僕は、ともすれば背もたれを破壊しかねない勢いで、全体重を椅子に凭れさせて座りこんでいた。
「あーあ……」
「あの、本気で考えてくれてます?私のこと」
幻影が後ろから何か話しかけてきたが、振り向く気すら起きない。
「あーあ、コイツいつになったら消えてくれるんだろ」
「学級委員長は不滅ですっ!!」
「明日お祓いにいこうかなぁ」
「安藤」
スマホで最寄りの神社を検索していると、いつの間にかいたらしい竹中さんに突然声をかけられ、思わず飛び上がった。
「は、はい!」
勢いよく立ち上がった僕に、竹中さんは面食らったように一歩後ろに下がる。
「いや……ラックリーターのダンスを見てやってくれって言いに来ただけだ。本番も近いからな」
「わかりました……」
静かに椅子に座り直した僕に、竹中さんは「なあ、安藤……」と恐る恐るといった風に話しかけてくる。
「お前、杉原の言う通り、本当にツかれてるのか?」
「えっ……ああ、確かに、ちょっと疲れてるのかもしれませんね」
僕はそっと、竹中さんの後ろに陣取っている幻影に目を向けた。
「そうか」
僕の言葉を聞いた竹中さんの眼には、何故か慈愛の色が浮かんでいた。
「いい機会だし、ラックリーターのレースが終わったら、一度ゆっくり休めよ」
「はい、そうさせてもらいます」
「お祓いにもちゃんと行けよ」
「はい……はい?」
僕はギョッとした。もしかして、さっきの幻影との会話を聞かれていたのだろうか……。冷や汗を流す僕の傍らで、幻影が何やらぶつぶつと独り言を呟いていた。
「ダンス……ダンス……はっ!?」
竹中さんが部屋を出ていくとほぼ同時に「もしかしてっ!」という文字がでかでかと顔に書かれてあるかのような、そんなわかりやすい表情になった幻影を前に、僕は呆れたように首を振った。多分その思い付きも、どうせ勘違いだからさ。
〇
ダンス練習場に来たのは初めてじゃないのだが、ここに来るとどうも落ち着かなかった。元々生徒たちがよく使う場所で、トレーナーがここを訪れることはあまりない。だからここに足を運び入れるたびに肩身の狭い思いをする。
「いやぁ、懐かしいですねぇここも」
サクラバクシンオーの幻影はそう言って、部屋の周りをちょろちょろと動き回る。僕は部屋に常設されている巨大な鏡に目をやった。目をやった、と言っても、この部屋にいると否が応でも目に入らざるを得ないその鏡は、部屋全体を映し出すほどの大きさ。これのおかげで部屋が実際よりもずっと広く感じられる。この鏡を使って、生徒たちは自分たちのダンスの動きを確認するのだ。
「安藤さーん!?これ見て下さい、すごいですよ!!」
「おお、すげぇ」
幻影は相変わらず鏡に姿を映さなかったが、驚くべきことに鏡の中の空間と、現実の空間を行ったり来たりしていた。その摩訶不思議な光景には僕も素直に感心せざるを得なかった。しかし、感心していたのも一瞬で、幻影がそれを利用して鏡を中心に反復横跳びし始めたのを見て一気に興ざめした。
「心なしかいつもより速く反復横跳びできている気がしますよ安藤さん!!……安藤さん?」
僕は幻影を無視して、部屋の隅で踊っているラックリーターに声をかける。
「あ、トレーナーさん」
「お疲れ。見たところ、もう十分に指定の楽曲は踊れるみたいだな」
「はい、いっぱい練習しましたから……あ、一度通しで踊ってみるので見ててください」
「ああ」
足元に置かれたスピーカーから、周りの騒音にしては控えめな音が流れ始める。ラックリーターは、鏡ではなく僕の方へ体を向けてダンスを踊り始めた。
「さぁて、私も踊りましょうかねっ!」
そういってラックリーターの隣にて、爆速で踊り始めるバクシンオーの幻影。
「フッフッフッ、中々やりますねぇ!」
いつの間にかダンスバトルになっていたらしいバクシンオーの幻影は、更に自分の踊りをヒートアップさせる。あまりの速度にもはや流れている音楽と体の動きがあっていない。
「しかし、私も負けません……よ!?」
案の定、歩調が合わずバクシンオーはその場にすっころんだ。まあ幻影だし大丈夫だろう。僕は気にせずラックリーターのダンスに集中する。
「くぅ~~ッ!音楽の方が私のスピードについてくれないとは!盲点でしたッ!」
盲目の間違いだろ。
暫く音楽が流れ続けて、それに合わせて踊り続けるラックリーターを見て、バクシンオーは転がり続けて、そんな時間が数分ほどたった時のことだった。
もっと早くに気が付くべきだったが、あいにく僕はラックリーターのダンスに集中していて気が付かなった。
バクシンオーの幻影が起き上がってこない。
「……」
ラックリーターから少しだけ目を離して、幻影の方に注力する。まさかとは思うが、怪我でもしたんじゃないだろうな。
しかし、幻影は痛みに悶えている様子もなく、座り込んだままある一点を凝視しているだけだった。
僕は後ろを向いた。
「ミホノブルボン?」
彼女がこの部屋に入った途端、部屋全体の空気が一変した。皐月賞とダービーを無敗で勝利した、トウカイテイオーに続く二冠ウマ娘。そして今や三冠である菊花賞へリーチを駆けている。今を時めくウマ娘に周りの生徒も若干色めき立っているというか、浮足立っている。
そのミホノブルボンにバクシンオーの幻影が何やら思うところがあるらしい。
「……」
いや、今考えることじゃないな。今はラックリーターの方に集中しなければいけない。と、ふと視線を元に戻した時だ。
「……あっ」
やばい。
と思った。
だが、僕が急いで声をかけようと思った時には、もう遅かった。ラックリーターは脚元にあるスピーカーに躓いて、勢いよく数歩よろめいた。
「リーターっ!!」
彼女が転ぶ直前に咄嗟に駆け寄り、何とか足と体を抱えて転倒を防ぐことはできた。しかし、今の動きは……。
「大丈夫か?」
「あ、……はい」
ラックリーターは、目を白黒させつつもそう答えた。
「悪いけど、靴を脱いで足を診せてくれるか」
「えっ」
ラックリーターは一瞬だけ嫌がる素振りを見せて、僅かに左足首を庇った。それで予感が確信に変わった。僕は極めて迅速に彼女のシューズと靴下を脱がせると、左足首の状態を確かめる。
見た目に今のところ変化はない。だが、患部が徐々に熱を帯び始めているのが分かった。直ぐにでも腫れてくるだろう。僕は日頃から携帯している救急用品の中から冷却材を取り出して、ラックリーターの左脚首に吹きかけた。
「俺の注意不足だった。本当にごめん……」
「い、いやいや」ラックリーターは慌てて手を振る。「あんな所に置いた私のせいですよ!それに、軽く捻っただけで大したケガじゃないです」
「……」
確かに、ラックリーターの言う通り、大したケガじゃない。僕が直前で脚をつけずに転倒を防いだおかげか、軽いねん挫で済んでいる。一週間安静にしていればすぐに感知するだろう。しかし、レースが近い今でのねん挫は、どんなに軽くても致命的だ。出走自体は可能だろうが、今後のことを考えるとなるべく怪我した状態での出走は避けたい。要するに、次のレースを断念しなければならない、かもしれない。
ラックリーターもそのことが分かっているから、慌てているのだ。
完全に僕のミスだ。
今回の怪我は、起こり得ることが十分に予測できた事故だ。ちゃんと僕が足元に置かれたスピーカーの危険性に思い至っていれば、ラックリーターが鏡を介してではなく、僕の方を向いていて、足元がおろそかになっていることに気が付いていれば、確かに防ぐことができたはずなのだ。
ここ数日間、明らかに集中力が散漫していた。
その挙句の果てがこれだ。
「安藤さん」
僕が不甲斐なさに項垂れていると、幻影が話しかけてきた。だが今の僕には答えてやる元気がなかった。
「そう気を落とさないでください」
幻影がそう言いつつ、ラックリーターの近くに腰を下ろす。
「起きてしまったことは、なかったことにはできません」
ああ、その通りだよ。普段はボケボケしているのに、嫌に聡いことを言うじゃないか。
「ですが」
幻影はラックリーターの左足首に手を伸ばす。
「なかったことにはできなくても、起きた出来事を変えることはできるじゃないですか。安藤さんなら」
幻影の右手が、ラックリーターの足首に
幻影は、それから僕の右手を左手でつかんだ。と思った瞬間、僕の手にも幻影の手が融合した。幻影の手は不思議な感触がした。もし火に触れることができたのならこんな触り心地がするのだろうか、とそんなことを思った。
その直後、幻影を介して、ラックリーターから僕へ何かが流れ込んできた。
「トレーナーさん……?」
ラックリーターも何かを感じ取っているらしい。
そして僕も、何が起きたのかすぐにわかった。
「ラックリーター、足の調子はどうだ?」
「えっ、……あ」
ラックリーターはその場に立ち上がって、何かを確かめるかのように何度か足踏みした。
「痛くない……」ラックリーターはポツリとそう口にする。「痛くないです!」
「思ったより酷くなかったみたいだな。よかったよ」
「絶対にやらかしたと思ったのに……」
「一応、念のため今日はもう引き上げて、保健室でちゃんと見てもらおう」
「アレ?」
ラックリーターは、そこでようやく僕が左手を庇っていることに気が付いたらしい。
「どうしたんですか、それ?」
「ああ、さっき支えた拍子にちょっと捻ったみたいだ」
「ええっ!?大丈夫なんですか」
「大丈夫だ」
心配そうな顔をするラックリーターを連れて、僕は保健室へ向かう。
怪我の移動か。
いよいよこの力も、本格的に超常じみてきた。
僕は後ろからついてくる幻影に目を向けた。彼女にも、そろそろちゃんと聞かなければならないのだろう。
〇
「ズバリ、お前はクラシック路線に行きたかった」
ラックリーターを保健室に送ったその日の夜。空いている部屋を見つけて、僕はそこで幻影と再び対峙した。
「ところがお前にはスプリンターとしての才能はあっても、ステイヤーとしての能力には欠けていた。だから中長距離適性が必須のクラシック路線は断念した」
「そうです。トレーナーさんに指摘されるまでわからなかったのですか、私にはスタミナがありませんでした。信じられないことに、学級委員長たる私にも意外な弱点があったのです」
もういちいち突っ込んでいられないので、口に出したいのをグッとこらえて話を続ける。
「それがお前の後悔の源流、ここに幻影として現れた理由だ。違うか」
「うーん、わかりません!」
「いや、もうそれで間違いないから!」
強引に話を進めていく。
「ミホノブルボンをお前が妙に意識しているのは、彼女がお前と同じスプリンターでありながら、クラシック路線を進んでいるからだ」
「ふむ」
顎に手を当てた状態で、バクシンオーは何やら考え込む。
「それで、安藤さんはこの私にどうしてほしいのでしょうか?」
「お前の後悔を解消して昇天させるためには、もう一人のお前にミホノブルボンと同じ路線、つまり短距離のほかに中長距離のレース、日本ダービーとか有マを走らせるのが手っ取り早い。でも多分それは無理だ」
「そうでしょうね」
「そこで、俺に次善策がある。お前自身がミホノブルボンと長距離のレースで競い合って、お前の中のわだかまりを昇華させるんだ」
「おお!!……おお?」
バクシンオーは一瞬は歓喜したものの、すぐに落ち着いて疑問符を頭に浮かべながら(こいつの場合始終浮かんでいる気がしなくもないが)頭を捻った。
「しかし、どうやって?今の私ではとてもレースなんて……。一応それっぽいことはできなくもないですけど、でも、この身体じゃ走ってる気がしないんですよね」
それについては問題ない。俺にはお前たち幻影を、不完全ながらもこの世に蘇らせる術がある。
幻影にも思い当たる節があるらしく、「あっ」っと手をポンとたたく。が、また再び頭を捻り始めた。
「ああ、あの、アレですよね……確か……ルビが英語の……」
……。
「……
「そう、それです!いやぁ、かっこいい名前ですね!」
やめろよ。恥ずかしいから。
「ところでどうしてルビを英語にしたんですか?」
「いいんだよそんなことは気にしなくてもっ!!」
ついカッとなってしまった頭と顔を手持ちの冷却剤でプシューと冷やしつつ、コホンと咳ばらいを一つして気を取り直す。
「とにかく、変幻した状態で、ミホノブルボンが走ってるのに並走すれば、疑似的にレースしたことになるだろ。セッティングは俺の方でなんとかしてやるから」
「でもそれだと向こうは私たちのこと、見えないんですよね?レースで見えない相手と競うって、かなりアンフェアじゃないですかね?」
面倒くせぇな!
でも大丈夫だ。それについても対策がある。以前、タマモクロスの幻影の一件の時に新たに発現した力、
「心伝を使えば、一時的に他者に幻影を知覚させることができる。これで満足か」
「至れり尽くせりで恐縮です!!しかしそんな技があったとは……はっ!」
どうやらまたいらないことを思いついたらしい幻影が、ハッと目を見開いた。
「もしかしてついさきほどの、私と安藤さんで編み出した新技には名前がまだついてないんですか!!?」
「あ、ああ」
新技ってあのケガの移動のことだろうか。ていうか、編み出したってなんだよ。そんな覚えねーよ。
「じゃあ、私が名前つけてもいいですか?」
「ダメ」
「驀進、なんてどうでしょうか!あ、でもこれ英語でなんて言うんですかね?」
「いや名前とかどうでもいいから」
それよりも、重要なのは幻影が僕の提案を受けてくれるかどうか、だ。
「まあ、他でもない安藤さんの提案なら、やってみるだけやってみましょう!」
「あ、でもその前に……」とバクシンオーは続ける。
「一つだけ、私のお願いを聞いてもらってもいいですか?」
「なんだ。できる範囲でなら叶えてやる」
「実はですね、私前からどーしても欲しかったものがありましてー…」