目が覚めたのは、殴られてから一週間後のことだった。酷い怪我の割に回復は存外早く、一か月後には退院が決まった。
わざわざ見舞いに来てくれた竹中さんと僕は病院の中庭に備え付けられているベンチに腰を下ろして、二人して風に揺れる中庭に植えられたイチョウの木の葉を眺め回していた。ほかに見るものはなかった。大きなイチョウの木一本以外は、人っ子一人この中庭には見当たらなかった。竹中さんからいただいたコーヒーを粗方のみ終えた僕は、空になったそれを手の中で転がして遊んだ。
「もう、だいぶ元気そうだな」
「はい、お陰様で。傷ももう完全にふさがりました。むしろ病院でたっぷり寝た分怪我する前より調子がいいくらいですよ」
「ったく、普段から健康には気を付けろよ。そうだ、健康のために俺と一緒にマラソンなんて、どうだ?」
「考えときます」
気のない返事に竹中さんは苦笑し、それから広く晴れ渡った空に向かって大きく伸びをした。嫌にいい空模様だった。ついこの間死にかけただなんて、全く思えないくらい気持ちのいい空気が中庭に流れ込んでくる。
「そろそろ帰るか……」
大きな伸びを終えた竹中さんが、あくび交じりにそう言った。自分もちょうど部屋に戻りたい気分だった。
「そうですね」
竹中さん立ち上がったのに釣られて僕もベンチから立ち上がる。
その時だった。身に覚えのない、強烈な頭痛とめまいが突然襲い掛かってきた。今まで感じたことのない独特の痛み。パラパラと視界がとめどなくブラックアウトする奇妙な眩暈。とてもじゃないけど耐えがたい苦痛に僕は思わずベンチへ座り込んだ。耳鳴りも酷くなってきたし、これはいよいよ本格的に拙いかもしれない。
視界が、地面が揺れる。
怪我のことが嫌でも頭をよぎった。何せ僕の怪我は脳に大きなダメージを与えていた。今の今まで脳挫傷による後遺症らしい兆候はなかったものの、医者からは「時間がたってから症状が現れることもある」と忠告を受けている。まさにこの頭痛や眩暈がそれなのではないか。
僕の異常に気が付いたらしい竹中さんが駆け寄ってくるが、耳鳴りのせいで何を言っているのかわからない。あまりの頭痛に、もはやうめき声をあげることくらいしかできなかった。
目の奥が一際大きく痛んだ。もうだめかと思っていたその時、頭痛が、眩暈が、耳鳴りが、唐突に消えた。煙のように、まるで最初からそんなものはなかったといわんばかりに、気がつくと僕は立ちどころに正常な状態に戻っていた。
「大丈夫か安藤」
竹中さんの声も普通に聞こえる。本当に夢か幻か。白昼夢でも見たのだろうか。
何かが起きて、そして何かが変わったという違和感が後に残った。いや違う。そうだ。何かが変わったのだ。頭痛が起こる前と後で何かが確かに変わった。
違和感を探り当てようとして周囲に目を向ける。そこで僕は妙なものを見つけた。
それはじっとこちらを見つめ返していた。背景のくすんだ壁に真っ白な白衣がゆらゆらと揺らめいて浮いている。一見するとそれは人のような形をしているように思えたが、どれだけ目を凝らしても炎のように揺らめく不鮮明な輪郭をとらえきることはできなかった。
「安藤?」
竹中さんも僕につられて周囲を見渡していた。が、何も見つからないようだった。
「大丈夫か……?」
竹中さんの声色に若干の哀れみが混じり始めたところで、僕はようやく正気に立ち返った。
「大丈夫です、久しぶりに外に出てちょっと立ち眩みがしただけですから」
「そうか、まあ、ずっと横になったままだったからな」
ほんの少し目を離したすきに、いつの間にかあの謎の影は姿を消していた。やはり、自分の見間違い、錯覚だったのだろう。
竹中さんと僕はそのまま病院の中庭を後にした。この時はまだ何とも思っていなかったが、今にして思えばこのころから僕の身に起きた奇妙な変化は徐々にその片鱗を見せ始めていたのだろう。
〇
病室に向かう最中のことだった。
エレベーターを待っていると、向かいの病室の一角から人が出てきたのが見えた。いやよく見るとそれは人ではない。特徴的な耳に尻尾。限りなく人に近い身体構造でありながらその運動能力は比較にならない。
ウマ娘。
いつ見ても不可思議な生き物だ。人の身体に耳と尻尾がアタッチメントのように取り付けてあるかのような違和感は、むしろ数多の生物の部位を組み合わせて創造された竜のような架空の生き物を彷彿とさせる。
母親らしきウマ娘と同伴のそのウマ娘の顔にはどこか見覚えがあった。トレーナーの僕が見覚えのあるウマ娘と言えば、もしかしたらそれなりにレースで活躍した娘かもしれない。
あれは確か……
「だーれだ?」
急に耳を手で塞がれた。
見知らぬ声。
驚いて振り返ると、全く知らない端正な顔がこちらをのぞき込んでいた。きれいに白く染まった葦毛にウマ耳が覗いていることから、すぐにウマ娘だと分かった。ウマ娘は総じて美人が多いとは聞くが、この娘はそのウマ娘の中でも頭一つ抜けている気がする。それと同時に不用意に後ろに立つと蹴り飛ばされるかのような危うさも感じるけれど。
色々突っ込みたいことはあるが……。
「えーっと、君は?」
「おいおい、このゴールドシップ様の名前を知らねぇのかよ」
知らないよ……。
冷めた目の僕にかまうことなく、ゴールドシップと名乗るウマ娘はがっつりと肩を組んでくる。妙に馴れ馴れしい娘だった。
「オメーが噂の「屋上から紐なしバンジージャンプして頭打った」っつうトレーナーか」
「いや、全然違うけど……」
「根性あるなぁ!!気に入ったぜ」
改めてゴールドシップ?をよく見ると、とんでもない格好をしていた。というか水着だった。真っ黒で露出も多いそれは抜群のプロポーションを際立たせてはいるが、場所が場所なので全くうれしくないどころか、近くにいるだけで身の危険を感じる。
「おっ?アイツはアグネスタキオンじゃねーか」
隙をみて逃げようとじりじり距離を取っていた足がピタリと止まった。
「知ってるのか」
「ふぁふぁふぁ、まあな」
思わずそう聞き返してしまったところ、ゴールドシップは気味の悪い笑い声をあげる。
「あいつはアグネスのやべー方、アグネスタキオンだ。脚の怪我で療養中って聞いてたけど、ここに通ってたんだな」
「へぇ……」
アグネスタキオン……アグネスタキオン?
「あの幻の三冠ウマ娘か」
どうりで見覚えがあるわけだ。なんせ近年に無敗の二冠を達成した学園内外問わず有名なウマ娘なのだから。
「……というか、アグネスタキオンを見知ってるって、お前もしかしてトレセン学園の生徒か?」
返事がない。
不思議に思って振り返ると、いつも間にか彼女はどこにもいなくなっていた。あたりを見渡してみても影すら見えない。この一瞬で忽ち消えるとは、なんて破天荒なウマ娘なんだ……
まあ、学園の生徒じゃなくても、一目見て彼女がアグネスタキオンだと分かるファンは多いだろうけど。
ていうか、彼女が学園の生徒だったらかなり問題なのだ。
今学園はおそらく授業中だろうし。
〇
「今日からですよね、あいつの復帰」
「ああ」
「……大丈夫ですかね?」
「なんだ心配してんのか。優しいじゃねえか」
「違いますよ!足でまといになれたらうちのチームが困るじゃないですか」
「アイツは優秀なトレーナーだよ。俺としては戻ってきてくれるならうれしいんだけどな」
「優秀って……」
杉原は竹中ににじり寄った。
「それ、俺とどっちが優秀ですか?」
「……おっ、来たぞ」
久々の職場だった。
ドアを開けると、コーヒーやら紅茶やらの入り混じった匂いが鼻孔をくすぐった。懐かしいはずなのに、どこかよそよそしい匂いだった。長い間立ち入ってないと、空気がまるで変ってしまったかのようだ。
竹中さんと杉原は何やら話し込んでいたらしく、杉原は僕の方を見ると口を曲げて睨みつけてきた。なんで?
「お久しぶりです、竹中さん」
「おう。どうだ、久々のトレセンは」
「知らない場所に来たみたいな感じですね」
竹中さんが背中をポンとたたいた。
「長く休み過ぎたな」
竹中さんに続いて杉原も、若干乱暴に背中をたたいた。
「気合い入れろよぉ」
「んじゃ、始めるか」
「はい」
適当に返事を返しつつ、改めて部屋の中を見回した。本当になにかが変わってしまった気がする。あの頭痛以降、何かとこの違和感を感じるようになった。今までと変わらないはずなのに、何かが違う。それとも変わったのは自分なのだろうか。怪我のことを考慮するとその可能性が高い気がする。
「……ん?」
これまでと全く同じ職場のはず。その職場に、全く知らない女性がいた。 黙々とノートパソコンを叩いている。
見覚えのない人。
ふとこの前の頭痛とそれに伴った幻覚のようなものを思い出した。
輪郭ははっきりとしているからあの時みた幻覚のようなものとは違う気がするが、どこかほかの人間とは違う浮いた雰囲気を感じる。
「ん?ああ」
竹中さんが僕の視線の先を追って、思い出したかのように口を開く。
「そうだった……福良さん、ちょっといいかな」
謎の女性がこちらを向いた。先ほどまで感じていた奇妙な空気がパッと四散した。
「えっと、あの方は……?」
それからこちらに近づいてきた福良と呼ばれた女性をしり目に、竹中さんにそう尋ねた。
「お前がいない間に新しく入ってきたトレーナーだ」
「こんな中途半端な時期にですか?」
福良というらしい女性の襟元につけられた真新しいバッジ。
「海外で研修してたから日本とは時期がずれたんだ。一応言っとくが、あいつはお前達と違ってサブトレーナーじゃないからな」
それは……随分優秀ってことか。
福良さんは僕と竹中さんの前にやってきて、足を止めた。かなりの美人だとは思うが、吊り上がった目と眉が少し威圧的だ。
「福良月火」
福良さんは初めて会うのだから当たり前と言えばそうなのだが、全く親しみの感じない声色でそう言った。
「先月トレセン学園に来たの。よろしくね」
真顔。
全くよろしくする気の感じない冷たい挨拶が終わった。
「ああ、俺は……」
「安藤さんでしょ」
「……」
生真面目に切りそろえられた黒髪がつやを放つ。
「ラックリーター、あなたの担当の娘今かなり不調みたいだから、しっかりサポートしてあげて」
福良さんの口調には有無を言わさぬ力があった。
「ちゃんと休んだ分働いてよね」
そんな捨て台詞とともに、福良さんはさっさと自分のデスクに戻っていった。
「お前がいない間少しだけ福良さんがラックリーターの面倒を見てくれてたんだ。まあ、基本的には俺らが面倒見てたけどな」
竹中さんが小声で補足を入れる。
「そうだったんですね。あとでお礼を言っとかないと」
福良さんはすでに手元の資料に集中して、こそこそ話しているこちらのことは気にも留めていない様子で仕事に取り組んでいた。彼女の方をぼんやりと見つめていると、杉原が肘で僕の脇腹をつついた。
「なあ、変わってるだろあいつ。ここに来た時からあんな感じなんだぜ」
「向こうで揉まれただけあって、肝が据わってるって感じがするな」
或いはあの肝の据わりようは、養われたものではなく生来のものであるかも知れなかった。
「さあ、俺たちも早く仕事するぞ。それと安藤、お前にはたんまり仕事が溜まってるからな。復帰初日で辛いだろうが」
竹中さんが僕の机の上に目を向ける。つられて僕もそこに目を向けると、大量の紙束が無造作に置かれていた。その重量、推し量ること最早鈍器。竹中さんの憐れむような眼が再びこちらに向く。
「まあ……頑張れ」
「頑張れよっ」
杉原は顔に満面の笑みを浮かべて、取ってつけたような励ましの言葉を僕に投げかけた。
ほんと、いい性格してるよお前は。
〇
僕にとって、仕事をしていない時間は苦痛だった。
趣味らしい趣味もない。だから退屈な時間をつぶす方法を知らなかった。
僕が病院のベッドで寝転がっている間にも、竹中さんや杉原、その他の同僚は仕事を続けている。気が付いたときには職場に僕の居場所がなくなっているのではないかという焦り。何より仕事をしていないときの自分は何者でもない、存在すらかすんでしまうかのような虚無感が襲い掛かってくる。考えすぎかもしれないけど、このまま煙のように消えてしまうような気がするのだ。
久しぶりの仕事はつらかったけど、やっぱり何もしないよりかはずっと精神衛生が良かった。
動きの悪くなった歯車に油を差すが如く、疲れた身体にコーヒーを注ぐため僕は近くの自販機にに立ち寄っていた。そこで偶然、福良さんとばったり会った。
誘蛾灯のような自販機の灯りに照らされた福良さんの横顔は、ゆらゆらと輪郭が揺れて幻想みたいだった。
「お疲れ様」
声をかけると福良さんは無言でこちらに顔を向けた。心なしか不機嫌な気がする。
「なに?」
「俺が休んでいる間ラックリーターを見てくれてたって竹中さんから聞きました」
「ああ、そう」
福良さんはすでに興味をなくしたか、自販機に再び視線を戻して飲み物を物色し始めた。 伊右衛門120円。
「で?」
「いや、なんというか、諸々ありがとうございました」
なんとかそれだけ言うと、福良さんに軽く頭を下げた。 すると福良さんは眉を顰めた。
「別に……あんまりにも見てられなかったから、ちょっとアドバイスしてあげたってだけ」
見てられなかったから、か。なんとなく気持ちはわかる。思うように結果の出せない日々、それに抗う様に無理やりに身体を痛めつける年端のいかない少女たち。トレーナーはそれをトラックの外から眺めながら、時折声をかけてやることしかできない。
トレーナーが怪我で休み、自分はレースで結果を残せない。不安に押しつぶされるままにトラックを無理に駆け抜けるラックリーターに同情を催したしたトレーナーはなにも福良さんだけではないだろう。
実を言うと、他のトレーナーの担当ウマ娘に唾をかけるような行動はご法度だというある種の不文律が、トレセン学園のトレーナーの間にはある。普通の教職とは違いトレーナーは担当のウマ娘の成績が自分の給与に直結している。金がからむと人間は恐ろしい。優秀なウマ娘の引き抜きなんかを恐れたトレーナー同士で諍いが起こった事例は過去にいくつも存在するのだ。無用なトラブルを避けるためにも、自分の担当のウマ娘以外には基本的に口出しは、断りを入れてから行うかそもそもしないのが普通だ。
でもまあ、僕はそんなこと気にしないけど。そしておそらく福良さんもそんなことを気にするようなタマじゃないのだ、きっと。
ガコッ、と自販機から音がした。
「……せっかくですし、何かおごろうか」
「いらない」
福良さんは目的の缶コーヒーを自販機から取り出すと、さっさとこの場を後に去っていった。話しかけたことに対する若干の後悔を胸に抱えながら、僕は自販機の中に硬貨を入れた。
「安藤」
福良さんと入れ替わるように竹中さんが入ってきた。
「ここにいたか……」
「はい、どうかしたんですか」
「いやなに、悪いんだけど先に行って視聴覚室の鍵開けてきてくれないか」
竹中さんの掲げた右手に、タグのついた鍵。ディンプルキー。
「ミーティングですか?わかりました」
「ああ、後で俺と杉原も行くから」
そういって竹中さんは手に持っていた視聴覚室の鍵を投げ渡してきた。
「じゃあ、頼んだぞ」
「はい」
自販機置き場を出ると、すでに外は夕日で赤く染まっていた。斜陽が窓を差して、廊下も赤く染まった。
窓の外に目を向けていると、唐突に夕日の角度が変わったような気がした。赤い光が目の奥を差して、あの突き刺すような頭痛が蘇ってきた。
「うっ」
まただ。
またあの耳鳴りがひどく頭に響く。
あまりの眩暈に平衡感覚を失いつつあった僕は、窓に半ば体当たるように体を凭れさせた。立っているのも難しかった。
グラグラと。
頭が揺れるような耳鳴りがひいては押し寄せる波のようにとめどなく鳴り響いて。
そして、やっぱりあの時と同じように、ふっと、強い風にかき消された蝋燭の炎のように、唐突に消えた。
大きく深呼吸する。
一体なんだ、これは。やはりあの怪我が脳に何か悪い影響を与えたのだろうか。だとすると病院に行った方がいいのだろうか。でもこれ以上仕事を休むのは嫌だ。
命に別条がないなら……。
そんなことを考えていた時のことだった。
ふと顔を上げて、そこで僕は初めて
「……?」
アグネスタキオン。
その圧倒的な強さで無敗のままに皐月賞を制した幻の三冠ウマ娘。丈の合わない白衣を模した白コートが特徴の勝負服。いつか液晶越しにみた記憶のある姿見そのままの姿で僕の前に立っていた。ブロックノイズのような横線が走っている特徴的なタペタムの浮かんでいる瞳が、じっとこちらを見ていた。実験の経過を観察するかのような目つきで。
だが、何かがおかしい。輪郭がはっきりしないというか、どこか現実離れしている。
この世のものじゃない。そんな気がする。
まだ鳴り響いている耳鳴りの中で、彼女が口を開いた気がした。
僕はその声を拾おうと、少しだけ彼女に近づいーー
「何してるの?」
振り返ると、福良さんが窓に寄りかかってこちらを見ていた。先ほど購入したと思われるコーヒーを片手に、眉を顰めながらこちらを凝視している。
「……いや、今から視聴覚室に行こうと思って」
いつの間にが日は沈んで、廊下には蛍光灯の光が灯り始めていた。急に現実に戻ってきた、という気がした。
「じゃあ早く行ったら?それとも休み過ぎで場所がわからなくなったの?」
「……」
何も反応しない僕を見て、福良さんは顔に若干の不安をにじませた。
「……もしかして、本当に分からないの?」
「いや、そんなことないよ」
福良さんを置いて僕は歩き始めた。
ほんの少し目を離したすきに、先ほどのウマ娘、アグネスタキオンの姿はどこにもいなくなっていた。
〇
何かが自分の身に起きている。そんな確信に近い予感があった。
かといって病院に行く勇気はなかった。医者の前で「頭痛や眩暈に耳鳴り、そして幻覚のようなものが見える」なんて言おうものなら即入院、最悪緊急手術。そうでなくとも仕事は続けられないかもしれない。仕事が好きなわけではないが、仕事がない状態の方がもっと辛い。あの虚無感に襲われ続ける入院生活に戻るくらいなら、いっそこの身がどうなろうと、何かしていたかった。
いつか取り返しのつかない状況に陥ったとき、僕はこの選択を後悔するだろうか。結論から言うと、したかもしれないし、しなかったかもしれない、だった。この選択によって確かに得たものがあり、逆に失ったものもあった。得難いものを得、失ってはいけないものを失う、痛み分けのような、そんな感じだった。まあ、僕は病院が嫌いだから、どちらかというと病院に行かなくてよかったという気持ちの方が強いのかもしれない。
視聴覚室に向かう僕の前に、再びアグネスタキオンが現れた。
トレセン学園のセーラー服調の制服を身にまとっていた。当たり前だけど。
問題は先ほど見たアグネスタキオンと全く服装が違うということだ。上から下まで、靴ですら、全く違う。謎に大量の試験管がつけられた白衣のような白コートも、その下に来ていたセーターやタイツなども。
アグネスタキオンは僕に全く興味がないのだろう、全くこちらに目を向けることなくさっさと通り過ぎていった。
目頭を押さえた。
先ほどの頭痛や耳鳴りが蘇ってくるようだった。この短時間で早着替えでもしたのか。頑張れば物理的に可能な気がしないでもないが、そもそもそんなことをする意味が分からない。
何かがおかしかった。何かがおかしくなってしまっていた。漠然とした不安と恐怖がじわじわと襲い掛かってくる。
いやな考えを振り払うように僕は急いで視聴覚室に向かった。
ドアノブがぐるりと回転する。
視聴覚室のドアを開けると、その先には暗闇が広がっていた。
電灯のスイッチはどこにあっただろうか。定石だと入り口付近にあるはずだから、手探りでスイッチの位置を探り当てようとした。
その時だった。
頭の奥に、電気が走るような、突き抜けるような痛みが走った。
瞬く間に通り過ぎていったそれを追うようにして振り返り、
そして後ろにいた
思わす後ずさった。背中を壁に強く打ち付け、小さくうめき声が漏れた。
暗闇の中にそいつはいた。これだけ暗いのに僕の目にはその姿がはっきり目に映っていた。相変わらず輪郭は揺らめいていたが、まるでスポットライトを浴びているかのようにその姿が暗闇に光って浮いている。明かりのようなものは周囲にない。せいぜい僕の後ろにあるドアから漏れる蛍光灯の光くらいだった。
そしてそれは当然のようにアグネスタキオンの姿をしていた。だが先ほどすれ違った制服の彼女とは明らかに違う存在だという確信があった。
白いコートが暗闇に浮かび上がり、それが彼女の非現実感をより強めている。
幽霊……いや、ドッペルゲンガー。
「そんなに怖がることはないよ、安藤君」
呼び名なんて何でもいい。そいつはあろうことが口を開いて僕に話しかけてきた。自分が臆病だとは男として思いたくはないけど、この時ばかりは流石に心臓が飛び跳ねた。
「……俺に言ってるのか?」
名前まで呼ばれているのに我ながら間抜けな返答だ。意を決した僕の会話に、目の前の幽霊だがドッペルゲンガーだかの口元が歪んだ。
「キミが私をここに呼んだんじゃないか」
僕が?
どういうことなのか問いかけようとして、パッと明かりがついた。それと同時にアグネスタキオンの姿も消えた。
驚いて後ろを振り返ると、杉原が口を半開きにしてこちらを見ていた。スイッチを押したらしい指が中空でピタリと静止している。
「……なにやってんだお前」
「……」
しばらく無言で見つめ合う男二人。
部屋の中で電気もつけずに佇んでいる。なんと説明すればいいのかわからない。素直に「幽霊見ました」といっても、何も言わなくても、色々と問題があった。
「いや、別に……」
「お、おう……」
蛍光灯がチリチリと鳴る。僕はすぐに杉原から目を逸らした。
杉原の視線が背中に突き刺さるが、この時の僕は杉原のことなんて気に留める余裕がなかった。
この日は一日中、白昼夢のようなこの出来事に気を取られ続けていた。