ふと顔を上げると、目前にバールが迫っていた。
避けようと思う暇すらなかった。
視界が、真っ白に染まった。
バールで頭を強く殴られたのだとわかった次の瞬間には、硬く冷たいアスファルトの上に倒れ伏していた。頭から流れ出した血がアスファルトに染み込んで黒く染まっていく。
ああ、もうすぐ死ぬ。
なんてことを漠然と考えた。
死は絶対だし、当然自分もいつか死ぬ。だけど、まさかその時が今だとは思ってもみなかった。
耳が走り去るバイクの音を辛うじて拾う。遠くなっていく意識の中。僕が最後に感じたものは、これまでの思い出が流れる美しい走馬灯なんかではなく、冷たく暗い闇の中に沈んでいく虚しさと絶望だけだった。
〇
遡ること午後八時半。
日本ウマ娘トレーニングセンター学園、通称トレセン学園の職務室からは未だ煌煌とした明かりが漏れでていた。複数人の教員が職務に勤しんでいるのだ。その内の一人に自分もいた。
別に仕事熱心だから職場に居残っているわけじゃなかった。周りが帰ろうとしないから、その空気に掉さしているだけだ。それに、早く帰ったところですることもなかった。とはいえ、いつまでも同僚たちに付き合うつもりもなかった。眼精疲労がピークに達し、ディスプレイを見るのも辛くなってきたところで満を持して席を立つ。 それから、帰る前にチーフトレーナーの竹中さんに声をかけた。
「おう安藤、お疲れさん。もう帰るのか」
「はい、お先に失礼します」
上司より先に帰るのはなんだか気が引けるので、せめて失礼のないようにというささやかな配慮だ。香りの良い紅茶をぐびぐびと飲んでいた竹中さんは、手に持っていた黒猫のロゴが入っているコップを机の上に置いた。
「もう暗いし、気をつけて帰れよ」
帰り支度を始めると、待ち構えていたかのように職員の一人が椅子をくるりと回転させてこちらに振り向いた。
「おい、もう帰るのか。残ってかなくていいのか?」
自分と同じ竹中さんのサブトレーナーであり、同期である杉原だった。無精ひげを生やした厳つい顔には、若干の疲労と不機嫌が浮き彫りになっている。
「お前の担当の娘、ラックリーターだったか?あの娘は今が正念場だろ。お前が気合入れないでどうすんだ」
「……」
心の中で嘆息した。トレセン学園にトレーナーとして就職してから、この男には幾度となくこうして絡まれるのだ。理由は全く身に覚えがないのだが、どうも杉原は僕のことが大層気に入らないらしい。
「残業しまくって身体壊したら元も子もないだろ」
呆れた口調でそう言い返すと、杉原は眉を顰めた。手に持ったボールペンがくるりと回る。
「あのなぁーー」
「お前ら、いい年こいて喧嘩はやめろよ」
僕と杉原の諍いを見かねた竹中さんが仲裁に入ってきた。この間周りにいる他の同僚は一切こちらの諍いに意に介さず、黙々と業務に没頭している。
「でも竹中さん……」
付き合ってられない。そう思った僕はこの隙にさっさと踵を返して職務室を後にした。
「お前も早く帰って休めよ」
「あ、おいっ」
何か言いかけた杉原を無視して、後ろ手に職務室の扉をパタリと閉めた。
〇
寮に帰る前に、コンビニに立ち寄った。適当な晩飯を調達するためだった。
冷たく鋭い蛍光灯の光。
店内に入ってすぐ、適当に目に付いた食べ物を手に取っていく。 特に好みはないので、腹の中に入れば味は何でもよかった。カゴの中に投げ入れられた名前もわからない商品の数々を、無感動に見やる。
「……」
仕事一筋の毎日を送っていた。
訳の分からない妄執に駆られるままに資格を取り、大学を卒業後直ぐに僕はトレセン学園に就職した。脇目も振らずに働いたせいで、気づいたときには親しい友人や恋人はいなくなっていた。気がついたのと同時に、仕事に対する情熱も半ば失いつつあった。
温かみのないコンビニ食品を無造作にレジに置く。店員がそれをベルトコンベアの如き無機質さで捌いていくのを、死んだアジのような目で眺める。
あとは殺風景な寮の部屋で、見たくもないテレビを見ながらこれを食べて寝るだけ。そんな味気ない時間を過ごすくらいなら、多少辛くても学園に居残って雑務をしていたかった。
そんな舐め腐った勤務のせいか、それともただ単に才能がなかっただけなのか、僕と担当契約を交わしたラックリーターは、ジュニアはおろか、クラシックに入ってからですら一つも勝ち星を挙げられないでいた。トレーナーとして申し訳ないと思う反面、別にどうでもいいかと思っている自分も、心の奥底に確かにいた。
これでいい。
今のままで満足。
それなりに仕事をこなして、それなりの実績を残して退職し、あとは適当に老死でもすればいい。
それで良い。
何て。
そんなことを考えていたせいなのだろう。
ズボンのポケットにしまっていた携帯電話が不意に鳴った。取り出してみてみると、画面には非通知の文字が浮かんでいた。誰だろう。 交友関係の狭い自分に電話をかけてくるものは限られている。
「……」
少し躊躇いつつも、電話に出た。だけど僕は通話相手の声を聴くことができなかった。
電話に気を取られていたせいだ。前から途轍もない勢いで近づいてくる排気音に直前まで気づくことができなかった。
強烈な光が僕の横顔を照らして、目が眩む。
一筋のヘッドライト。
不審に思って顔を上げると、目前にバールが迫っていた。
避けようと思う暇すらなかった。
視界が、真っ白に染まった。
頭をバールで強く殴られた僕は、気がつくと硬く冷たいアスファルトの上に倒れ伏していた。頭から流れ出した血がアスファルトに染み込んで黒く染めていく。
ああ、もうすぐ死ぬ。
なんてことを漠然と考えた。
死は絶対だ。当然自分もいつか死ぬ。だけど、まさかその時が今だとは思ってもみなかった。
これは、天罰なのかもしれない。トレセン学園にやってくるウマ娘たちの多くは、レースに人生を賭けている。そして自らの命運をトレーナーに託す。ラックリーターもそういったウマ娘の一人だった。僕は彼女に対して真摯に向き合って仕事に臨んでいなかった。ただ己の人生の空虚さを紛らわすだけの職務。そんな僕への罰。
耳が走り去るバイクの音を辛うじて拾う。遠くなっていく意識の中僕が見たものは、これまでの思い出が流れる美しい走馬灯なんかではなく、冷たく暗い闇の中に沈んでいく虚しさと絶望だけだった。
意識が途絶える最後、遠くで誰かの声を聴いた。
誰かの助けを呼ぶ声が。