても何度も唇を奪い続けた。

 このまま犯してやってもいいぐらいの狼に似た衝動を抑制しながら。

 

「あ、あああん、もお、激しいんだから……」

「うるせえよ、口答えすんな」

「Sっ気強過ぎよお」

 

 Sの傾向が強いと言われたせいか、生来のいたずら心が首をもたげた。

 もう少しこの女を嬲ってみよう。

 俺の女になる資格があるか試してやろう。

 そんな黒い衝動のもとに、長谷部は女の豊かな髪の中に指を突っ込んだ。

 きっと嫌がるはずだ。

 だが、そんな反抗を許さないようにしつけて、俺のものにしてやる。

 彼氏に逆らう生意気な女はいらない。

 そういえば黙るだろうしな

 長谷部はそんな自分勝手な展開をシミュレーションしていた。

 さっきまで飲んでいた酒よりも、自分自身に酔いすぎていたのかもしれない。

 

「やめて!!」

「うるせえよ」

 

 予想通りだ。

 ここで愛を囁き、俺にすべてを捧げさせて……

 

 プチン

 

 突然、指先が熱くなった。

 ずきんとした痛みを感じたのだ。

 慌てて、女の髪につっこんだ指を抜いて、月光に晒す。

 人差し指、中指、薬指の第二関節から先がなくなっていた。

 まるで鋭利な刃物でも使って切り取られたかのようにばっさりと。

 

「あ……れ……」

 

 掌が紅く染まっていく。

 汚れではない。

 血が流れていく跡だった。

 疑いようもなく、それは事実。

 長谷部の指は、三本、断ち切られていたのだ。

 いったい、どうして。

 

「やめてって言ったよね」

 

 腕の中にいる女が顔を上げた。

 呆れたような、軽蔑したような、むしけらを蔑むような、そんな冷たい眼をしていた。

 口元にも冷笑が浮かぶ。

 ほんの少し前とは違う、別の生き物が化けたみたいな笑みであった。

 

「なんで……あれ? どういうことだ」

「髪に触らないでっていったのに。隠しごとがバレちゃうからさ」

「隠し事……?」

「うん、隠し事。これだよ」

 

 女の手がウィッグを外し、まとめていたゴムをとると、髪がぶわりと浮き上がった。

 獲物を前に舌なめずりする蛇のように。

 それだけならば、まだ長谷部も正気を保っていられたかもしれない。

 だが、そうはならなかった。

 長谷部は全身が恐怖で硬直した。

 髪をめくりあげた女の後頭部に、大きな口が貼りついていたからだった。

 唇を構成する上唇と下唇がへの字で閉じたままならば、そこまで長谷部も取り乱しはしなかっただろう。

 しかし、女の頭にあるもう一つの口は、にたりと開くと歯を剥きだして笑ったのだ。

 白く煌めく歯並びを見せつけるようにして。

 作り物でも、何かのトリックでもない、本当にもう一つの口。

 そして、その口は喋った。

 

『見られちゃアアアアしょうがねえエエエエエな。―――いただきまアアアアす』

 

 恐怖のあまり動けなくなった長谷部は、女の二つ目の口が手首まで呑み込むのを黙って見ているしかなかった。

 激しい痛みと熱と咀嚼音が、触覚と痛覚と聴覚を震わせた。

 産まれたときから一緒だった腕がバクバクと噛み砕かれ、呑み込まれていく。

 凄惨でもあり滑稽でもある状況であった。

 

「あああ―――あああああ!」

 

 女が横目で彼を見た。

 本来の彼女の口は艶然と微笑んでいる。

 その美貌に似合わないげっぷをして、恥ずかし気に口元を押さえた。

 

「やっば、はしたない」

 

 もう一つの口はさらに割れ目のように裂けていき、長谷部の肩まで呑み込み、彼の顔までも口の中に納めようとした。

 視界が完全に真っ暗になった長谷部は、最後の瞬間、女の吐く息を嗅いで「甘い」と感じたが、それっきり意識が消失して二度と回復することはなかった……。

 

 

 


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