しとしとと降る雨粒をダイワスカーレットが見ている。
窓についた雨粒が混ざりあい、きゅうとガラスを伝って流れる姿を見ると、ウマ耳と尻尾がその都度反応を示していた。
「ヤマト~、今日はずっと雨なの」
「天気予報では晴れたり降ったりみたいだな」
両手をガラスにつけて、時折、雨粒を裏側からばしばしと手でたたいている。
暫くの間、窓から外を眺めていたダイワスカーレットが、窓枠からぴょいと飛び降りた。両手を結んで上体を大きく反らして伸びをした。尻尾も合わせて伸びている。
そのまま3秒は上体を反らしていたダイワスカーレットだったが、何かに気づいたようにウマ耳を動かすと、体を屈めて飛ぶようにして走っていった。
その先に座布団を折りたたんで枕にしている山本大和がいた。紙の本を読んでいる。
たっとジャンプすると大和のお腹に飛び乗り、そのまま胸もとまで登り、本の下をダイワスカーレットはくぐり抜けた。
「ねえ、散歩行きましょう」
「行くって、この雨の中をか」
大和は目を窓の外へと向ける。未だ雨はやむ気配がない。
「そうよ。こんな部屋に閉じこもっていたら苔生えちゃうじゃない」
「どこに行くんだ」
「あの神社!」
間髪入れずにダイワスカーレットが行き先を答えた。
行き先を聞いて大和は本を閉じた。適当な場所だったら聞き流す予定だったが予想外の場所を指定されて少し興味がわいていた。
「何で神社なんだ」
「だって、賽銭っていうのすると願い事が叶うんでしょ。アタシが祈った強い奴と競いたいって願い早速かなってたし」
「おまえ、そんなこと祈ってたのか」
胸の上にいるダイワスカーレットを両手で抱え、そのまま畳の上に置くと大和は「晴れたらな」と言ってまた本を開いていた。
はぁとスカーレットがため息をついた。
大和の答えは予想済みだった。それでも、雨の日の昼過ぎは何もやることがない。窓から空を見上げていてもなに一つ満足する結果は得られない。
「つまんない」
ダイワスカーレットは手持ち無沙汰だった。
外を見上げている目がカーテンの模様を追いかけ、そのまま天井の木目をなぞっていく。その視線が本棚の上でふと止まった。
何かある。黒い箱のようなものが置いてある。
「ヤマトあれ何?」と声をかけるも大和からは空返事しか返ってこない。
一度気になると無性に気になってしょうがないダイワスカーレットは、本棚の板に脚をかけて壁の隙間に手を置いて器用に飛び上がり、一つひとつ上の棚へと移っていた。
最後の一つに手をかける。棚の上には厚紙が敷いてあった。そのまま体を持ち上げようと力を込めた時、本棚の厚紙がずるりとダイワスカーレットの力で滑った。
「うひゃあ」
とダイワスカーレットが本棚の上から転げ落ちた。ごとごとと周りの物を巻き込んだ形だ。
ほこりが舞った。
「いたた。けほっ、けほっ」
「お前は猫か。何してんだよ」
大きな音で何事かと跳ね起きた大和が、物まみれになって咽ているウマ娘人形を一目見て呆れている。
「見てないで助けなさいよ。バカ」
「……どうみてもお前のほうがバカだろ。あーあ、こんな散らかしてくれてまぁ」
ダイワスカーレットの頭の上に乗っている物をどかして、大和はしみじみと言った。スカーレットが目的としていた箱も同じく落ちていた。落下の衝撃で蓋が開いている。
中身が飛び出していた。その一つにスカーレットは目を留めた。
「あれ、これって。おっきなバッジね」
バッジを立てかける。少し屈めばダイワスカーレットの全身がすっぽりと収まるほどの大きさだ。裏には3本の竪穴が開いてあり、そこから基盤が見えている。
昔のトレーナーバッジが出てきた。その横には中央トレーナーライセンス証があった。名前の欄に山本大和と刻まれている。発行日は10年前だ。
「ヤマトって中央トレーナーだったの! 以外」
「またえらく懐かしいもの引っ張り出してきたな」
トレーナー証を大和は手に取った。ところどころ黄ばんでいる。有効期限は7年前に切れている。もう中央トレーナーとしての証明書にはなりえない。
ダイワスカーレットが「見せてっ」とせがみ、大和は床の上にゆっくりと置いた。覆いかぶさるようにしてスカーレットがトレーナー証を見ている。余すことなく、食い入るように見ているのはウマ娘人形の本能なのだろうか、と大和はふと思っていた。「いや、ないな」と考えを手で振り払った。
「なんでトレーナー止めたの」
「なんでも。つまらない理由だ」
「聞きたい。教えて」
じっと大和の目をダイワスカーレットは見ていた。大和の視線が何度か虚空を泳いだ。雨の音がやや遠退いている。
観念したかのように胡坐をかいて畳の上に座ると、ひとつ深い溜息を吐いてから大和は続けた。
「もう8年以上前の話さ。ウマ娘人形のレースが新しい競技として確立してちょっと経った頃に、トレーナーとして一旗揚げようと躍起になっていてな」
うんうんとダイワスカーレットが頷いている。ウマ耳が両方とも大和の方に向いている。尻尾がぱたりと音を立てて床をこする。
「なんとか1年かけて中央トレーナーになったけど。それが全盛期だった。中央トレーナーになれたことが俺の最高点だったみたいだった」
「中央トレーナーになれたことが全盛期ってどういう意味?」
「そのまんまだ。中央には俺より強い奴がごろごろいてな。どれだけ工夫しても勝てない時期が続いたんだ。化け物揃い。それが中央だった。俺が一番格下だったんだろうな、きっと」
思い出を語るたびに大和は遠い目をしている。そして大きく肩をすくませると乾いた笑いを浮かべて続けた。
「仕舞いには15才の女の子にレースでコテンコテンにされてな。あれには勝てんと諦めた訳だ。20才だったしタイミングも良かったからな。どうだつまんないだろう」
ダイワスカーレットは2度ほど瞬きをした。尻尾を1度強く振って答えた。
「うん。思った以上につまんなかった」
「おい、人に話させておいて」
「何でアンタは1番目指さないの? コテンコテンにやられたんでしょ? ケチョンケチョンに仕返しなさいよ。それをしない訳がアタシには分からないわ」
ぐっと顔を近づけてダイワスカーレットは大和を見つめている。赤い瞳がゆっくり迫る感覚を大和は覚えた。小さい瞳なのに今日はやけに大きく見える。と大和はやや押されていた。
暫くそのままの状態が続くと、手をパンと叩き合わせ、ダイワスカーレットがにんまりとした表情を浮かべた。
「決めた。アンタをもう一度トレーナーにするわ。アタシが中央で他のウマ娘たちをケチョンケチョンにしてあげる」
「何を勝手に言ってるんだこのウマ娘は。それにお前、俺がトレーナーになっても指示聞かないだろ」
「あったりまえじゃない」
「ハッキリと断言しやがって。……言うこと聞かなかった他のウマ娘たちも、そんな感じだったんかね」
「なにか言った」
「いんや、なんも」
ウマ耳が窓に向いた。雨の音が無い。ダイワスカーレットが視線を向けると、曇の切れ目から晴れ間がのぞいていた。
「雨が上がったわ。行きましょう神社へ」
「わかったわかった」
大和の服を思いっきり引っ張るウマ娘人形に、大和は降参して立ち上がった。財布を引き出しから取り出す。その横に深緑色のトレーナーバッジが置いてあった。
「一応持っていくか」
とバッジをポケットに入れる。
傘を取り出して大和は玄関ドアを開けた。頭の上にはダイワスカーレットの姿がある。
雨上がりの神社の境内はひんやりとした空気が漂っていた。石畳と雑草が湿り気を帯びている。
苔むす小さな社にたどり着くと、賽銭箱の縁にダイワスカーレットが立ち、中を覗き見ている。
「誰もいないわね。今日はこの神社の神様ってのも散歩中なのかしら」
「いや、居たとしても賽銭箱にはいないだろう」
「でもここにいないとお金入れても分からないじゃない。今日お賽銭してもお願い叶えてくれないわ」
「たぶん大丈夫じゃないか。神様だし、聞こえるんだろう」
へぇと最後にもうひと覗きをすると、ダイワスカーレットは両手を頭の上まで持ってきて5円玉を催促した。
傘を賽銭箱の横に立てかけて財布から5円玉を取り出すと、そのままダイワスカーレットの両手にそっと置いた。
ダイワスカーレットが5円玉を抱え、狙いをつけて手を離した。ウマ娘の小さな手から5円玉が落ちる。底に着いたところで、甲高い音が1度鳴った。
その音とほぼ同時に、神社の裏手から人の声があった。
「犯人は現場に戻ってくる。ってボクの推理。当たったみたいだね」
パシャリと水たまりを踏みぬいた西ノ宮ていがいた。頭まですっぽりと黄色い雨合羽を羽織っている。ツバに手をかけて後ろに取ると、頭の上に残っていた雨水が数滴、足元に落ちるや水たまりに波紋を描いた。
ダイワスカーレットと大和は無言で見ていた。時折、ウマ娘の耳がピクリと動いているだけだ。
西ノ宮ていが片腕を伸ばた。人差し指を立ててはっきりと大和を示している。
「この名探偵てい様から逃れることは不可能なのだ。もう悪いことはさせない。さあ今日こそさくっと観念しなよ。おじさん」
鼻息を荒くして、ていが言った。
大和は隣に立っているウマ娘人形に念で内緒話を展開している。
「『なあスカーレット。現場っていうならおもちゃ屋のカフェじゃないか。いや俺何も悪いことしていないけど』」
「『女の子泣かせたんだからここも十分現場になるわよ』」
「『いや泣かせ……たかなぁ。あれは』」
腕を組んで大和は頭をひねった。前回の去り際を思い出す。確かにていはその目を少しウルウルとさせ、捲くし立てるほどの悔しさがあったと覚えている。しかし、大和が泣かせた部類に入るのだろうか。もう一度頭をひねるが答えは見つからなかった。
ていが歩いてくる。ポニーテールが左右に振れている。あと数歩の距離で立ち止まると、大和の顔を覗くように見上げている。手のひらを上にむけて差し出した。
大和は腕組みを解いた。気付いたのだ。この少女が求めていることに。理解を示した大和はポケットをまさぐった。
「ごめんなこのバッジそのまま持ってて。あの時貸してくれてありがとな、返すよ」
「あ、どういたしまして……って、ちがーう!?」
大和からバッジを受け取る寸前、手を握りしめて地面を足で強くたたいていた。受け取りを拒否している。
「ボクの手を取ってもう悪いことしません、って約束するの! バッジは……後で返してもらうけど、今はそうじゃないよ」
「いや先にバッジ受け取ってほしいなとおにーさん思うわけで。あと悪いことしていないのに約束させられるのはちょーっと理不尽じゃないかなと思うわけで」
「やっぱり、まだ悪いことをする気なんだ。そうはさせないよ」
「そしてやっぱり人の話を聞かない子なんだね、君は」
西ノ宮ていが踵を返す。そのまま歩き水たまりを超えた先で立ち止まる。
左腕にはめた腕輪のボタンを押した。光が満ちる。水たまりが上書きされて今度はスタジアムが投影された。社を巻き込んでぐるりと一周する芝のコース場が現れた
「おっ、今日はレースなんだな」
「そうだよ。このコースを約2周する芝の3600mで勝負だ」
「『面白いじゃない。受けなさいよ』」
すでにアクションフィールドの特殊光内ということでダイワスカーレットが人目を気にせず動き出した。西ノ宮てい側でもアッテナが音を立てずに芝に降り立っていた。
大和は手に持っていたバッジを襟元に着ける。ていも既に胸もとのポケットにバッジを着けている。
「しかし、えらく大きく取ったな。もう半分でも良かったんじゃないか」
「ふっふっふ。おじさんはウマ娘レースの醍醐味を分かってないね。走るのはウマ娘たちだけじゃない。今回はボク達も一緒に走るんだ!」
大和は雷に打たれたように驚いた。
ウマ娘人形の身長に合わせた比率がレースの走る距離になる。大体人とウマ娘人形が約1/10の差がある。今度のレースは3600m。これはウマ娘人形として見たときの距離であり、つまり大和が走る距離は360mとなる。速度はだいたいジョギング程度あればウマ娘人形の走りについていける。しかし、ウマ娘に繊細な思念を送りながら自身も走ることはかなり精神力をすり減らす。見た目の距離の数倍・十数倍は疲労がたまる作業だ。
そして何より運動不足の身には特に辛い。
「『いや、アンタは何もしなくていいからね』」
「『そうはいってもだ。トレーナーが走るなんて昔じゃ危なすぎてありえなかった。ウマ娘レースもスポーツの時代になってしまったのか。おにーさん悲しいぜ』」
「おじさんも知っていると思うけど、バッジとウマ娘の距離が離れると指示を受けずに勝手に走っちゃうよ。だからある程度の距離を保たないと真価を発揮できないんだ。おじさんも走りながらなら悪さもやり難いでしょ」
「……操作コンソールが欲しいぜ」
しみじみとため息を大和はついた。
更に西ノ宮ていの腕輪が光った。幻像の発馬機近くの地面から影がこんもりと膨らみを見せた。その数8つ。徐々にウマ娘人形の姿へと形を変えていく。全身が真っ黒だ。幻影のウマ娘が8体。コース上に姿を現した。
「それともう一つあった。今回はこの腕輪に記録されている幻影ウマ娘が8体。そしておじさんのウマ娘とボクのアッテナの合計10人でレースをするよ。どちらか1位になったほうが勝ち、それ以外は負けのルールになるよ。幻影に負けてもアウト。おじさんが負けたら潔く正義の軍門に下ること。いいね」
「お嬢ちゃんが負けたら?」
「だからボクはお嬢ちゃんじゃない。ていだっていってるでしょ。あとボクは負けないからそんな約束いらないんだ」
「理不尽な」
しぶしぶと大和は位置についた。幻像のコース上が内側にあり、その間に西ノ宮ていの姿がある。一番外側に大和がいる形だ。
走る事は何年ぶりだろうと大和は考えた。20才過ぎてから走った記憶がない。内側ではていが準備体操の代わりにぴょんぴょんと跳ねている。もしかしたら西ノ宮ていの年齢にはもう走っていなかったかもしれない。
ウマ娘たちがゲートに入っていく。9番アッテナ、10番がダイワスカーレットだ。ゼッケンは着けていない。その番号は立体幻像のシステムである腕輪がすでに記録している。
風が吹く。横からふっと石鹸のにおいが香った。ていが振り向いた。
「はじめるよ。いいね。今日こそは悪ささせないんだから」
真剣に、上目遣いでていが言った。大和は静かにうなずいた。
ゲートが開いた。一斉にウマ娘人形がスタートした。西ノ宮ていも駆け出し、やや遅れて大和が走り出した。