僕は頬をグニグニと引っ張られて、我に帰った。
場所は穏田神社。そうだ、今僕はバイトの最中だった。
あの後、どの様にしてここに来て、着替えて労働を始めているのかは、あまり鮮明に覚えていない。
「どーしたのよぼーっとして」
すみれさんは、そう言いながら僕の頬をプニプニと押したり引っ張ったりを繰り返す。
何故こんな状況になっているのかは分からないけど、不思議そうに僕を見ているのを見るに、仕事もせずに上の空という事だったのだろう。
すみれさんの柔らかい手の感触が頬越しに伝わる。
女性的に男を触るのってもう少し躊躇するものでは無いのだろうか。
「おーい大丈夫?」
近いし良い匂いするとか、そんな邪な心を擽ってくるけれど、今はそんな場合では無い。
「大丈夫」
「そう?なら良いけど」
すみれさんは、僕の顔から手を離す。
「ごめんね、ちゃんと仕事するから」
「仕事はしてたわよ。ただ上の空でぼーっとしてたけど」
すみれさんはそう言いながら、境内の掃除をする。
それを見て僕も持っていた箒を動かした。
無心で労働しようと手を動かすけれど、やっぱりさっきの事が頭で反駁している。
ここに来る前のこと。
『私も圭太が好き』
あの、千砂都の言葉が僕の情緒を乱しているからだ。
いや、僕も告白紛いの様な事を言ったけれど、まさかそんな言葉が返ってくるとは思わなかったから。
夢なのか、目が覚めればいつもの日常で、とかそう言うことも考えたけれど、そんな事も無く紛れもなく現実だ。
その後のことはあまり覚えていない。
確か、あの後すぐバイトだからと千砂都と別れた。
なにか、言っていた様な気がするけれど、その出来事の衝撃に脳が焼かれてイマイチ思い出せない。
僕はそんな夢が現実かの出来事に、浮ついた気持ちで今日の仕事を終えた。
〜
「あ」
その声に鼓動が一段階上がる気がした。
千砂都が、穏田神社から出た角に居た。
あの出来事からまだ数時間しか経っていない。
「えっと、一緒に帰ろうと思って」
「あ、うん」
そう言って僕の隣に来ると、ゆっくり歩き出す。
距離がいつもより近い気がする。
ピッタリと僕の肩に付いて、歩いている。
良い匂いする、とかじゃ無くて。
僕は、あれからバイト中にこれからについて考えていた。
夢だか現実だか、とかそんな事は置いて置いて、2人のこれからのことについてだ。
想いが通じ合えば、恋人という関係性になるのが一般的である。
その後、そのスピードは個人差があれど関係性も進んでいくもので。
もちろん、僕と千砂都が恋人という関係になったからには、こう言った時間も増えていくのも必然的なものだろう。
「千砂都」
「なに?」
チラチラと僕を一瞥していた千砂都が、顔を嬉しそうに上げた。
その可愛すぎる反則級の顔に、一瞬意識を失いかけるけれども、何とか堪えて、これからの僕たちの関係について話す。
「僕たち、その…恋人同士だよね」
「うん!」
「でも、きっとこれは周りには隠しておいた方がいいと思うんだ」
「………え」
今日、2人の関係について考えている中で以前に米女さんが言っていた事を思い出したのだ。
このご時世、スクールアイドルの恋愛ネタは一瞬でインターネットで拡散される恐れがあるという事。
千砂都はスクールアイドルだ。
スクールアイドル自体に恋愛禁止だとかそんなルールは無いけれど、応援しているファンにとってはそう言った事を許さないという様な人もいると聞いた。
スクールアイドルは、テレビで紹介されるほどの人気コンテンツで、千砂都たちLiellaは、東京大会で惜しくも、あの去年ラブライブで優勝したサニーパッションに次いでの2位だった、人気鰻登りという状況だ。
そんな中で、僕との関係がネットなんかに拡散されてみた暁には、マイナスの方向に向いてしまう。
それは避けなければならない。
「……どうして」
さっきとは違い、千砂都は色のない目で下を向く。
「千砂都、スクールアイドルだから」
「それがどうしてそんなことになるの?」
「優勝、目指してるんでしょ。皆んなで」
「……」
千砂都は黙る。
その言葉の意味を、きっと理解しているから。
優勝は、Liella皆んなで目指しているもので、僕たちの関係がそれを阻んでしまう事になる可能性だって…ある事を。
「だから、外でも恋人らしい事は…しない方がいいと思う」
いつどこで、千砂都たちのファンが僕たちをみているかは分からない。
それがファンだけならまだ良いとして、悪意を持った人がそれを不特定多数に拡散してしまう事だってある。
スクールアイドルのそう言ったネタについての前例も無いわけじゃないのだから。
「圭太は」
暫く沈黙が続いて、俯いていた千砂都がようやく声を出した。
「それで良いの?」
それで良いのという言葉の、それには何が含まれているのだろう。
きっと、これからの2人の関係のことで、恋人らしい事ができない事についてだろう。
それでも、我慢しておけば良かったと、後悔することにだけはなりたくなかった。
千砂都に、嫌な思いをして欲しくないから。
「うん」
千砂都の肩がピクリと動くのが分かった。
表情は、俯いていて分からない。
そんな中で、2人の帰り道での分かれ道に差し掛かる。
こんな時、家まで送るよとか、そんな事を言えれば良いんだろうけど、どうにもそうな空気では無かった。
その分かれ道で2人佇む。
千砂都は、何も話してくれなくなった。
「えっと…」
そんな空気感に耐えられなくなって、僕は搾りかすの様な声が出る。
「圭太は」
暫くして千砂都がようやく話してくれた。
「────何も分かってないね」
そう言って、家の方に歩いて行ってしまう。
僕は暫く、そこに佇んでいた。
鉛筆で塗りつぶしたような、生気のない目が頭から離れなかった。