「ラックリーターはまず間違いなく、13番のイケタシルビアとぶつかるだろう」
竹中さんが、ホワイトボードに書き込まれた対戦相手の情報をもとに作戦会議を始める。チームのメンバーのレースが近づくと必ず催される、チームレグルスの恒例行事だった。
「そうですね。他の選手のマークも強くなるでしょうし、彼女の脚質的に最終直線でバ群に囲まれることもあるかもしれません。この一週間はレーンの位置取りを徹底して覚えさせるつもりです」
「ああ、……油断は禁物だぞ。レースは何が起こるかわからないからな」
「はい」
とは言ったものの、僕も竹中さんも今回のレース、ラックリーターの初重賞は、まず間違いなく負けることはないだろうと踏んでいた。いや、口には出さないだけで、彼女の勝利が確実だということは、この前のトレーニングで彼女が出した時計を見れば明らかなことだった。
彼女の実力は、今やチーム内でも突出し始めていた。
担当のウマ娘がめきめきと能力を伸ばしている。トレーナーとして喜ばしい限りじゃないか、と楽観するには些か、ラックリーターの成長ぶりははたから見ても異様だった。これじゃまるで……。
「それじゃあ他の対戦相手の、予想される作戦についてだが……」
と真剣な表情を崩さずに話始める竹中さんの年季の入った顔を、サクラバクシンオーの両手が覆った。
「うわぁ、本当に見えていらっしゃらないみたいですねっ!!」
「……」
サクラバクシンオーの幻影。
今すぐこいつをこの場からつまみ出したいところだが、僕は彼ら幻影を追い出す術を知らなかった。
「私たちトレセン学園の生徒のために、トレーナーさんたちはこうして日々身を粉にして働いてくれてるんですねぇ!有難いですっ!」
「そう思ってんなら邪魔するな」
「ん?何がだ?」
「何でもないです、続けてください……」
竹中さんの訝し気な表情に素早く頭を下げてやり過ごした後、はしゃいでいる幻影に睨みを効かせる。視線に「これ以上会議の邪魔をするな」の意を込めたのだが、満面に笑みの彼女を見ていると、一ミクロンもこちらの意図が伝わっている気がしない。暫く幻影を見ていると、彼女は「なるほどっ!」といった風な表情に変わった後、その場で屈伸し始めた。僕たちは過去類を見ない、ディスコミュニケーションの極致に達していた。
「しかし、レースまで残りの日数も少ないから、トレーニングの強度は落として調整の段階にーー……」
「安藤さーんっ!!久々に運動したくなってきたので、ここで踊っててもいいですかね?」
「勝手にしろ」
「あ?」
「いえ何でもないです」
今度は僕が竹中さんに睨まれ、僕は即座に頭を下げる。
竹中さんに対しこれ以上の粗相は拙い。最悪クビになるからな。ていうか、杉原じゃないがマジで覚えてろよお前。
〇
サクラバクシンオー。
デビュー当時から、その圧倒的なスピードとパワーから周囲の目を引いていたウマ娘だった。その後の条件戦の結果から彼女がスプリンターであることは明白だったはずだが、なぜか中距離路線である、皐月賞の前哨戦スプリングステークスに参加。
その結果は惨敗、一着だったミホノブルボンに大差をつけられての12着。
……これか?
その後は順調に短距離路線を爆走しているみたいだが、レースでケチが付いてるものと言えばこれくらいだ。
となると彼女の悩みというのは……もしかして本当は短距離じゃなくてクラシック路線、……はもう無理だから、中長距離路線に行きたかった、とか?
だったら彼女に中長距離路線を走らせれば、幻影が消える……。
……。
僕は頭を抱えた。
いやいやいや、それはどう考えても難しいって。彼女は誰がどう見ても生粋のスプリンター。中長距離でまともに走れるとは全く思えない。彼女の担当トレーナーも、それをわかっているから路線変更したんだろうし……。
どうしたものか、と頭を捻っている僕の目の前に、缶コーヒーがコトリと置かれた。顔を上げると、福良さんがこちらをじっと見下ろしていた。
「あー、ありがとう福良さん。でも珍しいな、おごりなんて」
「なんか、ツかれてるらしいしね」
らしい?
誰かから僕が疲れてるとでも聞いたのだろうか。
「なんか知らないけど、ともかくありがとう、コーヒー一つでも大いに助かるよ」
すでにしっとりと露が降り始めている缶コーヒーを遠慮なく手に取り、タブを開ける。
「……」
缶コーヒーを半分ほど飲み終えた後再び仕事に戻り、パタパタとタイピングの音が続け、それからふと気配を感じてまた顔を上げると、福良さんがまだその場に留まったままだったのにようやく気が付いた。
「どうかしたのか?」
「……」
パソコンのキーボードをたたく手を休めずにそう尋ねると、福良さんは無言で近くの椅子に腰を下ろした。
「安藤君って、どうしてトレーナーになったの?」
「なんだよ、藪から棒に……」
「なんとなく聞きたかっただけだけど」
僕はパソコンを叩く手を止めた。どう答えたものか、少しだけ考えた。
「別に、普通の理由だよ。昔学園でレースに走ってた従妹がいて、そのおかげで子供の頃よく一緒にレースを観戦してたからな。多分それのせいだと思う」
「……へぇ」
「特に深い理由なんてねぇよ。そっちはどうなんだ」
「私も、家族が走ってたから」
「じゃあ普通なんじゃないか」
僕がそう言って笑って、パソコンから目を剥がして福良さんの方に顔を向けると、福良さんは少しだけ遠い目を明後日の方向に向けていた。そのまま、僕に話し続けた。
「私がトレーナーになったのは、知りたいと思ったから。どうしてウマ娘が走るのか、そしてレースに魅せられるのか」
知りたいから?僕はいつかそうしたときと同じように、まじまじと彼女の顔を見た。それでもやはり僕には、彼女の考えていることが何もわからない。
「……どうして、教えてくれたんだ?」
「なんとなく、ね。それに、私が本心を言えばアンタもそうするんじゃないかもって思ったから」
……。
「それじゃ、またね」
「あ、ああ」
「早く帰って寝なさいよね。それからお祓いにも、なるべく早くね」
「ああ……お祓い?」
言葉の真意を確かめようと思った時には、福良さんは彼方を歩いて去っていってしまった。僕はしばらく彼女を目で追っていたが、大きく息を吐いて椅子に深く腰掛けた。
本心、か。
そんなものは僕自身にだってわからない。自分の思っていることを、正確に言葉にできる人間は少ないだろう。それに、仮にそれができたとして、本心を他人に話す必要などない。
僕は、自分の心の深いところまで、他人に教えようなんて思わないし、知ってほしいとも思わない。
そして僕はまた、僕の本心に従って生きようなどとも思わない。だから、そんなものは僕にとっては、始めから存在しないのと同じなのだ。
〇
「その時の怪我が原因で、私たちが見えるようになったんでしょうかねぇ」
「そうかもなぁ、その可能性が高いかもなぁ……」
湯舟にどっぷりと浸かり、一日の疲れを体の外に流し出す。普段はシャワーで済ませてしまうことも多いが、今日はわざわざ湯を張ってまで風呂に入りたいと思うくらいには疲れが溜まっていたのだ。
「色々悩みが尽きず、お辛いでしょ~」
「う、うん、まあ」
僕は湯船の中から少しだけ肩を出して、湯煙に交じって揺らめいている幻影に、胡乱な目を向けた。
「ていうか、俺のことはいいからお前はいい加減、自分の目的を思い出せよ」
もう風呂場から出てけなんて言わないからさ。これだけ譲歩してやってるんだからさ。いい加減頼む。
「ああ、心配しなくても、安藤さんの安藤さんは湯気とお湯でいい具合に隠れてますよっ!!」
「それ、口にしてくれないほうが幾分かマシだったからね?」
そういうテレビでのコンプライアンス的な問題じゃなくて、プライバシー云々の話なんだよね。それにそんな際どい隠れ方が受け入れられるわけないだろ。
「アレ?でも私の読んだ漫画では、女性のあられもない裸体が湯気とか水で隠されてましたよ?」
「いやもうそれはいいから!」
湯舟がまるで僕の心の機微を映し出しているかのように、激しく波立つ。僕の心の底から漏れ出た悲痛な叫びをどう受け取ったのかは定かではないが、幻影は、「あ、そのことなんですけどもね」と、何やら自信ありげな笑顔とともに、
「つい先ほど、「どうしてトレーナーになったのか」について話してましたよね」
「うん、そうだな」
「それで私、思いました。もしかしたら私、学級委員長の次はトレーナーになりたかったのかもしれない、と!!」
……。
「ん?」
「なので私、明日一日トレーナーの職務体験してみたい、と思っている所存です!!」
「ええ……」
「と、言うわけで明日は」
サクラバクシンオーの幻影は思いっきり頭を下げた。その拍子に湯船に顔が入り込んでいたが、湯舟には一切波が立たなかった。
「よろしくお願いしまーすっ!!」
「ああ……そう……」
「やってやりますよっ!!新人トレーナーサクラバクシンオー、バクシンしますっ!!」
湯船の中で僕はぐったりと横たわった。
もう、好きにして。
多分違うと、僕はおもいますけども。
〇
トレセン学園に勤めるトレーナーたちの朝は早い。だいたい朝の五時くらいから朝のトレーニングを始めるウマ娘たちのため、朝の四時くらいにはトレセン学園に出勤していなくてはならないのだ。トレーナーの幾人かは、出勤が面倒だからと日ごろから泊まり込んでいるものまでいるのだ。
朝五時頃、僕はストップウォッチ片手にチームの早朝トレーニングを見守っていた。
「キレイですねぇ……朝日」
「……」
僕は隣にいる幻影を、呆れた目でみた。
しかし、確かに僕も、この時間帯のトラックは中々見ごたえのある綺麗な景色だとは思っている。毎日人の手によって甲斐甲斐しく整えられた瑞々しい芝が、朝日を受けてキラキラと黄金色に輝いている。ある時間にしか見ることのできないそれは、まさに黄金の園だ。
とは言っても、意外にトラックを占める芝の割合は少なく、見渡す限りの黄金、というわけでもなかった。
「朝早くから、本当にご苦労様ですねぇ」
「……」
景色から目を外して、再び幻影の方に目をやる。こいつ、もうすでに目的を忘れつつあるのではないだろうか。
いい加減キレようか?いや、しかし、今はまだ朝も早いし、まずはこの時間にここでこうしてたっていることを素直に評価してやろう。
でもこいつ「頑張って起きてきましたっ」って感じではないんだよなぁ。
「……お前、眠くないのか?」
「あ、はい、全くですね。どうしてでしょう」
「なんだ、ただのズルだったのか」
「ちょわっ!?何ですかズルって!!?」
やれやれと頭を振る僕の数歩離れた隣で、僕を見ていた杉原がやれやれと首を振った。
〇
その後、月に数度ほど回されてくる、校門前での挨拶運動を始める。寮や自宅、アパートから登校してくる生徒たちと僕たちレグルスのトレーナーは、眠いのを必死に堪えて挨拶を交わす。
「おはようございまーす」
「ああ、おは」
「おはようございまーす!!新人トレーナーサクラバクシンオーでーす!!」
「……」
寝不足の頭に喧しい声がよく響く。
〇
午前中。
生徒たちが授業を受けている最中は、トレーナー室にこもって事務作業だ。
キーボードをたたきまくっていると、幻影がパソコンの中身を顔を突き出して覗いてくる。幻影の頭が邪魔でディスプレイが見えない。
「タイピング速いですね~、尊敬しますっ!!」
「……」
キーボードの叩きすぎで、指が炎症を起こしそう。
〇
昼、授業を終えた生徒たちが、朝錬にするような慣らしの運動ではない、本格的なトレーニングを始める。僕たちトレーナーも気合いを入れて臨む必要のある時間だ。
「みんな速いですね……私もバクシンしたくなってきました」
「……」
コイツをどう処すべきか、頭の中でいよいよ検討し始めていると、トラックをぐるりと一周回ってラックリーターが戻ってきた。
「トレーナーさん、外周終わりました。……トレーナーさん?」
「あ、ああ、じゃあ次はいつも通り……」
「あ、それ私、私にやらせてください!!」
ラックリーターに指示を出そうとすると、幻影が僕とラックリーターの間に割り込んでくる。
「どうかしました?」
おそらくラックリーターはきょとんとした顔をしているのだろうが、幻影のせいで全く見えない。
「いや、何でも」
「私が指示出したいです!!トレーナーさんっぽいことしてみたいでーすっ!!!」
「……」
うぜぇ。
〇
夜。
薄暗い部屋の中、僕は一人残って対戦相手の情報を確認していた。
「こんな夜遅くまで残業ですか……」
「ラックリーターのレースが近いからな。それよりも、どうだったんだよ」
「どうとは?」
「いやだから、なにか思い出せたか、きっかけはつかめたのか?」
「ああ」
幻影はしばらく顎に手を当てて考え込んでいたが。
「いや、全く。なんかトレーナーの仕事って私が思ってたのと違ってたっていいますか」
「ふざけんな」
そんなこんなで全く進歩がないまま、時間だけが過ぎていく。僕と幻影の足並みは全くそろわず、それは宛らど下手な二人三脚でもしているかのようで、歩き出すたびに躓き転び続けるのだった。