原宿駅竹下通り改札口に着くと、大粒の額汗をポケットから取り出したハンカチで拭った。
8月31日、午前7時50分、天気は雲一つない快晴、気温は30度を超えている。
改札口は人が多い。
朝の通勤時間という事だろう、スーツを着た人等、大勢の大人の人が忙しなく駅内で動いている。
僕たち学生と違って夏休みなんてものは無く、僕らが遊んでいる間も大人たちは懸命に働いている。
すごいなぁと他人事のように思えるのは、その場所に到達するにはまだ先だと思っているから。
まだ高校1年生、そして多分何処かしらの大学に行くだろうから、社会人になるというヴィジョンがまだ見えないのだ。
券売機の横のタイル状の壁にもたれかかっていると、すみれさんが小走りで向正面の横断歩道からやってくるのが見えた。
「ごめん待たせちゃって」
「ううん。というか、まだ5分前だし」
「おはよう圭太」
「おはようすみれさん」
トップスは紺色のノースリーブに銀色の細いネックレスを、パンツはブルーのデニムに淡い黄色のスニーカーを履いていて踝が見えている。
そして、綺麗な金色の髪を後ろで結んでいる。
「暑いわね」
と言って、トートバッグからハンカチを取り出して、僕と同じように額の汗を拭っている。
今日の行き先は海を約束していた。
場所は金沢八景。
そして、僕たちの最後のデートである。
待ち合わせしていた駅の改札を通って、人の少なそうな電車を待つ列に並んだ。
平日とは言え通勤時間であるが故、人は多い。
「日焼け止め塗ってきた?」
「え?、ううん?」
「塗らなきゃダメよ」
「僕は男だからいいよ」
何故なら、日焼け止めは女性が塗るというイメージを持っているから。
心春も、外に出る前に家で塗っていた。
「男も女も関係ないわよ。こういう積み重ねが将来に後悔しない事になるの。後であげるから塗っときなさい」
そんな事を話しているとゆっくりと山手線内回りの電車がホームに入ってきた。
渋谷品川方面の電車に乗り込むと、車内の冷気が心地よい。
入るとちょうど2人分の席が空いていたので、僕らは腰掛けた。
品川で京急本線に乗り換え、金沢八景ではシーサイドラインに乗り換え海の公園柴口で降りた。
時刻は9時半だった。
降りてすぐ見える海水浴場は、想像していたよりは人は少なかった。
別れて更衣室に入って、持ってきた水着に着替える。
去年の夏休みに友達と海に行った時に買った水着があったので、わざわざ買いに行く手間が省けた。
着替えて更衣室を出ると、すでにすみれさんは水着姿で立っていた。
薄いグリーンと純白のフリルのついた水着。
サングラスをかけて僕を見つけるなり、手を上げた。
「早かったね」
「更衣室、空いてたから」
そう言って僕の目をじっと見つめてくる。
その視線に僕は彼女が何を求めているのかを感じとった。
「大変お似合いでございます」
「よろしい」
そう言って、すみれさんは満足そうに歩き出したので、後ろを追いかける。
「暑いから早く入りたい」
「同感ね」
早速僕らは海の浅瀬に入った。
海の水を掛けられたので思いっきりかけ返してあげた。
30分ほど水を掛けたり泳いだりをして砂浜に上がった。
無料のビーチバレーコートがあったので、勝負した。
勿論勝ったのは僕。と言いたいところだったけど接戦だった。
そうしているうちにお互いかき氷が食べたくなったので、売店で購入した。
僕はブルーハワイ、すみれさんはメロン味。
どっちが早く食べ終わるか競争という事になった。
これは完敗した。すみれさんが早すぎた。
海も入って、ビーチバレーもして、かき氷も食べて、ぼーっと2人で日陰で座っていると昼時になったので、切り上げて八景島シーパラダイスに向かう事にした。
今回、ここを2人で選んだのは、海水浴ができることと、近くに水族館があるからという理由。
備え付けのシャワーで砂を落として、持ってきたタオルで拭き着替える。
更衣室を出るとすみれさんは居なかった。今度は僕の方が早かったようだ。
数分待っているとすみれさんが出てくる。
髪をお団子で後ろに纏めて出てきたすみれさんは、お待たせと律儀に一言言うと僕の隣についた。
柑橘系の香りがすみれさんからする。恐らく制汗剤だろうと思う。
歩いて八景島シーパラダイスに着くとまずチケットを買ってお昼を食べる事にした。
フードコートで2人でハンバーガーを食べた。
そのあとは水族館に入った。
一通り見て回ったけれど、すみれさんはサメに興味津々だった。
その後はイルカやペンギンのショーも見た。
「写真撮るわよ」
そう言って内カメラにした携帯を向けて、2人で肩をくっつけて写真を撮った。
最初の時よりは、緊張せずに自然体で笑えた気がする。
そんなこんなでお土産コーナーを見た後、外に出ると西の空が橙色に色付いてきた。
ここからだと原宿まで1時間半はかかるのでもう帰ろうと言う事になった。
シーパラから八景島駅へとゆっくり歩く。
僕はさっきお土産コーナーで買ったイルカのキーホルダーの入った紙袋をすみれさんに差し出した。
「なにこれ」
「さっき買ったんだ」
「私に?」
「そりゃもちろん」
すみれさんはそれを受け取ると、嬉しそうに抱えてくれた。
正直、いらねーとか思われてたりしたらどうしようかとも思ったけれど、その心配も杞憂だった。
すみれさんがそんな事を思う人じゃないのは、この数ヶ月間紛いなりにも隣に居させて貰ったので分かる。
「あのさ…」
八景島駅で電車を待っていると、すみれさんが正面を向きながら僕にそう言った。
「どうしたの?」
僕の問いかけに、すみれさんは少し間を置いて、やっぱり何でもないとぎこちなく笑った。
電車がホームに入ってくる。
行きとは打って変わり、人の疎な車内で2人で腰掛ける。
ここから金沢八景で乗り換えて、京急本線に乗って品川で降りて、いつもの山手線で原宿に到着だ。
それで、僕とすみれさんのこの恋人ごっこ関係も終わりになる。
ふりとはいえ、僕は楽しかった。
2人で出かけたのも、話をしたのも。
でも、あくまでも、これはすみれさんに付き纏ってくる男を諦めさせるためのもの。
周りには恋人同士に見えても、僕たちにとっては、これはごっこ関係。
そんな、変わった関係が今日で終わるのだ。
原宿駅に着くと、表参道改札口から出る。
日はもう暮れかかり、あたりは暗くなり始めている。
「送るよ」
僕がそう言うと、すみれさんはこくりと頷いた。
慣れた道を歩いていく。
2人の距離は肩と肩を寄せ合う距離だ。
すみれさんに付きまとう新井先輩に気づかれないようにと、恋人らしい距離感というものを2人で作り上げた。
10分もしないうちに僕のバイト先でもあり、すみれさんの家でもある隠田神社に着いた。
辺りからは喧しいほど聞こえていた蝉の声がもうこの時間ではぴたりと止んでいた。
「私たちは今日、話し合いの結果、友達関係の方がお互いにいいという事になって、恋人関係を解消する」
「うん」
「これからは友達以上恋人未満の関係になる」
「そうだね」
すみれさんが言うのは、そういう事にしようと話し合った設定である。
この関係を、周りに疑われず綺麗に終わらせられる設定。
「今までありがとう」
すみれさんはそう言って頭を下げる。
「ちょ、そんな畏まらないでよ」
綺麗なお辞儀に、思わず驚いてしまった。
僕のその声に、すみれさんは顔を上げると、大きく両手を広げた。
「すみれさん?」
その行為の意図が分からず思わずすみれさん名前を疑問形に読んでしまう。
「ハグよ。最後のハグ」
真剣な表情で僕を見る。
手を繋いだりした事はあっても、ハグはなかった。
僕はすみれさんとの距離を詰めて、大きく広げた手の中に収まると、優しく背中に手を回してくれた。どうしていいのか分からなかったけれど、僕も同じように背中に手を回した。
すみれさんの感触が伝わってくる。
すみれさんの体温が伝わってくる。
すみれさんの匂いが伝わってくる。
ゆっくりお互い離れると、何故か2人して笑いが込み上げてきた。
くすくすと2人で、2人の世界で笑う。
「ありがとう」
にっこりと、今度は微笑むようにすみれさんは僕に笑いかけた。
「畏まられるよりよっぽどこっちの方がいい」
そう言うと、どういたしまして、と僕は最後に一言付けた。
この夏、不可抗力で始まった関係とはいえ、そこには確かにすみれさんとの楽しかった思い出があった。
最初、すみれさんにお願いされどうしても僕しか頼める相手がいないということから始まり、面倒だと思ったこの関係。
それでも、すみれさんと一緒に話をして出掛けたりもして、何の因果か、すみれさんが僕の友達のかのんたちとスクールアイドルをする事にもなって。
楽しいことも痛いこともあって、同じバイト先、という関係から今では親友という関係になれたと僕は思っている。
「私は、あなたに何をすればいい?」
ふと、すみれさんがそう聞いてきた。
どこかで聞き覚えのある質問だった。
あの時と答えは一緒だ。
「これからも僕と、良い関係で居て欲しい」
すみれさんは、数回瞬きをすると、こくりと頷いた。
これからも、すみれさんとの付き合いは長くなりそうだ。
だからこそ、いい関係で居たい。
この先も、大人になっても。
日が沈んだ8月31日。
今日で僕の夏休みが終わる。
〜
私は、取り返しのつかない事をしてしまったのだ。
それでも、そうなってしまったのだから。
振り返ってもどうにもならない。
もう、どうすることも出来ない。
一度、タネとなって根付いた私の"間違い"が、私と私の周りを苦しめてしまう事になるのだ。
そしてあの願いが、私を締め付ける強力な呪いになってしまった。
───私、平安名すみれは、鈴鹿圭太を心から愛してしまったのだ。
拗らせて、また拗らせて。
より、複雑に混ざり合う。
次回、葉月恋編