巫女レスラー   作:陸 理明

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妖怪〈鎌鼬〉

 

 

 新宿に近いというだけで、夜の中野は意外なほどに静かな場所である。

 日野(ひの)摩耶(まや)は予備校からの帰宅途中であった。

 もうすぐ午後の十一時。

 二年生の夏休み向けの夏期講習に参加していたのだが、講義の後に同じ高校の仲間たちとおしゃべりをしていたことで遅くなってしまったのだ。

 夏休みということもあり、このあたりの若者にとってはそれほど遅い時間ではないが、家族が心配しない訳でもない。

 摩耶は母親にメールをしておけば良かったと後悔した。

 それだけで家に戻ってからの小言の量は激減するというのに。

 

(たいして面白くもないしゃべりで時間使いすぎちゃったな)

 

 女子高生には女子高生の付き合いというものがあるが、それがすべて楽しいなんてはずはない。

 特に予備校の夏期講習で顔を突き合わす相手なんて、そんなに親しいものではないのだから話も盛り上がらない。

 たらたらと実のない内容が続くだけだ。

 でも、それに付き合わないと後々受験本番になってから仲間外れにされるおそれがある。

 受験には情報収集も大切な要素だし、今から孤立してしまうのは問題があった。

 そのため、貴重な時間を浪費したともいえる。

 

「夏休みもあんまり楽しくないかも」

 

 バイトやら遊びやらに熱中できればいいが、摩耶の志望している職種につくにはそれなりの大学に進学する必要があり、勉強もやっておかねばならない。

 あと二百メートルで家族と共にすむマンションに辿り着くという直線道路に辿り着いた時、ふと耳鳴りのようなものを感じた。

 強い風が吹いた気がする。

 夜とはいえ、まだ都心のこのあたりは蒸し暑い。

 風なんて一陣さえも吹いた感じはしないというのに、奇妙なことだった。

 台風でも接近しているのであろうか。

 ガシャーーン

 すぐ手前に設置されていた自動販売機の隣にあるゴミ箱が倒れ、蓋が外れると、中に詰まっていた空き缶とペットボトルが散乱する。

 夏で売れ行きがいいこともあり、満杯になっていたゴミが散乱すると道は完全に塞がれる。

 しかし、摩耶にはどうしてゴミ箱が倒れたのかがわからなかった。

 風もない。

 地震もない。

 誰もこの通りにはいない。

 そもそもたいていの自動販売機のゴミ箱は、ベルトで固定されていて余程の力がかからなければ自然と倒れたりはしないものなのだ。

 しかも、このゴミ箱は一度ぽんと宙に浮いてから通りの中央にまで飛んできたのである。

 何が起きたのかわからない摩耶だった。

 バリン

 鈍い音とともに今度は自動販売機のクリアケースが割れて四散し、中にあるジャース類のダミーが散った。

 それだけではない。

 道端の植木鉢や看板が音をたてて倒れていく。

 だが、摩耶の眼には何も見えず、どんな音も聞こえない。

 あまりのことに動くこともできず立ち竦んでいるしかなかった。

 足元の石ころが音をたてて弾き飛んだ。

 そこで初めて理解した。

 

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 竦んだ足を何とか動かそうとした。

 この通りは幼稚園の頃から慣れ親しんだ場所だ。

 その場所が突然異世界に変わってしまったような気持ち悪さが背筋を震わせる。

 逃げないと。

 一刻も早く逃げないと()()()()()()()()()()

 

 急に顔が熱くなった。

 恐怖が上がってきたのかと思ったが、そうではなかった。

 思わず当てた手にぬるりとした感触があった。

 そして、触れた場所にいつもの自分の顔には絶対にない窪みのようなものがあった。

 電信柱についた外灯の弱い灯りのもとでもわかる。

 手に付着した液体は赤かった。

 紛れもなく血液であった。

 

(私の……血……)

 

 思考停止している中、頭に浮かんだのはそれだけだった。

 窪みは―――深すぎる傷。

 鋭利な刃物に斬られたかのような深い深い傷であった。

 

「あ……あ……何……これ……」

 

 セーラー服の白い襟もととスカーフが重くなる。

 血が滴り落ちたのだ。

 

「あああああぁぁぁ!!」

 

 摩耶は叫んだ。

 嗚咽に近い、苦しみそのもののような嘆きだった。

 女の顔にこれほど大きな傷がつく。

 それがどれほどの悲劇なのか、今の摩耶ほどわかっているものはそれほどいなかったであろう。

 そして、更なる悲劇と苦しみが彼女を絶望に叩き込もうとした瞬間、

 

『カアアアアアア!!』

 

 闇夜を切り裂く一声が響き渡る。

 同時に、摩耶が奇跡的に保っていた意識は完全に白く失われていった……。

 

 

       ◇◆◇

 

 

「この病院にゃんですか?」

『ソウダ』

「わかりました」

 

 新宿区の戸山公園の裏手にその個人病院はあった。

 病院とは言っても、ただの一軒家よりはマシ程度の大きさのこじんまりとした建物であり、薄汚れた看板が無ければ誰かの住宅としか思われない程度のものである。

 しかし、ここが関東を妖魅の跳梁跋扈から鎮守する〈社務所〉の施設の一つだと知るものは少ない。

 ゆえにここに運ばれる患者は、ほとんど妖魅絡みのものたちばかりなのである。

 猫耳藍色がやってきたのは、ここに運びこまれた患者に会うためである。

 

『巫女ハハジメテ来タノカ?』

 

 案内役を勤めていた八咫烏ず飛び回りながら問う。

 藍色は肩をすくめて、

 

「私は退魔巫女としては半年も活動してにゃいから仕方にゃいです。あと、戸山住宅のこのあたりは心霊スポットだから、巫女の私としては近寄りにくいんですにゃ」

 

 早稲田大学のすぐ近くにある戸山公園き、都会にあるにしては広々とした公園なので夜中でもそれなりの人通りはある。

 しかし、付近の住民たちの中には、「赤ん坊の泣き声が聞こえる」「白い服を着た女の幽霊らしいもの出る」「トイレで自殺したサラリーマンの霊が話しかけてくる」という噂話をするものがある。

 子供たちにとっての心霊スポットでもあるのだ。

 それもそのはず、戸山公園には数多くのオカルトめいた事件の噂がまとわりついている。

 一九八九年に、国立感染症研究所を建設中の作業員が、地下から無数の人骨を発見した事件や、その近くにある西早稲田駅の「誰も入れない地下一階があり、真っ暗なそのフロアは、実はそのまま戸山公園地下にある政府の秘密地下施設へと繋がっている」などである。

 確かに西早稲田駅は、地上口からB2階の改札まで直通しているため、地下一階フロアの入口はいつもシャッターが閉ざされた状態なのでその噂も真実味をおびているのだろう。

 これが人骨発掘事件と結びつき、「旧日本陸軍の土地だったのだから、地下に大きな施設があり、いまだ秘密基地として使われているのでは?」との憶測を呼んでだのだ。

 また、江戸時代には尾張徳川家の下屋敷、日本最大の庭園「戸山荘」があった場所であるということも関係している。

 江戸の実話怪談集『耳嚢』によると、その庭園内にはひっそりと古の邪神を封印した祠があったというのである。

 ゆえに、新宿区の戸山公園あたりは都内でも有数の心霊スポットなのだ。

 藍色もそのことは知っている。

 戸山公園が妖魅の吹き溜まりになっているということも。

 だからこそ、近所ではあっても於駒神社の跡取りである巫女の彼女としては、余計な軋轢を産みたくなかったので子供の頃から近寄ったことがないのである。

 退魔巫女になるほどの神通力を持つ彼女は、妖魅にとっては天敵でしかないので、下手な接触は争いにしかならないのだ。

 

「とはいえ、こういう土地だからこそ、〈社務所〉にとっては好都合ということかにゃ」

 

 藍色は一切迷うことなく、病院の敷地内に入った。

 入った途端、延髄のところにチカっと痛みが走る。

 何らかの結界が張られている証拠だった。

 

『我ハ窓ノソトニイル。用ガアッタラ呼ブガイイ』

「サンキューにゃ」

 

 招き猫のように右手をあげて、去っていくカラスを見送ると、藍色はそのまま呼び鈴を押す。

 顔を出した看護師は、服装を見ただけで彼女の正体を察したらしく、そのまま受け付けも通さずに二階の一室に連れていった。

 病室とは思えないほど、ごく普通の家庭の一室のような部屋だった。

 ただ、鼻をつく消毒液の臭いはまさに病院のものである。

 

「失礼します……」

 

 藍色は礼儀正しく、室内に入った。

 内部は八畳間だが、白く清潔感溢れる様子に統一され、いかにも病室といった風情であった。

 ベッドが一つ置かれていて、入院患者が上体を起こしてぼうっと壁を見ていた。

 心ここにあらずという様相だった。

 さもありなん、顔面に仰々しく巻かれている包帯は痛々しく、彼女の身にとてつもなく辛いことが起こったであろうことを如実に物語っていたからだ。

 鼻と眼だけがむき出しで、例え両親であったとしてもすぐには娘とはわからないだろうに、包帯ががっしりと巻かれている。

 気配に気づいて、藍色の方を向く。

 眼が見開かれた。

 

「―――猫耳さん……?」

「どうして私の名前を知っているのかにゃ?」

「……あ、あたし、あたし、……日野です。日野摩耶です。同じクラスの」

 

 彼女の名前は憶えていた。

 被害者の名前を確認していないことも。

 まさかクラスメートだとは思わなかったのだ。

 

「日野さん……にゃの?」

「はい。でも、猫耳さんこそ、その巫女さんみたいな格好は……」

「あ、ああ、別に、コスプレとかじゃなくて」

 

 言わなくてもいいことを口走ってしまう。

 コスプレ趣味がそんなにもバレたくないのだが、ただの言い訳にしかなりそうもない。

 だが、そんな藍色の戸惑いを無視して、摩耶は俯いて肩を落とした。

 

「日野さん、あたし、もう生きていけない」

「どうして?」

「こんな顔になっちゃったんだよ。もう、鏡も見たくないんだよ!」

 

 激昂し、力ずくで無理に包帯を剥がした摩耶の顔面には、目元から喉の上のあたりまでざっくりと大きな傷がついていた。

 肉が引き攣り、顔が歪んで見えるほどの。

 何者かにつけられた傷は、十七歳の高校生を醜い怪物のようにしていた。

 春も盛りの少女につけられたものとしては究極に近いほどの苦しみであろう。

 摩耶は普通以上には可愛らしいと自負していた。

 その彼女はたったの一晩で地獄までつきおとすほどの、苦悶が彼女を襲っているのだ。

 

『ダガ、ソレハ治セルゾ、娘ヨ!』

 

 窓から唐突に入ってきた大きなカラスが叫んだ。

 

『ソノ傷ヲツケタ〈鎌鼬〉ヲミツケダシ、傷薬ヲ奪イトレバイイノダ! ソレシカオヌシガ元ニ戻ル手段ハナイ!』

 

 藍色も頷いた。

 

「大丈夫ですよ、日野さん。絶対にわたしがあにゃたを元の可愛い美人に戻してあげるにゃ」

 

 

 


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