ブルー・ホースマン   作:堂廻り 眞くら

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プロローグ

 

 雨脚が酷く強くなってきた。

 今日のバ場は間違いなく重になるだろう。今日はラックリーターの初めての重賞戦だというのに、何とも幸先の悪い話だ。

 色とりどりの傘が道行く道を往来している。時折傘と傘が衝突して、傘にたまった水滴が跳ねた。雨の日は人込みが更に窮屈になるから本当に好きになれない。レースを観戦する時は是非とも雨合羽の着用をお願いしたい。

 そんな気も知らないで、人込みは僕とラックリーター、チームのみんなを取り囲むようにして、徐々にその勢いを増したのだった。

 

「ひどい雨だなぁ。こりゃ相当荒れるぞ」

 

 使い込まれた雨合羽を着込んだ竹中さんが、喉の奥から低い唸り声をあげた。

 

「はい、怪我をしなければいいんですけど」

 

 雨音がひどく、すぐそばにいる竹中さんに声を届けるにも声を張らなければならない。というか、最悪競争中止になるかもな。

 

「そういえば、今日は杉原のやつが遅いな」

 

 竹中さんがそうぼやいたのを聞いて、あたりを軽く見渡すが確かに杉原がいない。

 まだ集合の時間まで時間があるとはいえ、いつもの杉原なら、チームでいの一番に集合場所に駆けつけてくるというのに。

 

「珍しいこともあるもんだ。……あっ」

 

 遠くの方からこちらに駆け寄ってくる影が、人込みの中から這い出てきた。

 

「すいません竹中さん、遅れました」

 

 走ってこちらに駆けつけてきた雨合羽の中から、見慣れた厳つい顔が姿を現した。

 

「おう、なにしてたんだ」

「近くで昼飯に寄ってました」

「昼食?ちょっと早くないか?」

 

 竹中さんがそう言い、僕は手元の腕時計にチラリと目を落とした。時計の針はまだ11にも掛かっていない。

 

「願掛けにカツ食ってたんですよ!ほら、よく言うでしょ『カツを食べて勝つ』って」

「……」

 

 僕と竹中さんは顔を見合わせた。それからやれやれと呆れたように首を振った。

 

「……あれ?」

 

 そこでようやく僕は杉原の後ろに佇むもう一つの陰に気が付いた。

 

「福良さんも来てたのか」

 

 これもまた珍しい。

 

「うん、ちょっと気になることがあって」

「他所のレースに顔出すなんて、お前よっぽど暇なんだな」

 

 横から杉原が頭をのぞかせてくる。いい加減しつこいのでそろそろやめてもらいたい。

 

「アンタほどじゃないよ。チームの足引っ張ってないで早く担当決めたら?あ、スカウトしないんじゃなくて出来ないのか」

「なんだとコラ」

 

 竹中さんはこめかみを押さえて呆れつつも、どこか微笑まし気に言い争う二人を見つめていた。

 僕もこめかみを押さえた。

 呆れたからじゃない。突発的な頭痛に襲われたのだ。

 頭痛。

 つまり、すぐ近くに幻影が出現している。ということだ。

 

 僕はあたりを見渡した。ぐるりと一周半程、人込みを眺めまわして、見つけた。これだけの人込みだともしかしたら見つからないかもしれないと思っていたが、それは杞憂に終わった。なぜなら、そいつは人込みのちょうど()にいたからだ。それは空中を浮遊していた。あまりに異質で見落としようがない。

 雨脚が若干弱まった。

 霧雨の中、人々の頭上、空中を歩き始める人影。誰もそのふざけた光景に気を留めもしない。どう考えても幻影のなせる所業だ。

 これだけの雨の中、白む視界の中で幻影の姿だけがくっきりとその輪郭を露にしていた。明るい場所ではその姿が不鮮明だというのに。幻影は、暗闇でその姿が輝くのと同じように、あたりが不鮮明であればある程その姿がより浮き彫りになるのだ。

 

 幻影が足を止めた。止まって、斜め下を指さす。指の先には、雨合羽を着込んだ一人の人間が佇んでいた。幻影がこちらをみて何か言っているのが分かるが、雨音が邪魔して聞こえない。僕はなにやら話し込んでいる竹中さんや杉原、ラックリーターを置いて、人込みをかき分けながら幻影の方へ歩み寄る。

 透明の雨合羽を着込んだ者は、中年程の男だった。手に謎の小瓶を持っている。その男は、じっと一点を必要に見つめて佇んでいた。視線の先には僕たちと同じようなウマ娘とトレーナーが。そのウマ娘の顔は、宙をさまよっている幻影と同じ顔をしていた。間違いない。

 この男が何かするのだろうか。

 僕は更に男に近づいた。いつの間にか幻影がどこにもいない。

 男が動き始めた。どうやら件のウマ娘に近づこうとしているらしい。

 

「……あの、少しいいですか」

 

 意を決して男に声をかけると、ものすごい勢いで男はこちらに振り返った。目が血走っているのがよくわかった。尋常じゃない気配に思わずたじろいでしまう。頭の片隅で警報が鳴り始めた。

 

「小瓶」

 

 幻影にすぐ耳元で囁かれ、体が震えた。いつの間にこんなすぐそばまで来たのだろうか。小瓶だと?

 男が持っている小瓶のことだろうか。

 

「少しお話を伺ってもいいですか。その手に持ってるものはーー」

 

 僕がそう口を開いた瞬間、気づいたときには僕は地面に転がっていた。

 この時の僕はいったい何が起きたのか、ショックで全く把握できていなかった。男が僕を突き飛ばして転ばせたのだと知るには、もう少し時間が必要だったのだ。

 思考がままならないまま、男が覆いかぶさってきた。手には瓶が、そして、小瓶の栓を開けようとしていた。

 顔に大量の雨が入り込んできて、反射的に目を閉じた。目を閉じている場合ではないはずなのに、それ以外はピクリとも身体を動かせない。

 何とか男をどかそうと手をばたつかせるが、全くでたらめに動かされた腕は空を切る。

 その間にも男の手は小瓶を開けようとして、

 

 その男の腕が細い腕に掴まれて止められた。

 福良さんだ。

 男は腕を離そうともがいたが、福良さんは一気に僕と男を引き離すと、地面に押さえつけて関節を固めた。その拍子に男の手から小瓶が零れ落ちる。

 騒ぎを感じ取ったらしい人込みが、僕と福良さんを中心にさっと割れた。男はしばらく福良さんの手の中で暴れていたが、全く動けないことを悟ると穴の開いた風船のように急速に萎えていった。

 周囲を遠巻きに取り囲む人込みの中から、竹中さんと杉原、それから控えめにラックリーターが駆けつけてきた。

 

「おいおいおい大丈夫か!」

 

 杉原が福良さんに協力して男を押さえに行っている間、竹中さんが地面に倒れ伏した僕に手を貸した。

 竹中さんの手を借りて起き上がった僕は、男の取り落としていた小瓶を地面から拾い上げる。

 

「なんだそれ」

「わかりません……」

 

 小瓶の中で、透明の液体が揺れた。あとでわかったことだが、小瓶の中身は硫酸だったそうだ。

 

 

 

 

「なんだか、正直、かなり面倒くさいことになってきたな」

「同感」

 

 後日、事が大きくなったなれの果てに、僕と福良さんの二人は生徒会室に呼ばれ、謎の表彰式がそこでつつがなく執行されようとしていた。

 例の一件をメディアが大きく取り上げ、URAもここぞとばかりに僕と福良さんを担ぎ上げた。その結果がこれだ。自分で言うのもなんだけど、今回の件は確かにウマいネタなのだろう。イメージアップにつながるかは知らないが。

 謎の表彰を渡された後、偉そうな人たちと生徒会のウマ娘らとともに写真撮影に入る。僕は一応ぎこちなくも笑みを浮かべて対応していたが、福良さんは始終無表情だった。彼女は本当に、自身の生き方にブレを感じさせない。

 一通りの行事が終わり、僕と福良さんはそろって生徒会室の隅に避難していた。周りの人間にあまり愚痴を聞かれたくなかったからだ。

 

「マスコミもURAもご苦労なことだ。これじゃしばらくは落ち着かないかな」

「すぐに収まるよ。一か月もたてば」

 

 そんな二人の元に、一人のウマ娘が人の輪から外れてこちらに近づいてきた。

 

「初めまして、安藤さんに、福良さん」

 

 そのウマ娘の名を知らないものはこの場にはいなかった。現トレセン学園生徒会長の肩書を冠する、皇帝の名をもつ七冠バ。彼女は僕たちに向かって軽くお辞儀をした。

 

「シンボリルドルフです」

 

 わざわざ自己紹介されなくても、名前くらい知っている。

 

「俺たちに何か用か」

「改めてお礼を言わせてもらいたい。感恩戴徳、わが校の生徒を救っていただいたこと、全校の生徒に変わって感謝します」

 

 どうやら律儀にお世辞を言いに来たらしい。高校生の分際でそんなにかしこまらなくてもいいのに。

 シンボリルドルフはそれから、僕たちに握手を求めてきた。それに応じて手を握り返すと、彼女の掌を通して37度の体温が伝わってくる。

 

「長い間お付き合いいただき感謝します」

「じゃあ、私たちはそろそろ帰ってもいい?」

「ええ、もちろん。後のことは私に任せてください」

 

 福良さんはその言葉を聞くと、さっさと生徒会室のドアに向かって歩き始めた。僕もそろそろお暇しようと彼女の後に付いていこうと思った時だった。

 

「……」

「どうか、しましたか?」

 

 後ろからシンボリルドルフにそう声をかけられて、僕は何でもないと軽く返事をした後、再び視線をドアの前に戻した。

 波のように急速に引いてゆく頭痛の中、ドアの前には幻影がじっとこちらを見て佇んでいた。

 正直、驚きを隠せなかった。幻影が現れたことに、ではない。その幻影は今後ろにいる彼女、シンボリルドルフと全く同じ姿だった。彼女の幻影が出現するなんて、かなり意外だった。

 これ以上突っ立っているのもアレなので、僕はひとまず幻影を無視して、ドアの方へ歩き出した。幻影は身じろぎもせずにその場に立ち尽くしていた。

 ドアにたどり着く瞬間、幻影と衝突寸前のところで、僕は目を閉じて、そのまま数歩進んで、再び目を開けた時にはもう、幻影の姿はどこにいなかった。

 

 

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