とめどなく溢れる涙を、あの日貰ったタオルで何度も何度も拭く。
啜り泣く、と言うよりも、咽び泣くと言う表現の方が正しいそれに、奥の事務所に居たのであろうすみれ先輩が慌てて出てきて、きな子が軽く説明すると言う始末。
「覚えてたんですか?夏美ちゃんのこと」
きな子が、嬉しそうにそう聞くのは、さっきの私の話を聞いて色々と感じてくれたからなのだろう。
私の手を取って、もう一度彼の前に連れてきてくれたのは彼女だ。
「もちろん」
「最初から?」
「最初に会った時に、あれって思ったんだけど、もう結構前のことだから間違ってたら失礼かなって…」
そう言って、彼は少しはにかんだ。
彼は、覚えていてくれたのだ。
彼にとっては、たった1日の何でも無い筈の出来事を。
それでも、私にとっては、心の支えになる出来事で、挫けずに負けずに立っていられた原動力になっているから。
ずっと、頑張る力を私に与えてくれていた。
だから、言わなきゃならない。
しっかりと、目を見て、彼の前で。
「ありがとうございました」
御守りのように使っていた、もうかなり使い古してしまったタオルでしっかりと涙を拭いて、私は深く頭を下げた。
「あの日のあなたに勇気を貰ったから、今の私があります。私は、まだ走り始めたばっかりだけど、大きな何かを成すための、形あるものに出逢えました」
私がそう言うと、彼は深く頭を下げる私の肩を優しく掴んで、顔を上げるように促すと、
「うん、応援してるから。キミが何処にいても」
そう言って笑ってくれた。
私は、溜め込んでいた想いがそうさせたのか、勢いよく目の前の彼に抱きついた。
きな子やすみれ先輩が動揺する様な声が聞こえたけれど、今だけはこうしても良い気がした。
そして、彼は私の頭をそっと優しく撫でてくれた。
「失礼、取り乱しましたの」
少しだけ余韻に浸りながら、彼の側から離れる。
「鬼塚さん…」
「夏美…、夏美と呼んでほしい」
驚いた様に彼が目を丸くしたが、また優しい顔をして頷いた。
「夏美ちゃん、これからもよろしく」
「先輩、これからもよろしくですの!」
今度は、2人で、固い握手を交わした。
〜
嬉しい反面、かなりややこしい事になりそうだと、私桜小路きな子は、頭を抱える。
Liellaの少しザラついた違和感がようやく治った感じがした所に、新たな風が吹き込んでいる。
いや、別にだからと言って支障をきたす訳では無いのだろうけれど、以前、圭太さんに相談と名を打ってカフェでアップルパイとカフェラテをご馳走になった時に、私自身も気づいたと言う程度なのだ。
穏田神社で圭太さんと再開した日から、あの相談の日までは、圭太さんは千砂都先輩と恋仲の関係なのだとめっきり思い込んでいた訳なのだけれど、そうじゃ無いと本人に一蹴されてしまった。
その後に、かのん先輩、千砂都先輩、すみれ先輩の様子が変だと相談を受けた後、私自身目を光らせてみた挙句、あぁ、これは実にややこしい事になっているのだと気がついた。
3人は、圭太さんに好意を抱いていると。
だからと言って、私が何かできる訳では無いので、兎に角状況が悪化しない事を神に祈る事しか出来ないのだけれど、それも少し最近緩和してきた気がしたと思えば、その渦中の中にいるすみれ先輩の前での、新たな夏美ちゃんという存在が現れた。
「きな子、どうしたんですの?」
この後は練習、という事にもいかず、今日は終わりにしようという事になって、穏田神社の隅で2人でストレッチをしている。
ぼーっと考え込んでいたのが気になったのか、悩みの渦中である夏美ちゃんが心配そうに眉を下げている。
「いや、何でも無いっす」
「そう?」
そう言って、ぐっと伸びをすると、夏美ちゃんは再び私の方を見た。
「きな子、ありがとう」
「へ?」
「ここまで引っ張ってくれて。おかげで先輩にちゃんとお礼を言えた」
そう言って笑う。
「夏美ちゃんが、勇気を出したからっす」
夏美ちゃんは、先程とは打って変わって、本当に満ち足りた表情をしている。
そして、さっきの行動。
勢いの良い圭太さんへの抱擁。
しかも、すみれ先輩の前で。
すみれ先輩は案の定動揺していたし、私も思わず頭を抱えたのだけれど。
はぁ、と聞こえない様に心の中で溜息をつくと、
「きな子」
と、夏美ちゃんから呼ぶ声がするので、振り返ると、
「すみれ先輩は、先輩と付き合ってますの?」
「へあッ?!」
予期せぬその言葉に、素っ頓狂な声が思わず出てしまう。
「今なんて?」
「いやだから、先輩はすみれ先輩と付き合ってるのかなって」
思わず聞き返してしまったけど、やはり間違いではなかったらしい。
「さ、さぁ…付き合って無いと思うすけど…」
実はすみれ先輩は圭太さんが好きで、かのん先輩と千砂都先輩も同じだなんて拷問されても口が割れそうに無い。
「だとしたら、距離感が変ですの…。そうなると、その前段階とか…?」
「ど、どうしてそう思うんすか…」
んー、と言いながら首を傾けながら、
「私は昔からこういうのに敏感ですの」
そう言ってみせた。
「な、夏美ちゃんは、それでいいんすか?」
「え?」
思わず聞いてしまった。
だって、さっきまであんなに熱く抱擁していて、憑き物が落ちた様に満ち足りた顔に変わっているのだから。
「それでいいんすか?」
「先輩がすみれ先輩と付き合うのが?ってことですの?」
「というより、圭太さんが他の人と恋仲になるのがってことっす」
「きな子、なんか勘違いしてませんの?」
「へ?」
「私は別に先輩をそういう対象としてみてないですの」
「え、」
「きな子、もしかしてとんだ勘違いしてましたの?」
ケラケラと笑う夏美ちゃん。
すこし、ムッとしたが、私が考えていた最悪の状況は回避できそうだと、内心ホッとする。
「そ、そうすか…」
「好きだなんて烏滸がましいですの」
「へ?」
「好きというより、崇める?に近いですの。あの人は神ですの。神聖なる存在…崇拝する存在…うふふ」
見たこともない、恍惚な表情をする夏美ちゃんを見て、思わず引いてしまう。
想像の斜め上も、ぶっ飛んだ内容のものだった。
「だから、余計に分かりますの。特に彼への視線とか感情とか、敏感ですの」
「なるほど、それで」
「隠してるなら大丈夫ですの、私は超が付くほど口が硬いで有名だから」
「ほ、ほんとかなぁ…」
そう私が睨みを効かせると、少し顔がひくついた。
やっぱり、口が硬いと言うところは信じるのは無しにしよう。
「まぁでもだからと言って、先輩と恋仲になるのが誰でも良いとなると話は別ですの」
「へ?」
「見定め、これは絶対必要ですの。何処の誰かも知らない上っ面だけの雌に先輩は渡せねぇですの」
「何言って…」
「さっきのきな子から見えた若干の焦りからして、すみれ先輩だけではなさそうと見た」
「な、そんなこと!」
「本当に?」
ジリジリと顔を近づけられる。
こそばゆくなって、思わず顔を逸らすのが仇になる。
やっぱり、隠し事なんて私には向いてない。
「やっぱりね。なるほど、そんな事になってますの」
「うぅ、すみません先輩方……」
「なるほど、対象は先輩達ですのね」
「あっ、」
「となると、すみれ先輩は確定で、他にもいるって事ね?」
「ぁぁぁぁ」
「となると、誰だろう」
「知らない…知らないっす」
「そう言えば、さっき公園で私がきな子に先輩のこと聞いた時に、千砂都先輩とかのん先輩の幼馴染って言ってましたの」
「もう、もう勘弁して…」
「そこの2人も怪しい、と言うか、きな子の様子見てる感じ確定っぽいですの。まだ他にもいる可能性が…」
「ユルシテ……ユルシテ……」
「まぁ、きな子から聞いたと言うのは黙っててあげますの」
「知らないふりしててくれる方がありがてぇんすけど」
「先輩達の誰かとなら、先輩と恋仲になっても私的にはOKですの」
「そりゃ、良き事で…」
「それから…」
夏美ちゃんはこちらを見て、不敵に笑うと、話を続けた。
「こう言うのは、さっさとお互い促して、決着つけさせるのが吉ですの。きな子の様子を見るに、痴情で何だかややこしい事になってるんでしょ?」
「そんな事…」
「まぁ見た感じ、そこまでもつれてるって訳でもないけど、お互いに様子見をして伺ってるって感じかな?」
「きな子も、全て把握してる訳ではねえっす。何となく、感じる部分があるってだけで」
「そう言うのは、だいたい正しいですの。火のねぇ所に煙は何とかって言うでしょ?」
「そうすかねぇ…」
「あと、」
夏美ちゃんはそこまで言うと止まって、賽銭箱の付近で談笑しながら作業するすみれ先輩と圭太さんの2人の方を見た。
その視線に気づいたのか、2人がこちらを向いた。
夏美ちゃんは手を振ると、圭太さんは笑い返しくれていた。
「そう言う気持ちは、燻り続けるほど面倒な事になりますの」
「そんなもんすか?」
「面倒くさい事になる前に、決着をつけさせるべきですの」
「きな子は、仲のいい先輩達に軋轢ができるのは嫌っす」
私の様な素人にも優しく教えてくれる、尊敬する先輩達が、ギスギスしてしまうのは嫌だ。
表面上取り繕うと言う様な、そんな関係にもなってほしくない。
先輩達は、私が見るに固い絆で結ばれていると確信できるほどの関係だと自信をもって言える。
何かあったとしても、今のこの、少しザラついた違和感の様なもの、この程度で済んでほしい。
しかし痴情のもつれとなると、関係修復が不可能なものになってしまうのではないかと、危惧している。
私自身、恋愛した事はないけれど、恋というものはそのくらい危険なものを含んでいる気がする。
「だからこそですの」
「え?」
「拗らせすぎて、手遅れになる前に…ですの」
「大丈夫すかね…」
「まあ後は…」
そこまで言うと、また夏美ちゃんは圭太さんとすみれ先輩の方を一瞥する。
「先輩達を信じるしかないですの」
夏美ちゃんも私と同じ気持ちなのだと、その声色を聞いて確信した。
確かに、拗らせて手遅れになる事だけは避けたい。
「私たちにできる事はすべきですの」
「すべき事?」
「気づかせる」
「へ?」
そこまで言うと、ニヤリと微笑んで、
「先輩に、すみれ先輩達から好意が向いている事を気づかせますの」
「そんな事どーやって」
「会議しますの」
「え」
「一年生、緊急会議ですの!」
「ややこしくするのだけは、無しっすよ」
そう言って夏美ちゃんは、携帯を取り出して操作する。
そっとしておくのがいいとも思ったが、確かに拗れて手遅れにるのは避けたいと…、この私たちの行動が、いい方向に向くと居るかどうかも分からない神様に静かにお祈りするしか出来なかった。