ブルー・ホースマン   作:堂廻り 眞くら

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 場内は少しもやがかかったような視界の悪さが目立つ。だが走れない程ではない。各バゲートインも順調に終え、予定通りレースはつつがなく始まろうとしていた。

 大欅の向こう側でそれを待つ間、じっとりと嫌な冷や汗が背中を伝った。あまり体調がよくない。変幻の影響だろうか。もしかしたら、この力は体力を著しく消耗させる、みたいなデメリットがあるのかもしれない。

 そんな僕の一抹の不安を他所に、レースは満を持してスタートした。

 

 サイレンススズカが快速で逃げる。二位を追走するエルコンドルパサーをすでに8バ身ほど突き放しているが、エルコンドルパサーのペースが遅いわけではない。むしろ積極的に勝負に挑もうという作戦なのか必死に食らいつこうとしているように見える。三位との差は約5バ身ほども離れている。かなりのハイペース。が、ダメ。全く追いつけないどころがさらにじりじりとサイレンススズカは後続を引き離していく。ある意味無情ともいえるその光景はまさに異次元の逃亡だ。1000mの通過タイムは驚異の57.4秒。

 

 拙いことになりつつあった。

 じくじくと左足が痛み始め、耐えがたい様相を呈してきたのだ。サイレンススズカが第二コーナーを脱出したころにはもうすでに、立っているのも苦痛なほど痛みは、油を注がれた炎のように激しく燃え盛るようにその勢いを増した。なぜこんなことに、急に足が痛み始めたのか理由がわからない。

 拙い。

 全くの予想外に内心慌てつつ、僕はゆっくりと内埒に近づく。なるべく彼女に近づいて、故障の瞬間に受け止める、その後後続に巻き込まれないよう外埒に転ばせるように引き出すのだ。左足を守りながら、なるべく自然に転んだように見せる必要がある。抱えて走るのは論外だが、最悪の場合はそれも止む無いかもしれない。

 

 兎にも角にも、まずは走っている彼女と歩調を合わせなければならないのだ。が、足がひどく痛む。なぜこうなるのかがわからない。サイレンススズカはもうすぐそこまで来ている。大欅までもうたどり着こうとしている。

 

 痛みを無視して僕は走り出した。とんでもない速さでサイレンススズカは突っ込んでくる。ここにきてさらに加速したようだ。信じられない。

 

 痛みで朦朧とした頭で、ふと思った。

 

 見れば見るほど、彼女は気力体力十分。

 

 実は怪我なんてしないんじゃないのか、と。

 

 こんなに必死になって、痛みに耐えて走り続けているのが、すべて杞憂だったとしたら。僕はいったい何のために走っているのだろうか。よく考えてみると怪我をしない可能性の方が高い気がしてきた。

 気が緩みかけ、ほんの少しだけ足を緩めた。こんなことを考えていたから、というのもあるが、走ってくるサイレンススズカと一瞬だけ目が合った気がした時、彼女の目を見た瞬間、何もかもがばかげていると、そう感じた。自分の行いに自信が持てず、必死に頑張っているのがなんだか気恥ずかしいとすら感じたのだ。

 

 その時だった。

 何の前触れもなかった。少なくとも僕にはそうとしか思えなかった。サイレンススズカが大欅で大きく失速した。

 気が付いたときにはもう手遅れだった。会場の困惑を肌で感じながら、僕は急いで彼女の元に駆けつけようと手を伸ばして、左足が全く動かないことにようやく気が付いた。脚に目をやると、大きなギプスで厳重に左足が固定されていた。

 何とか彼女の元にたどり着こうと、固定された足を必死に動かして、サイレンススズカの転倒だけでもなんとか防ごうと。

 だけど、全く身体が動かない。

 視界が真っ暗に染まった。僕と一体になっているサイレンススズカの幻影の力が、急速に弱まりつつあるのだ。全く想定していなかった、原因不明のアクシデント。

 僕は、何もできない。

 最早一歩も動くことができない。

 

「左脚を下につけるな!」

 

 微かに声が聞こえた。

 そんなことわかってる!でももう遅いんだ。今の僕じゃもう何もできない。どうにもならないんだ。

 僕じゃ……。

 

 ……?

 

 突如、暗転した視界が急速に回復した。

 

 顔を上げた。誰かが彼女を、サイレンススズカの左脚を支えて、その体を地面にゆっくりと降ろしているのが見えた。信じられない。この一瞬でここまで駆けつけられる人間がいるとはとても思えなかった。

 だが、よく見ると、人間じゃない。知っているウマ娘。

 

 スペシャルウィークだ。

 

 彼女がここまで駆けつけて、サイレンススズカの左脚を咄嗟に支えたのだ。そのすぐ後ろに遅々とやってくるスピカのトレーナーの姿も窺える。僕はすべてを悟った。

 

 ああ。

 

 なるほど。

 

 気が付くと、足のギプスも、痛みもきれいになくなっていた。僕は倒れていた身体をゆっくり起こすと、じっと倒れているサイレンススズカとそれを介抱するスペシャルウィークを眺める。

 先ほどの声は、スピカのトレーナーがスペシャルウィークにかけた言葉だろう。

 

 そう。とどのつまり、僕と幻影は始めからお呼びではなかったというわけだ。

 

 未だ混乱冷めぬ観衆のどよめきの中、エルコンドルパサーがゴール板を一着で通過した。

 

 沈痛が場内を駆け巡る中、救護班がサイレンススズカを担架で迅速に運んでいくのを、僕と幻影はただただ無言でそれを見守り続けたのだった。

 

 

 

 

 実際の所僕は、サイレンススズカ本人にちゃんと感謝されたかったのかもしれない。

 だから予想外の足の痛みに襲われた時、ボランティアの人助けで得られるほんの少しの達成感とやりがいを、苦痛が上回ったとき、僕は足を止めた。仮に頑張って救助に成功したとして、僕が得られるものはほとんど何もないのだ。サイレンススズカも、そのファンも、彼女のトレーナーや友人たちも、誰も自分の働きに見合ったものを与えてくれない。だから僕は動けなかった。

 スペシャルウィークはきっと純粋な想いで彼女の元に駆けつけたに違いない。見返りも、達成感も必要としない、ただひたすら無垢な想いで。

 考えれば考えるほど自身の矮小さに気が滅入ってくる。

 

「ただのルームメイトじゃない。互いに信頼しあった仲なんじゃないかな、あの二人」

 

 今回の天皇賞秋の勝利者インタビューは粛々と進められていた。厳かな盾を手に持ったエルコンドルパサーの周りを、記者が取り囲んでいる。僕は離れた場所からそれを眺めていた。適当な壁に寄りかかりながら。

 

「あの二人だけじゃない。スピカのチームメンバー全員がお前を心配して病院に駆けつけていったみたいだぞ。お前を心配して」

 

 幻影は無言で僕の隣を突っ立っていた。怒っているような、そうでもないような顔を真正面に向けていた。

 救出に失敗した僕に対して怒りを覚えてしかるべきだと、そう思っていたが未だに彼女は一言も発さない。或いは沈黙が彼女なりの僕に対する叱責なのかもしれない。

 

「……私の時は、誰も来てくれませんでした」

 

 ようやく口を開いたときには、勝者会見ももう佳境を超え終わりが見えてきたころだった。

 

「薄々気が付いていたんです。彼女と私は、少し違うって。だからかもしれません」

 

 ギョッとした。彼女の目じりに涙が浮かんているのが見えた。

 

「あの時動けなかったのは、私が彼女を助けたくないと思ってしまったからです、きっと。彼女だけ助かるのが納得いかなかったからなんです」

 

 狼狽えた僕は何も言わずに見守るしかなかった。そして彼女の学園生活にほんの少しだけ思いを馳せた。いつか見た、スペシャルウィークと肩を並べて歩いていたサイレンススズカを僕と眺めていた幻影。もしかしたら、自分の思い出とは違った光景だったのかもしれない。たった一人で歩いている彼女。隣にスペシャルウィークはいない。彼女はただのルームメイトだ。そんな感じに。

 一人でいるのが平気なように見えて、実は寂しかったのだろうか。

 だから彼女は、彼女自身が何より羨ましく、妬ましかった。同じだという事実が何より受け入れがたかった。本当の所は僕には何もわからないけれど。

 

「……きっと、あの私は大丈夫です。怪我から立ち直れますよ」

「俺もそう思うよ」

「……安藤さん」

 

 サイレンススズカの幻影はこちらに体を向けると、頭を下げてきた。

 

「色々、ありがとうございました」

「いや、別に、何もできなかっただろ」

「そんなことないです」

 

 そういって、彼女は少しだけ笑った。なんで笑うのか、全くわからなかった。

 

「まあ、こっちのサイレンススズカは何とかなりそうだし、お前も帰ったら頑張れよ」

「帰る?」

「ああ……あるんだろ、お前らにはお前らの世界が」

 

 彼女たちの立ち振る舞いからずっとそうだと思っていたのだが、違うのだろうか。

 

「はい、私たちの意思はここに残り続けます。だから、もう帰ることはありません」

「帰ることはないって……じゃあ、どうするんーー」

 

 その時、カメラのシャッターを切る数多の音が聞こえて、思わす振り向いた。どうやらインタビューが終了して撮影期間に移ったようだった。秋天にしては随分短い勝者インタビューだった。

 

「大丈夫です。意思は受け継がれていきますから」

 

 シャッター音に紛れてサイレンススズカが何か言葉を発した。が、それもすぐに周囲の音に覆いつくされて掻き消えていく。

 

「……どういう意味だ?」

 

 そう真意を尋ねようと隣に目を戻した時には、もう彼女の姿はどこにも見当たらなかった。幻影が消えるときは、ほんの瞬きをする間に消えてしまう。あれだけ迷惑をかけておいて、最後は実に呆気ないものだ。

 

「はぁ……」

 

 独りになった僕は、所在なさげにインタビューを眺めているしかなかった。記者の黒山の向こう側に佇むエルコンドルパサーは、終始真顔でフラッシュの雨を浴びていた。サイレンススズカの一件が災いしたとはいえ酷くつまらない会見になってしまった。

 

 もっと笑えばいいのに。

 どんなに不謹慎でも、勝利したのならそれに応えればいい。なぜなら、勝利は勝者だけのものではない、勝負に関わったみんなの栄光なのだから、勝者はせめてそれに報いる義務があるのだ。たとえそれがどんなに意にそぐわない形での勝利だったとしても、勝利を得ることのできなかったもののためにも、

 

 せめて、勝ったものは笑えばいいと思う。

 

 やがて会見は終わり、勝者は静かに立ち去って行った。その後ろ姿にどこか思うところのあった人間は何も僕だけではなかっただろう。だけどあえてその沈黙を妨げようとする者はいなかったのだった。

 

 

 

 秋天から少し後のことだ。

 

 サイレンススズカの故障はビッグニュースとなったが、ラックリーターの出場レースはなんの悲嘆も憂いもなく、予定通りに始まろうとしていた。パドックに向かうラックリーターを見送るため、僕はパドックの裏で彼女とレースの打ち合わせを行っていた。

 

「とまあ、今回の対戦相手に注意すべき点はこれくらいだ。今言ったポイントを最低限押さえながら走ればいい」

「はい」

 

 ラックリーターの調子は悪くない。だが少し緊張気味だった。それも仕方がないことではある。オープン戦とはいえ彼女にとっては選手人生における分水嶺とも言える試合なのだから。

 

「頑張れよ」

「は、はい」

 

 一応激励の言葉を投げかけてみたものの、むしろ委縮してしまっている気がする。理由はわかっている。今回の対戦相手は手ごわい。彼女が十全に能力を発揮したとして、勝てる見込みは薄いのだ。それを本人もわかっているのだろう。

 

「大丈夫だよ、いつも通り先行でさっき言った8番をマークするように……」

 

 真剣な面持ちでこちらを見つめているラックリーターの顔に、不意にサイレンススズカの面影を感じた。ラックリーターとサイレンススズカは栗毛の長髪ということ以外特に共通点はない。顔立ちが似ているわけでも、性格が似ているわけでもない。だから今までこのように感じたことなど一度もないのに、なぜがふと「似ている」と思った。

 確信に近い閃きがあった。

 

「……いや、今日は逃げてみたらどうだ?」

「え?」

 

 ラックリーターは一瞬きょとんとした後、素っ頓狂な叫び声をあげる。

 

「えぇっ!?でも、私逃げで走ったことなんてないですよ!?テクニカルな走法なんですよね?練習もなしに、そんないきなり……」

「いや、最初に出遅れないよう気を付ければ、あとは気ままに走るんだ。俺がさっき言った作戦も全部忘れて逃げに徹してくれればいい」

「……」

「いや、違うな……」

 

 何か悪いものでも食べたのかと疑わしげな表情のラックリーターに覆いかぶせるように言葉を投げかける。

 

「お前の好きなように、自由に走ってみろ」

「自由に……?」

 

 しばらくラックリーターは目を瞬かせて考え込んでいたが、やがて意を決したようにうなずいた。

 

「わかりました。やれるだけやってみます」

 

 そういってラックリーターはパドックの方に歩いて行った。

 

 その日の彼女の走りは目を疑う程冴えわたった逃げを見せて見事勝利した。そしてそれは、わずかにサイレンススズカを彷彿とさせるものがあったのだった。

 

 

 

 

 

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