歳末の鎮守府で、両片思いの翔鶴と提督がドタバタするお話。


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提督曰く

 

 

 

 

 諸君、いかがお過ごしであろうか。

 

 世間では年賀状だ紅白だと右へ左へ毎度のごとく大騒ぎであるが、私はと言えばだらりと机に寝そべってオオサンショウウオのように平べったくなっている。

 

 

 特にやることがないためである。

 

 

 だいたい私は年末というものがこの世で二番目に嫌いである(もちろん一番は年始である)。師走と書いて字のごとく、世間一般の人間は何かしら忙殺されて走り回っていなければ気がすまないという非常に厄介な時期である。この慌ただしい空気が毎年のごとく私の精神を逆撫でし、思うさま逆撫でしたかと思えば今度は何事もなかったかのように過ぎ去ってゆくのである。

 

「司令官?」

 

 世間が忙しくうごうごしている一方で私は年賀状を出す相手もいなければ特に誰と過ごすといった予定もなく、本当に暇である。暇なのは一向に構わないのだが、あまりにやることがないと次第に何の根拠もない罪悪感がじわじわと湧き上がってくる。皆さんあんなに頑張ってらっしゃるのに私はこんな特別天然記念物のものまねなどに興じていていいものなのだろうか。しかし私とて好きで両生類を演じているわけではない。

 

「ねえあんた、聞いてるの?」

 

 慌ただしいのは世間はもちろん、この鎮守府においても同じである。艦娘たちもまた蕎麦だのみかんだのと騒いで昼夜静まることを知らない。彼女らは年末になると食欲が当社比二倍になることで有名である。艦娘だけではない。例年この時期になると敵襲がぱたりと止むので、海の底各位におかれましても年末の忙しさにてんやわんやと見える。平べったくなっているのは全生物をおいて私のみというわけだ。

 

「有給申請、ここ置いとくわよ」

 

 

 だが待て、しばし。

 

 

 そもそも年を越すから何だというのだろうか。こうして寝そべっているだけでも年は越せてしまうのだから、我々が年を越すというよりはむしろ年のほうが我々を越していっているのではないかという感さえ深い。だいたい年を越すといっても、実質的には昨日と同じようにまたひょいと日付変更線を飛び越えるだけではないか(飛び越えないけど)。年越し蕎麦は食えば分かるがおおむね普通の蕎麦である。にしんを入れて誤魔化そうという腹であろうがそうはいかない。初日の出もよく見たらただの日の出である。初日の出だと言われてから見なければ何のこっちゃ分からない。映像検証をしてみれば大晦日のそれと完全に一致することであろう。

 

「じゃあ帰るわよ、おつかれ」

 

 こんな越す越さないなどというややこしい議論(まあ越さないのは理論上不可能であるが)が持ち上がっているのは、思うに誰かが勝手に年という区切りの線を引いてしまったからである。線がなければ何も越さずに済む。暇に任せて調べてみればこの区切りはイエス・キリストの生誕年を始点として数えられているようである。私は彼とは個人的な親交は特にないが、万が一道端でばったりエンカウントなどということがあれば憎まれ口の一つも叩いておきたいところである。いや、憎むべきは彼にあらず、紀年法の考案者のほうなのかもしれないが、しかしこうなってくるときりがない。そもそも私は悪者探しがしたいわけではない。私はただ、何事もなく、いつものように平和に過ごしたいだけなのだ。

 

 

 

 

 

 

「翔鶴姉、ずっとスマホ睨んでるけどどうしたの?」

 

 さりげなく画面をのぞいてみると、それはメールの入力画面みたいだった。何かの利用規約かってくらいびっしり文字で埋まってるけど、『明日』『ご一緒に』の文字が見えたので私はだいたい理解した。ふむふむ、なるほどね。明日っていうのはつまり大晦日のことだ。

 

「ふふん、貸してみなよ翔鶴姉」

 

「えっ、ちょっと瑞鶴!?」

 

 私はスマホをひょいっと取り上げて、本格的に画面をのぞき込んでみた。

 

「うわっ、メールで敬具なんかつけてる人初めて見た……っていうか敬具ってなに?まあいっか、この季節の挨拶もいらないし、この辺は十行ほどカットして……」

 

「ね、ねえ瑞鶴?」

 

 姉がオロオロしてるけど気にしない。

 

 パパッと添削したら、画面にびっしりだった本文はたったの二行にまとまってしまった。メールなんて実際こんなものでいいんだよね。

 

「そーしん、っと」

 

「えっちょっ……………えええええっ!?」

 

スマホを返すと「ああ、もうおしまいだわ………」と部屋の隅へ行ってうずくまる翔鶴姉。

 

「大丈夫だって。だいたい翔鶴姉は奥手すぎて見てられないのよ」

 

「だって、提督にも色々と予定があるかもしれないし、もし迷惑に思われたりしたら………」

 

「そんなわけないって」

 

 翔鶴姉はぷるぷると震えながら立ち上がって胃薬を探しはじめた。うちの姉は色々デリケートなのだ。

 

 勢いでメール送信しちゃったけど、まあ当たって砕けろって言葉もあるし、それに全然勝算がないってわけじゃない。そう、私は知っているのだ────年末、提督は意外と暇してるってことを。

 

 

 

◆ ◆

 

 

 

 夜な夜なこの鎮守府に幻の居酒屋が出現することは、密かに有名である。それは神出鬼没であり、現れる場所は敷地のはずれ、あるいは庁舎屋上、はたまた水を抜いたドックの底であるとも報告されているが、真偽のほどは定かでない。ただひとつ判明しているのは、いざ見つけ出さんとして漫然と歩き回ろうとも、発見は絶対に不可能であるということのみである。

 

 ───そう、絶対に。

 

 でもたとえば、糸口みたいなものは見つけられるかもしれない。ほのかにもれる暖かい灯り。グラスの触れ合う音。ただよい出す出汁の香り。貴君が何か壁にぶつかった時、あるいは何かに打ちのめされた時、それは姿を現すことであろう。人はその店をこう呼ぶ────『居酒屋 鳳翔』と。

 

 

 

◆ ◆

 

 

 

『暇なら助けに来なさいよ』

 

「嫌です」

 

『どうしても?』

 

「どうしてもです」

 

『いいわ、もうわかった、今度貴方の家行ってポストに紙粘土を───』

 

 耐えかねた私はそこでぶつりと電話を切り、力なく腕を下ろした。非常に疲れた。一生分の苦労を前借りした思いである。

 

 

 電話は私の候補生時代の恩師からであった。聞けばアパートの床に無許可で掘りごたつを竣工させて大家と直下の部屋の住人から大目玉との話である。『横須賀の女豹』の勇名を馳せた教官時代の悪鬼羅刹っぷりはもはや見る影もない。アパート側もうっかり彼女を住まわせてしまったのが運の尽きであろう。南無。

 

 通話を切る寸前に何か不穏な言葉が聞こえたが、今となってはもはや打つ手はない。かけ直したところで無駄であるし、そもそも私にそんな気力は残っていない。年が明けたら私の郵便受けには年賀状の代わりにピンク色の紙粘土がびっちりと詰められてあるかもしれないが、それはそれで趣があってよろしい。だいたい私はここ数年家の郵便受けを開けた覚えがないので、中身がどうなっていることやら私にもちょっと分からない。何にせよ、数年分のチラシやらビラやらではち切れそうになってあわや一触即発という状態であることは想像に難くない。今更粘土の一キロや二キロ追加されたところで痛くも痒くもあるまい。

 

 また迷惑電話がかかってくると困るので、私は部屋の固定電話の線を抜き、携帯の電源を落とした。

 

 外の空気が吸いたくなった。年末年始の落ち着かない空気はあまり好きではないが、しかし部屋に引きこもって空気中の二酸化炭素濃度を上げる作業に黙々と殉ずるよりは外へ出歩いた方が幾倍かましである。大晦日を明日に控え軽く浮き足立つ鎮守府内を散歩してみるのも悪くはないだろう。ついでに小腹を満たして来るのも良いかもしれない。どうせ食うのであれば熱いおでんが食べたい。

 

 いざ間宮、といった心意気で廊下を闊歩していると青葉に出くわした。マスクにサングラス着用の上、メモ帳片手に熱心にうろうろしており、自分の部下と知らなければ即刻通報ものである。おおかた今年最後の号の一面のネタにすべく、誰かしらの痴態を求め嗅ぎ回っているのであろう。いつも通りならICレコーダーの類もどこかに隠し持っているはずだ。

 

「年末年始くらいは休刊にしたらどうだい?」

 

「そうは問屋がおろしませんよ、こういう時こそ面白いネタが転がっているものですからね」

 

 こんなことを言っているが、彼女は去年のクリスマスに私がおっ○いパブへ行っているという罪深いフェイクニュースを鎮守府中にばらまいて回った張本人である。私はその時ちょうど出張へ出ていたため、その噂は妙な説得力を帯び、私が帰ってきた頃には尾ひれに尾ひれがついて何やら訳の分からない一大スペクタクルと化していた。それからの一週間あまりは鎮火活動に費やされたが、年越しどころでなかったことは言うまでもない。あの時は除夜の鐘の音が地獄の釜の底を叩く音に聞こえたものである。

 

「報道倫理に触れる真似だけはよしてくれよ」

 

「アイサー!」

 

 全く信用ならない奴である。

 

 青葉と別れたその足で、私は工廠へ向かった。工廠には工作艦という名の相談窓口が常駐しているので、暇つぶしにはうってつけである。工廠内を眺めると、聞きしに違わず何かの冗談のような散らかりようであり、私はあれこれの装置類の中から明石を見つけ出すのに苦労した。

 

「いつからここは相談所になったんですか」

 

 明石はゴーグルを持ち上げ、いささか不服そうに言った。

 

「まあそう言わずに」

 

「だいたい叢雲さんはどうしたんですか?」

 

 叢雲は私の秘書である。

 

「知らないうちに帰ってしまったらしい。机に有給申請書が置いてあった」

 

「はあなるほど」

 

 年末年始は問答無用で休みなのに律儀なことである。私はといえば本庁舎に寝泊まりするのがデフォルトになってしまった社畜の模範とも言える存在であり、もはや無人の自宅の家賃を支払い続けるだけの慈善事業者と化している。

 

「でもまあ、退屈してたのは否定できませんけどね。この時期暇だし」

 

 明石が仕事をせずに済むのは他ならぬ歳末という名の不文休戦協定のためであるが、仕事が無いなら無いで不満な様子である。たしかに彼女は仕事が趣味とでも言うべきところがあるし、むしろ趣味を仕事に持ち込みはじめて終いには工廠を半私物化してしまっているのが現状である。ワーカホリックというよりは単に玩具を取り上げられて手持ち無沙汰といった風である。それに、彼女は彼女で年末年始のあれこれにはさして興味がないらしい。

 

「『年のほうが私たちを越していく』───あっはっは、なかなか言い得て妙ですね」

 

 明石は腹を抱えて笑い、やがて落ち着いてから言った。

 

「でもね、提督、一年の区切りって実は結構大事だと思いますよ。年が明けることを口実に私たちは習慣的に目標を立てることができますし、一応自分をリセット『した気に』なれます」

 

「そういうものかな」

 

「提督はもっと積極的に催し事に参加したほうがいいですね」と明石は笑う。「私が言うのもあれですけど」

 

「催し事?」

 

「ええ」明石はうなずいた。「いつも通り平坦に過ごすのも悪くはないですけどね。みんなでとは言いません、誰かと二人でっていうのでもいいんです。提督と過ごしたいって子は意外にいるもんです」

 

「それは……」

 

───それは誰のことを言ってるんだ?

 

 私は言いかけてやめた。

 

「ちなみに私じゃないですよ、分かってるとは思いますけど」

 

「分かってたよ」と私は慌てて言った。しかし困った、皆目見当もつかない。

 例えば、と私は考える。例えばそれが翔鶴であったらどんなにいいだろうか。翔鶴は私が絶賛片想い継続中の正規空母である。白髪の乙女という言葉が実によく似合い、その立ち姿は、五人中三人は鶴と見間違え、二人は鶴と納得する。穏やかに見えて負けん気が強い。極度の不幸体質であり、新年の御籤で十年連続大凶を引き続けていると聞いた時は「翔鶴、君の道をひた走れ」と涙したものである。

 夏祭りの折に彼女のメールアドレスをなんとか手に入れたものの、結局まだ一度もやり取りせずという有り様である。

 

「まあそれが誰だかは近いうちに分かります、きっと」

 

「………………」

 

やはり心当たりはない。ふう、と息をついて私は回転椅子から立ち上がった。

 

「え、もう行っちゃうんですか」

 

「まあね。ちょっと考えたいことができた。暇つぶしに付き合ってくれてありがとう」

 

「いえいえ、こちらこそ」

 

 ついでに財布を執務室に置いてきたのも思い出した。私が工廠の厚い鉄扉に手をかけた時、明石は思い出したように私を呼び止めた。

 

「ああ、そうだ、暇な人を見つけたらここへ連れてきてください。話し相手がいないとやってられませんから」

 

「ぜひそうするよ」

 

 そうして私たちは別れた。

 

 

 

 

 

 

 今年も残すところあと一日、いかがお過ごしでしょうか。皆様におかれましてはますますご健勝のことと存じます。私ですか?………私はというと、しばらく胃薬が手放せなくなりそうです。ええ、例のメールのことです。

 

 メールを(瑞鶴がなかば強引に)送信してからかれこれ数時間が経過しました。強引にとはいっても、メール自体はもとより送信する予定でしたし、結果的に予定より少し早まっただけでしたから、それは構わないのです。文面もあとで確認しましたが、致命的に失礼なところは見当たりませんでした。問題なのは、お返事を待つ間の身の振り方………とでも言いましょうか。とにかくいつ返ってくるのか、そもそも返事は来るのか───不安のあまり何も手につかないのです。

 

 ふう、と私はため息をついてみます。

 

 やはり出しゃばりすぎたかもしれない、と私は思い始めていました。お察しのことと思いますが、メールの内容はずばり明日、大晦日についてのことです。いやしくも私翔鶴は提督に、「年越しの時間をご一緒できたら云々」などという申し出をしてしまったのです。

 

 考えれば考えるほどそれは分不相応なものごとに思えてきました。なにしろ提督とはあのお祭りの日以来ほとんど話せずにいるのです。彼のメールアドレスは連絡先リストの隅っこで温存され続けて幾星霜、山鳥の巣の卵の如くほかほかになってしまって最早そろそろ何か生まれてしまうのではないかといった趣です。

 

 でも、と私は思います。

 

 数時間前、彼に初メールを書こうとした私の覚悟はむろん生半可なものではありませんでした。それだけこのイベントにかけていたといってもいいでしょう。私は夏以来何の発展もないこの状況を何とかして打破しなければなりませんでした。多少出しゃばってしまうくらいのことはなんとか許して頂きたいものです。だいたい、想い人と特別な時間を過ごしたいと思うことはそんなにいけないことでしょうか?

 

 なんにせよ、来るかも分からない返事を待つ間、私は何も喉を通らず、寝ることもままならず、さながら生き地獄といった有り様です。大規模作戦の前でさえこうはなりません。これが恋愛の洗礼、通過儀礼というものなのでしょうか?世の歴戦の乙女たちはみんな通る道なのでしょうか?私はそろそろ胃に穴があいてしまいそうです。ああ、もうみんな恋愛なんかやめてしまえばいいのに。

 

 

 

 

 

 

「久しぶりね」

 

 財布を取りに執務室へ戻ると私の椅子の上で女性がひとりふんぞり返っていた。

 

「………」

 

 私は直立のまま言葉を失った。人間本当に驚いた時はこんなものである。

 女性はふんぞり返ったまま続けた。

 

「あら、感動のあまり言葉も出ないかしら?無理もないわね、だってもうあれから───」

 

「なぜここにいるんです、先生」

 

私はようやく言葉を絞り出すことに成功した。

 

「再会を喜んではくれないのね?」

 

「ええ、僕も喜びたいのはやまやまなんですが、ちょっと情報量が多すぎて処理しきれないんです」

 

 短い散歩から戻るとそこにはどういうわけか先程まで電話の向こうにいたはずの先生の姿があり、そしてさらに彼女はあろうことか私の椅子を不法に占拠していた。

 

「あれから何度かかけ直したんだけど………なるほどねえ、これは流石の私もちょっと傷つくわ」先生は目ざとく見つけたであろう電話線の端子を指先でくるくると振り回して言った。「教えたはずよ、女と火薬は扱いを間違えるなってね」

 

「相変わらずお綺麗ですね、先生」私はできるだけ感情をこめて言った。

 

「上手いお世辞の言い方も教えておくべきだったかしら」先生は微笑んだ。「カードを切る時はタイミングをよく考えることね」

 

 私は深くため息をついた。「それで、どうしたんです。何か用があるんでしょう」

 

「単刀直入に言うと、匿ってほしいのよ」

 

「匿う?」私は首を傾げた。

 

「そう」先生は肯いた。「私を匿ってほしいの」

 

 先生がアパートの大家さんを相手に篭城戦を構えていたことは読者諸賢もすでに知るところであろう。しかし(意外なことに)彼女はあれから程なくして、旗色悪しと見るや窓から飛び降りてここまで逃亡してきたらしい。ためらいなく二階から飛び降りる豪胆さはやはり女豹の名に違わぬものであるが、情けないといえば情けない。鬼教官の看板はとうの昔に畳んでしまったと見える。

 

「あのね、大家さんっていうのは基本的に私より立場が上なのよ」

 

「そりゃそうですね」

 

 なんでも、これ以上怒らせると家賃を五割増しにされるらしい。権力の上下関係を理解しているのは結構なことであるが、それならばなぜ二階に住んでいるにも関わらず掘りごたつを竣工させたのかと私は問いたい。

 

 まあしかし腐っても恩師である。こんな人が私の恩師であるとはちょっと信じたくない節もあるが、お望みとあらば少しくらいならば匿って差し上げるというのが筋というものだ。まあほぼ完全に彼女の自業自得という感が濃厚であるが、おそらくここくらいしか逃げ込む場所の心当たりがなかったのだろうし、師走の寒空の下にいい歳した女性を一人放り出すほど私も鬼畜ではない。というか、放り出そうとすれば逆に私が放り出されそうである。

 

「まあ構いませんよ。それで、いつまで匿えばいいんです?」

 

「ざっと一週間」

 

聞くなり私は後ろのドアを開け、恭しく頭を下げた。

 

「お引き取り願います」

 

「ねえ待って、一生のお願い!私にはあなたしかいないのよ!」

 

「うわっ」

 

先生はいつの間にやら私の足元まで這いずって来ていた。さながらB級ゾンビ映画のごとき鬼気迫る表情である。

 

「そう言われても困ります!あと裾を引っ張らないでください」

 

「イエスと言うまで離さないわ」

 

「しかしですね……くっ」

 

 すっかり堕落したとはいえあのマウンテンゴリラのように強靭な握力だけは健在であり、服の裾から無理やり剥がそうとしてもまるで歯が立たない。この握力でどれだけの罪なき士官候補生の頭蓋を粉末状にしてきたかわからない。というかわかりたくもない。足首に食いこんだ彼女の指を一本一本はがしてゆくも、外したそばから元通りになっていくので埒があかない。

 

 困り果てた私はしばらく天井を眺めて考えていた。するとふと冴えた策が私の脳天に舞い降りてきた。

 

「先生、ちょっとついてきてもらえますか」

 

 

 

 

 

 

 翔鶴です。相変わらずブルーな精神状態から抜け出せずにいる私は、外の空気を吸いに少し出歩いてみることにしました。

 

 年末年始といえば世間中の人々がこれでもかと忙しく走り回り、鎮守府内でも青葉新聞社から瑞雲教総本山に至るまであらゆる組織がうごうごとうごめいて落ち着くことを知りません。この地に足つかぬような空気感が少しだけ得意ではない私ですが、しかし一方でこういう時期にはこういう時期にしかない楽しみがあるということもしかと心得ております。特に年始はイベント尽くし。お年玉はそろそろ渡す側に回ってしまいそうですが、まだまだ年越し蕎麦やおせち料理、甘酒など様々あります。なんだか食べてばっかりですね。

 頭の中で年末年始の味覚オンパレードをぐるぐるさせていると、廊下のつきあたりに人影があることに気づきました。そしてそれは私をひどく同様させました。

 

「ねえ、どこへ行くっていうのよ」

 

「黙って着いてきてください。あと離れて」

 

 ────それは。

 

 それは提督と、提督に腕を絡ませた見知らぬ女性だったからです。

 

 

 

 

 

 

「先生、こちら明石さん」

 

「はじめまして」先生が会釈する。

 

「明石、こちら僕の学校時代の恩師」

 

「はじめまして」明石が会釈する。

 

「じゃあそういうことで」

 

 私は踵を返した。

 

「え、ちょま」

 

 明石が何か言い終わる前に、私は工廠の扉を閉ざした。

 

 ひとまずこれで一件落着である。需要と供給の一致というのは大変すばらしい事である。人間いい仕事をすると腹が減るもので、例に漏れず私の腹の虫も不満げに間延びした鳴き声を発した。そういえば間宮である。しかし腕時計を見ると、どたばたしているうちにどうやら間宮の営業は終了してしまったようである。

 

 工廠を出た私はあてもなく港を歩くことに決めた。年末の港湾部と聞けばいかにも寒々しい趣があるが、実は海辺は内陸部に比較しても寒暖差が小さいことはあまり知られていない。特にこの日没付近の時間帯はわりあい快適に過ごすことができるのだ。

 沖の方を何気なく眺めると、予想に漏れず黒々とした海が波打ちながらどこまでものっぺりと広がっていた。しかし次の瞬間私は目を疑う。

 

 

 海の真ん中に、光が浮かんでいる。

 

 

 敵襲かと思ったがそんなはずはない。深海は深海で年末の掃除やら片付けやらに追われておおわらわのはずである。だいたい、よく見れば探照灯のようにでたらめに明るいというわけでもなく、それは使い古された白熱電球か、はたまた妙齢を迎えたはるか彼方の恒星のごとく弱々しく明滅している。

 一体何なのか思考をめぐらしているうちに、それはふと消えてしまった。突然のことであった。

 

「なんだったんだ……?」

 

 ひとりごとも自分の声のように響かず、やがて海に吸い込まれていくようである。おそらく私も昨日までの年末調整やら片付けやらの激務で疲労が蓄積していたのであろう。あるいは釣り人が私船でも出していたのに違いあるまい。そう結論づけた私は振り向き、また歩き始めようとした。しかしそれは叶わなかった。

 

 

 そこには突如として、暖かい光を放つ古びた平屋が鎮座ましましていたからである。

 

 

 

 

 

 

 提督へのアプローチに腐心し七転八倒という日々を送ってきた私ですが、すっかりその手のことを考えることを失念しておりました。ええ、つまり、提督にそういった関係の女性がおありなのか、ということです。

 それは見たところとてもお若く美しい方でした。ご婚約があったというお話は耳にしたことがありませんから、恋仲ということになるのでしょうか。確かにお付き合いされている方が鎮守府外にいても、少しもおかしなことはありません。

 

 ああ、嫌だ。

 

 そんな確証はどこにもないというのに、私はたちの悪い(そしてきりのない)妄想にすっかりとらわれてしまっていました。私はふらふらと力なく、あてもなく歩き始めました。瑞鶴に無理やりメールを送信される形にはなったものの、私はやはりどこか期待してしまっていたのです。それがこの有り様です。瑞鶴にどんな顔をして会えばよいと言うのでしょう。

 そして嫌な予感というものは古来的中するものです。しばらくとぼとぼと歩いていると、その瑞鶴が見えました。

 

「あれ、翔鶴姉?」

 

 

 

 

 

 

 それは噂に聞く居酒屋鳳翔その店であった。

 平屋の引き戸ががらがらと音を立てて開いた。建て付けはあまり良くない様子である。暖簾をくぐって顔を見せたのはほやほやにこやかな鳳翔であった。

 

「あら、提督ではありませんか」

 

 彼女は辺りを見回して言った。

 

「おひとりですか?」

 

「あ、ああ」

 

 私は辛うじてそれに答えた。鳳翔は「おかしいわねえ」などとぶつぶつ呟いている。やがて鳳翔は顔を上げたかと思うと、ぱん、と景気よく手を叩いた。

 

「申し訳ありませんが、今提督を店にお入れするわけにはいきません」

 

「どういうことだい?」

 

「今それを申し上げる訳にはいきません。とにかく────」

 

鳳翔は出かかっていた看板をそそくさとしまいながら言った。

 

「───とにかく提督にはやるべきことがあるはずです。いいですか?好機を掴むんです。ちょっと詳しくは言えませんが頑張ってください」

 

「え、ちょ、待っ」

 

 それだけ言うと鳳翔はにやにやしながら平屋の中へ戻ってしまった。そしてまったく奇妙なことに、私がまばたきをすると同時にその居酒屋はたちまちふっと消え去ってしまった。私は狐にでもつままれたような気がした。

 

「一体何が起こっているというんだ」

 

 むむむと考えてみるが一向に解決しないので、とりあえず私はその場を離れて歩き始めた。鎮守府ではしばしばこういった奇想天外が起こるものである。

 

 庁舎内へ戻ると、行き止まりに出会った。見慣れない行き止まりであったため、父(存命)の教えに従いよく観察してみると、それは実におびただしい数の瑞雲の集合体によって廊下が塞がれている現場であった。

 

「提督じゃないか」どこからともなく日向が現れて言った。「年末に出歩くなんて珍しい」

 

「これは君の仕業か?」

 

「仕業とは人聞きが悪いな」と日向は首を振る。「瑞雲教のしきたりを知らないのか?」

 

 日向によると瑞雲教の教えはこうであるらしい。

 

  1. 飛ぶものは即ち瑞雲であり、逆もまた然り

  2. 一日三度、瑞雲の方角に向かい礼拝

  3. 瑞雲を信じる者は必ず救われる

  4. 瑞雲こそが

 

 そこで聞くのを止めた。色々とつっこみどころが満載である。瑞雲の方角って何?

 

「そして年の瀬にはこうしてありったけの瑞雲を運び出し、ねぶた祭りの要領で表を練り歩くわけだ」

 

「ねぶた祭りってそんな祭りだっけ……」

 

「信仰の自由にケチをつけるつもりか。異教徒として弾圧するぞ」

 

 日向がそう言うと瑞雲たちが一斉にこちらを向いた。言っていることがテンポ良く矛盾している。私は追い詰められた犯人のように両手を上げた。

 

「待ってくれ、そんなつもりはないよ。ただ廊下が塞がるのは困るんだ」

 

「ああ確かに、それはすまない。今すぐに─────」

 

 日向が言い終わるが早いか、今度は何やら聞き覚えのある叫び声が聞こえてきた。この年の瀬ともあろう時にいい大人が出していい大声ではない。よく目をこらすと、それはありったけの艦載機たちを発艦させながら全速で接近してくる瑞鶴であった。

 

「全機爆装!標的、前方の提督さん!!全力でやっちゃって!!!!」

 

 物騒なことを口走っているので私は一応身構えた。瑞鶴にここまでされるような恨みを買った覚えはない。

 

「戦か?」

 

「どうやらそうらしいね」

 

「手を貸してやろうか」

 

「いいのか?」

 

「瑞雲の制空力を舐められては困る」日向はにやりと笑った。「私が食い止めておくからその間に逃げろ」

 

 そうこうしているうちに瑞鶴がみるみる近づいて来ている。

 

「絶対に許さないんだから!!翔鶴姉にあんな顔させるなんて!!!」

 

「いったい何の話だ!」

 

「っ!?とぼけたって無駄なんだからね!!」

 

「もう行け」と日向が言った。私はうなずき走り出した。

 

「すまない、この恩は必ず返す!」

 

「では瑞雲教総本山にひと部屋都合してくれ」

 

「か、考えておこう!」

 

 走りながら私は考えた。瑞鶴は翔鶴の名を叫んで私に爆撃を差し向けた。ここで一体なぜ翔鶴の名が出てくるというのか。しかしいくら考えても一向に答えが出ることは無かった。翔鶴をどうこうするどころか、ここ数ヶ月においては、業務以外で会話をすることすら絶えて無かったからである。

 

 ひた走り、やがて私がたどり着いたのは本庁舎屋上であった。

 

 

 

 

 

 

 瑞鶴は私の話を聞くなり、なりふり構わず上越新幹線のように走り出してそのままどこかへ行ってしまいました。もしかして提督のところへ?もし今伝えたあれやこれやを瑞鶴が提督にすっかり話してしまったとしたら?

 ああ、追いかけた方が良かったかも知れません。でもそうすればきっと提督に会うことになります。どんな顔で彼に会えばよいのか、私にはまったく見当もつきません。

 

 くよくよしていても仕方がありません。私はまたずんずんと歩き始めることに決めました。もう良い時間ですから、間宮さんは店じまいをしてしまったことでしょう。あるいは食堂へ向かってしまうのもいいかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 屋上からは鎮守府関連施設を一望することができた。ドックの上にまたがるようにして設置されたガントリークレーンが、暖色にぼんやりと浮かび上がっているのが何とも言えず美しい。写真を撮るため携帯電話を取り出そうとポッケに手を突っ込んだところ、先ほど階段で拾ったビラが先に出てきた。

 

「そういえばこれは何だったんだ」

 

 それはよく見ると青葉新聞の号外であった。発行日時が今日になっているので、ついさっきばら撒かれたばかりであるというのが分かった。読んでみると、青葉新聞社らしからぬ内容が目に飛び込んできた。

 

「『幻の居酒屋鳳翔、出現パターン特定』?」

 

 なんでも、昨年の目撃情報などを元に、居酒屋鳳翔の出現場所と移動パターンを予測したということらしい。まるで台風の進路予測である。そんな馬鹿なと私は内心笑いながらも読んでいると、存外これは無視できないものであることが分かってきた。

 

「まず海上より現れる。これはほぼ確定と言ってよし。しかるのちドック付近へ上陸、しかし留まらず次の候補地へ────」

 

 それは私が目撃した場所とある程度の一致率を誇っていたからである。

 次の候補地はどうなっているのか確認しようとしたその時、階段へ通じる扉が爆音と共に弾け飛んだ。

 

「やっと見つけたよ、提督さん」

 

そこにいたのは先程撒いたはずの瑞鶴であった。

 

「すまない」と日向がその後ろからひょいと出てきた。「流石に岩本隊には勝てん」

 

瑞鶴は声を張り上げた。

 

「翔鶴姉に謝って!!」

 

「待て、何のことだかさっぱり分からない!」

 

「まさかメール見てないとは言わないでしょうね?執務室に携帯がないことは彩雲で確認済みなんだから!」

 

「メール?何の話だ!」

 

「っ、あくまでしらを切るつもりね」

 

 彼女は矢筒をかえりみたが、諦めたように走り出した。流石に攻撃隊は瑞雲との死闘で消耗してしまったと見える。

 走った勢いで華麗にジャンプし、屋上のへりに立った。

 

「翔鶴姉に会ってくれないならここから飛び降りてやる!」

 

 彼女はわけの分からないことを喚き、両手を広げた。今にも飛び立とうとする鶴のごとき構えである。

 

「ちょっと待て、翔鶴に会うこととお前が飛び降りることと何の関係がある」

 

 私は言った。

 

「私にもちょっと分かりません」と瑞鶴。

 

「瑞鶴やめておけ。下の垣根を刈ったばかりだから、多分そこそこ痛い」と日向。

 

 そこそこ痛いで済むのが艦娘のおそろしい所である。

 そんな意味不明のやり取りをしていると、上空から何か神々しい気配がゆっくりと降りてきた。

 

「弥勒菩薩の降臨か!?」

 

「そんなアホな」

 

 それはまばゆいばかりの光に覆われていたが、よく見ればそれは居酒屋鳳翔そのものであった。私はあわてて青葉新聞号外を見る。次の行先は本庁舎屋上の公算大。80%─────。

 やがて空飛ぶ居酒屋はぼふんと着地し、台風11号のごとく暴風を巻き起こした。

 

「うわわ」

 

 その衝撃で瑞鶴が転落した。

 

「おい、大丈夫か!」

 

 私は慌ててへりに駆け寄った。

 

「なんとか無事よ!でもそこそこ痛い!」

 

「それはよかった!」

 

「一応私が見てこよう」日向がすたすた歩いて行った。

 

 大声でやり取りしていると、やはり平屋の引き戸ががらりと開き、ひょっこりと鳳翔が出てきた。

 

「あら、また会いましたね、提督」

 

 私は先程の鳳翔の言葉を思い出した。

 

「なあ、やるべきこととは一体なんなんだ」

 

 鳳翔は少しふむむと考えた。

 

「翔鶴ちゃんには会いましたか?」

 

「いや」なぜ皆口を揃えて翔鶴の名を口にするのか。私の顔にでも書いてあるのであろうかと思う。だとすれば恥ずかしいばかりである。

 

 鳳翔はふたたびふむむと考えた。

 

「いいでしょう」彼女は暖簾を上げた。「お入りください」

 

 どういう風の吹き回しだろうかと考えながら、私は暖簾をくぐり中へ入った。

 

 中は至って普通の、落ち着きのある居酒屋といった風である。正面にはカウンター席、手前にはテーブル席がいくつか並べてある。カウンターの背後にはおびただしい数の日本酒やら焼酎やらが並べられており、縁日の射的の的かと思った。白熱電球がぼんやりと店内を照らし、おでん出汁やら焼き鳥やらの香りがそこらじゅうに充ち満ちている。さしずめ私は夢の中へでも迷い込んだのか。

 

「カウンターにおかけくださいな」

 

 私は目に付いた席に腰掛けた。

 

 

 

 

 

 

 引き続き廊下を歩いていますと、明石さんと出会いました。明石さんは女性と肩を組んで歩いており、それは見覚えのある顔でした。私はびっくりするあまり心臓が停止してしまうかと思いました。なぜならその淑女は、先刻私が見かけた、提督に腕を絡めていたのと瓜二つ、というか同一人物だったからです。疑いの余地はありませんでした。

 

「やあ翔鶴さん、こんなところでどうしたんでふ」

 

「でふ?」

 

 お二人は少し酔っ払ってしまっているようでした。

 

「この子が翔鶴ね?話は聞いているわ」

 

 その美しい女性は私を見てにやりと笑いました。私はとりあえず握手に応じます。

 

「はじめまして。もう知ってるかもしれないけど、私はあなたたちの提督の────」

 

「わーわー!大丈夫です!知っています!」

 

 直接聞くのが何だか嫌で、私は年甲斐もなく大声を出してさえぎってしまいました。こんな年の瀬にいい大人が出してよい大声ではありませんが、なりふり構ってはいられませんでした。

 

「なんだ、そうだったのね!丁度いいわ、あなたも行きましょう」

 

 女性は私に腕をぬるりとからめました。そして叫びました。

 

「いざ鳳翔!」

 

「え!?」

 

 明石さんが事情を説明してくれました。なんでも二人はすっかり意気投合してしまい、工廠でありあわせのお酒を飲んでいたところすぐになくなってしまったので、アルコール分を捜索してさまよっていたところ、とあるビラを拾ったのだそうです。

 

「居酒屋鳳翔の進路予想?」

 

 なんだか台風みたいです。

 私も艦娘ですので、居酒屋鳳翔の噂は一度くらいは耳にしたことがあります。それは鎮守府敷地内に出現する神出鬼没の居酒屋で、その出現場所は誰にも予想がつかないのだとか。そこでは極上のおでんが食べられるとも、鳳翔さん謹製の秘酒が飲めるとも言われていますが、真偽のほどは定かではありません。

 

「移動が早いらしいですからね。善は急げ、です」

 

 そのビラを受け取って見ると、青葉新聞号外と書かれていました。でもじっと見ていると、どこか違和感があります。だいたい、聞く話によれば号外が出るのは毎年大晦日で、今日は30日です。それになんだか………なんだか言葉にはできませんが、普段読んでいる本物の青葉新聞とは何だか違うような気がするのです。まるで精巧な偽物みたいに。

 

「あの、これって……」

 

「さあ行きましょう二人とも!さらなる美酒を求めて!」

 

 女性は拳を突き上げて言いました。

 

「いざ鳳翔!」

 

 私は問答無用で引きずられていきました。

 

 

 

 

 

 

 そういえば、と思い、私は携帯を取り出した。瑞鶴がメールだのなんだのと言っていたのを思い出したのである。開こうとしてみたが、電源を切っていたことをすっかり忘れていた。

 

「たのもー!」

 

 電源ボタンを指先で探していると、豪快に引き戸が開き、威勢の良い声が響いた。ずかずかと入ってきたのは、あろうことか肩を組み仲睦まじげな明石と先生であった。

 

「あれ、提督じゃないですか」

 

「あなた、こんなところで何してるのよ」

 

 二人は不思議そうに首をかしげている。しかし大変申し訳ないことに、彼女らに反応しているような精神的余裕はなかった。なぜなら。

 

「…………提督?」

 

 なぜなら、二人の背後から現れた人影が、翔鶴その人であったからである。

 

「えっと」

 

 翔鶴はおずおずと言った。私は身構えた。

 

「お隣………よろしいですか」

 

 私はロボットのようにかくかくとうなずいた。

 

 

 

 

 

 

 情報量の多さに、私の頭はきゅるきゅると面白おかしい音を発し始めていました。これはいけません。まずは状況を三行で整理してみましょう。

 

1、例の女性&明石さんとばったり。

2、飲みに連れていかれる。

3、居酒屋鳳翔実在。

4、入ってみると提督が。

 

 だめでした。さっぱりわかりません。三行って何行でしたっけ?

 さらにそこへ「お隣よろしいですか」ときたものです。それも、例の淑女を差し置いて。まったく、勢いというのは本当に恐ろしいものですね。やはり私はとんでもない肝っ玉野郎であったようです。いえ野郎ではありませんが。

 そんな大胆不敵の申し出に対しても、提督はお優しく、何度かうなずいてくれました。そのうなずきはなんだかコマ送りのように見えましたが、恐らく私の頭が混乱し処理速度が低下していたためでしょう。

 

「えっと、いいお店ですね」

 

「……そうだね」

 

 当たり障りのない会話でジャブを打ちますが、不発の予感。ああもう、何を言っているの私!

 

「居酒屋鳳翔がまさか本当にあるなんて、びっくりしたよ」

 

「そっ、そうですよね!本当に……」

 

「青葉新聞の号外を見た?」

 

「あっ、はい!でもそれが、どこかおかしい気がするんです」

 

 よし、楽しく話せました。上手く話を広げてくれるあたり流石です。ああ、好き。

 私は先刻明石さんから預かったビラを取り出しました。提督も同じものをお持ちで、取り出してじっと見つめ始めました。

 

「……確かにおかしい。ほらここ」

 

 指さされた先を見て、私は納得がいきました。

 

「青葉新聞のトレードマークは若葉マークのはずなんだよ」

 

 そこには四つ葉マークが刻印されていたのです。どうりで、と思いました。それはごく小さな違いでしたが、私にどこか潜在的に違和感を与え続けていたというわけです。

 すると当然の疑問が発生します。

 

「では、これを書いてばらまいたのは一体……?」

 

「それも気になるし………ほら見てくれ、ここも」

 

「シリアルナンバーが001と002ですね」

 

「毎年何百枚とばら撒かれるのに、こんなことってあるだろうか」

 

 確かにこれは妙です。

 だいたい、ばら撒かれたわりには他にビラが落ちているのを見かけませんでした。そして誰かがそれを読み、騒いでいる様子もありませんでした。提督のおっしゃるように例年のごとく号外がばら撒かれていたなら、今頃このお店は満員御礼と相成っているはずなのです。背後を振り返ると、テーブル席で明石さんと例の淑女がすでに酒盛を始めていました。目をつむって聞いていれば五人くらいいるのではないかという声量です。

 

「もしかするとこれは」

 

「偽青葉新聞─────」

 

 私がそう言い終える前に、鳳翔さんがやって来ました。

 

「こちら、つきだしになります」

 

「ありがとう」と提督。

 

「ありがとうございます」と私。

 

 それは小皿に入ったおでんの大根でした。厚く輪切りにされた大根は肩までお出汁につかり、どこか黄金色に輝いて見えました。

 お箸で大根をさっくりと切り取り、口へ運びます。それは舌の上で優しくほどけ、たちまちえもいわれぬ深いコクとほのかな甘みが広がりました。おそるおそる飲み込むと、お腹の底からじんと温かくなる感覚がありました。そしてそれは私の気持ちをもぽかぽかと温めてくれました。こんなに美味しいおでんは、生まれてこの方初めてでした。

 

 ふと、顔を上げると提督と目が合いました。互いに、思わず笑みがこぼれました。ああ、偽青葉新聞でもなんでも構いません、と私は思います。それは結果的に私をこんな素敵な場所へつれてきて、さらには提督と引き合わせてくれたのですから。

 それから私たちはおでんの盛り合わせとお酒を頼み、様々に語りあいました。どれもたわいのないお話でしたが、どんなことでも彼は笑って聞いてくれました。瑞鶴の寝言の話。出撃で見つけた小さな島と、そこに住む猫たちの話。妖精さんを巻き込んだ、空母寮にらめっこ大会の話。そしてあの日の夏祭りの話。

 

「あの日、実は最初からずっと一人でお祭りを回っていたんだよ」

 

 私はそれを聞いてまたもやびっくりしました。なんだか今日はびっくりしてばかりです。

 私もその夏祭りの日、ずっと一人であったことを打ち明けました。もちろん、それが提督目当てであったことは内緒です。

 提督も驚いたようで、彼は目を丸くしてぱくぱくとちくわを食べていました。私も負けじとはんぺんをほおばりました。それもやはり絶品でした。

 そして話題は今日の出来事へと移りました。提督は今日起こった奇妙な出来事の数々を話してくださいました。

 

「────それで急に先生から電話がかかってきてね」

 

「ふふ、それは大変ですね」

 

 先生というのは、士官学校時代の恩師とのことです。提督の尊敬する先生、きっと素晴らしい御仁に違いありません。

 

「本当にね。慌てて電話関係のものは全部電源を落としてしまった」

 

 大袈裟だなあと思い私は笑いました。

 ────ん?電源を落とした?

 

「それでちょっと出かけて、帰ってきたらその先生がいるんだよ。心臓が止まるかと思った」

 

「執務室にですか!?」

 

 これは驚きです。これには流石の私もおでんを食べる手を止めてしまいました。

 

「その先生はもう帰られたんですか?」

 

「いや、そこにいるよ」

 

 提督は背後の、例の淑女を示してそう言いました。

 

 私の脳は処理限界を迎え、しばし思考を停止しました。

 

 

 

 

 

 

 それきり翔鶴は宙を見つめながらひとしきりおでんを食べたあと、日本酒一合を飲み干し、たちまち赤くなってうつぶせになってしまった。

 私は慌てて声をかけた。

 

「大丈夫か?具合でも悪いのかい?」

 

「すみません……ちょっとだけ……そっとしておいてもらってもいいですか……」

 

 言う通りしばらく観察していると、やがて翔鶴は唐突に顔を上げた。

 

「すみません、取り乱しました」

 

「いえいえ」

 

 とにかく無事そうで何よりである。

 翔鶴はおそるおそる言った。

 

「ちなみにその、お付き合いされているというか、男女の仲的なそういったことでは……」

 

 私は驚いて言った。

 

「いやいやいや、とんでもない!万に一つだって有り得ないよ!だいたいそんなの命がいくつあっても足りな────あっ」

 

 言うが早いか先生は私にヘッドロックを繰り出した。この野生動物のような洗練された動きを見るに、まだまだ当時の実力は健在と見える。

 

「あなた、中々口が減らなくなったじゃない。偉くなったものねえ」

 

「あのほんと死んじゃうんで……」と私はやっとの思いで声を出した。「即時解除を要求します……」

 

「独身パワー舐めんな!」

 

 やがてようやく私は解放された。

 

「ねえ、翔鶴」

 

 先生は穏やかに言った。

 

「この子をよろしく頼むわね。根性だけはすわっているけれど、昔から危なっかしいところがあるのよ」

 

 翔鶴は驚いたような表情をしていたが、やがて微笑みうなずいた。

 

「はい!」

 

 

 

 

 

 

 それからは4人でどんちゃん騒ぎを続け、やがて日付が変わろうかという頃合い。明石さんと先生はテーブルにつっぷしてお休みになってしまわれました。

 

「もういいお時間みたいですね」

 

「そうだね、珍しく随分飲んだ」と提督は苦笑い。

 

「あの、提督」

 

 私は切り出しました。

 

「提督の携帯電話、ひょっとして今電源がオフになっていたりしませんか?」

 

「ん?ああ、そういえばそうかもしれない」

 

 思い出したように彼は携帯電話を取り出し、電源をつけました。

 私はすうと息を吸いこみ、覚悟を決めました。

 

「失礼は承知の上なのですが、携帯を少し見せてもらっても構いませんか」

 

「構わないが、どういう……」

 

「ありがとうございます、すぐ済みますので」

 

 携帯電話を受け取った私は、手早くメールの受信欄を確認しました。目当てのものはすぐに見つかりました。私はそれをこっそり削除し、素早く提督にお返しました。きっとそれは、自分の力で言わなくてはならないことだったからです。

 

「どうしたんだい?」

 

「いえ」と私は微笑みました。「私の機種と色違いだなと思ったものですから」

 

 我ながらナイスな機転です。確かにそれは私のものの色違いで、私は白、提督はオリーブグリーンでした。

 

 とても素敵な夜でした。私はきっとこの夜を、来年も再来年もまた同じように思い返すことでしょう。そして、その度に心がじんわりと暖まるような、そんな思いに駆られることでしょう。

 

 でも、と私は思います。

 

「そろそろ出ようか」と提督。

 

「ええ、そうですね」

 

 後ろを振り返ると、お二人はやはり泥のように眠っておいででした。

 

「お気になさらず」と鳳翔さんがカウンターから出てきて言いました。「あとのことは私の仕事ですから」

 

「ありがとう」と提督。「では会計を頼みたいんだけど」

 

「お代はいりません。今夜はたまたまボランティア出動でしたから」

 

 私たちは首をかしげました。

 

「ボランティア?でもなんだか悪いな」

 

 鳳翔さんは少し考える素振りを見せ、言いました。

 

「では空母寮にちょっぴりお金を回してあげてください。3階西側の雨漏りが気になるようですから」

 

 なんと話によれば、居酒屋鳳翔の収益は鎮守府内の公共事業に寄付されているとのことでした。母親どころではないその優しさに私は思わず感涙しました。提督はお安い御用、と言いました。そして私たちはお店をあとにしました。

 

 

 

 

 

 

 引き戸をがらがらと転がし、暖簾を持ち上げると、目の前には穏やかな暗い海が広がっていた。鎮守府埠頭であった。

 

「僕たち、入った時は屋上にいなかったか?」

 

 翔鶴は少し考えて言った。

 

「居酒屋鳳翔は常にめまぐるしく動き回るものと聞きます。きっと私たちはずっと鎮守府上空を行ったりきたりしていたのでしょう」

 

 私は微笑んだ。

 

「ねえ、もし良ければ」

 

 冷たい夜風が優しく吹き抜けた。

 

「明日、大晦日の夜もこうして過ごせたらなと……思うんだけど」

 

 短い沈黙。

 翔鶴は驚いたように口を開けたまま黙っていたが、やがて「ふふっ」と笑いだした。

 

「いや、すまない、今のは忘れて─────」

 

「先に言われてしまいました。だめですね」

 

 翔鶴はにっこりと笑って言った。

 

「是非ご一緒させてください、提督」

 

 その微笑みを、私はいつまでも忘れることができないだろうと思う。それは今まで見た中で最も素敵な笑顔だったからである。

 

 

 振り返ると居酒屋鳳翔はそこにはなかった。

 二人は照れくさそうに笑いあった。

 その後の居酒屋の行方は、定かではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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