ブルー・ホースマン   作:堂廻り 眞くら

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 私には、母が何を考えていたのかわからない。

 だから、何を考えていたのか、どんな思いだったのか、それを知りたい。

 

 でも、多分、そんなことはこの先も絶対にわからない。どれだけ母の居たトレセン学園に勤務しても、ウマ娘たちと交流を重ねても、他人の考えていることや、感じていること、他人の思考、心に近づくことなどできはしない。

 

 今でもたまに、まだお母さんのいた小学生の頃の夢を見る。

 夢の中の母は、私にやさしかった、と思う。でも、父や祖父は、母が私のことを恨んでいた、憎んでいたとさえ言った。彼女は常々彼らに私の愚痴をこぼしていたという。

 

 どちらが本当の母だったのか、或いは、どちらも本当の母ではないのか。

 

 わからない。他人の心、いや自分の心さえ、見ることや触ることができない実体のないものなのだから。わからないから、私たちは心に触れようとすると、迷ったり戸惑ったりすれ違ったりする。

 

 でも、安藤君は迷わずに他人の奥深いところまで突き進んでいく。どうして私や他人のように、迷わないのだろう。

 

 

 

「着いたぞ」

 

 目を覚ますと、いつの間にか車は寂れたアパートの前に止まっていた。

 

「ここに、小林さんが?」

「そうらしい」

「へぇ……あ」

 

 車を降りてすぐに、私は同じアパートの駐車場の中に見知った車を見つけた。私は近づいてそれをじっと観察する。

 

「この車、小林さんのと同じ車種だ」

 

 アパートの閑散具合は酷く、この駐車場もほとんど使われていない。というか、私たちの車と、後はこの車だけしか駐車されていなかった。この車が本当に小林さんのだとすると、彼は今アパートの中にいるということだろうか。

 

「いこう」

「ちょっと、部屋番号は?」

「……ああ、大丈夫。もう調べがついてるから」

 

 安藤君は迷いない足取りでアパートに入っていく。私も後をついていこうとして、ふと車窓越しに車の中が少しだけ見えた。何か妙なものが後部座席に積んである。

 

「……?」

「福良さん、来ないのか?」

 

 近づいてよく確認しようとして、アパートの入り口付近でこちらを振り返った安藤君に呼び止められた。

 

「すぐ行く」

 

 私は、車を離れ彼の後を追った。気になるがまあ、勝手にどこかに行くというわけでもない。あとで確認すればいい。車何て、ウマ娘よりも速く走行するとは考えられない程、普段は不気味なほど動かないものなのだから。

 

 

 アパートの中は、集合住宅とは思えない程しんと静まり返っていた。音の聞こえない不気味なアパートの中を安藤君は、まるで見えない妖精に案内してもらっているかのような、そんな淀みない足取りで進んでいく。

 やがて三階にたどり着いた私たちは、ずらりと並ぶドアの前を横切った。

 

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 307号室のドアの前で安藤君は足を止め、それからすぐさまチャイムを鳴らす。

 私の耳に何かが動く音が、ドアの向こうから聞こえてきた。私はドアの横の表札に書かれた「小林」の名前を見た。

 

「本当に」チャイムを鳴らして十数秒ほどたって開かれたドアの隙間から現れた人物に、私は思わずといった風に呟いた。「小林さん……」

 

 中から現れた人物は、正真正銘小林さんその人であった。彼は酷く疲れた顔をしていた。

 

 

 

 

 

 

「そうか、アイネスの怪我、治ってたんだな」

「はい、ですから、トレーニングを再開すればいつでも復帰は可能、それに本人も復帰には前向きです」

 

 小林さんの部屋に招かれた私たちは、六畳間ほどしかないと思われる部屋の中央で、立ったまま話をしていた。

 安藤君は手に持った診断書やらの資料を小林さんに手渡し、何やら懸命に説得している。

私はあくまでも不干渉を決め込み、少し離れた場所で二人を見守っていた。

 その間特にすることもなかった私は、ぼんやりと部屋を見回した。人が住んでいるとは思えない、あまりにも物の少ない部屋だった。テレビなどの家電も見当たらない。本当に最低限暮らせるだけの空間、といった印象だ。それに、人を招く想定がなされていないのか、部屋の隅にテーブルと一緒に置かれている椅子の数は一つ。ちなみに二人はその椅子に私が座るように勧めたが、私は断固として座らなかった。

 

「可能性は低いですが、屈腱炎の再発への備えも十分です。知り合いに比嘉さんっていう優秀な整体師もいますし。今度小林さんにも紹介します」

「あ、ああ、ありがとう」

 

 小林さんは、ほんの少しだけ戸惑ったような、それでいてどこか達観したような、そんな顔を始終作っているように私は感じた。

 

「でも、俺はもうトレーナーに復帰は……」

「現状、小林さんは『有給休暇後5日間無断欠勤』しているだけです。これくらいなら、休みボケでしたで済みますよ」

 

 上手くやっても相当こってり絞られるだろうけど、という余計な口出しはしっかりと飲み込んだ。

 

「そうか、チームの皆は」

「レグルスの方で預かってます。トレーニングに支障はありません。いつでも小林さんに引き継げる状態ですよ」

「そうか、そうなんだな……」

 

 小林さんは嬉しそうにほほ笑んでいた。本当にチームの生徒たちが大事だったんだろうな、と思わせる笑顔だった。どこか胸のつかえがとれたかのような、ほっとしているようにも感じた。どうやら安藤君の説得は上手くいっているらしい。

 

「ですから、小林さん。いつでも帰ってきてください。アイネスフウジンも小林さんの帰りを待ってますよ」

「ありがとう、安藤。それに福良さんも。キミたちは本当に優秀なんだな」

「いや、そんなことは……」

 

 私は何も言わなかった。だってなんにもしてないし。だけど、小林さんは気にした素振りを一切見せずに、私たちに笑顔で言った。

 

「ありがとう、二人とも」

 

 それからしばらく三人で雑談に興じた。トゥインクルシリーズで活躍してるウマ娘がどうとか、トレーニングがどうとか、いかにもトレーナーらしい話を。というか、それくらいしか三人に共通の話題がなかった。

 

「もう時間も遅いし、今日は帰った方がいいんじゃないか?車で来たんだろ」

「ああ、そうですね……」

 

 安藤君はスマホを取り出して、時刻を確認しながら言う。

 

「それじゃあ、僕たちはそろそろ帰ります」

「ああ、気を付けて」

「次は学園で会いましょう」

「ああ」

 

 玄関で靴を履き替える私たちを、小林さんはじっと眺めていた。私は小林さんの顔を見た。当初の疲れたような顔とは違い、失踪した人間とは思えないゆったりとした顔つきになっていた。安藤君の説得がカンフル剤になったようだ。

 

 本当に安藤君はすごい。やはり、私たちとは決定的に何か違うのだろうか。

 少なくとも、私には失踪した人間を連れ戻す胆力などない。そんなことをする気概もないし、できるとも思わない。

 

「それじゃあ、失礼します」

「お邪魔しました……」

 

 私も安藤君につられて小林さんに会釈する。彼は手を振って私たちを労った。

 

「遠い所から、本当にありがとうな。今日はお前たちと出会えてよかった」

「えっ?」

 

 ドアを開けて出ていこうとした私は、とっさに振り返った。彼が放った言葉が、やけに耳に残った。

 

「どうかしたのか、福良さん」

「いや……」

「忘れ物?」

「……何でもないわ」

 

 安藤君は納得して、ドアを閉めていく。

 

 ドアの向こう側で、小林さんはドアが閉まる直前まで、ずっと手を振っているのが垣間見えた。

 

 

 

 

 

 

「あー、腹減った」

 

 車を運転しながら、安藤君がそんなことを言いだした。一気に緊張が顔面から解け出しているかのような表情を浮かべていた。

 

「昼ごはん食べてないからだよなぁ」

「私は朝も食べてないけどね」

「いや、それは自業自得」

 

 「夕ご飯には少し早いけど、どこかで食べていかない?」と私が提案すると、「いいね」と安藤君が応える。

 

「でも、相手が俺でいいのかよ」

「今回は仕方がないからアンタで我慢する」

「そうかよ。あ、じゃああそこの「牛丼 大本命」でいいか」

 

 安藤君は道の端に立っているお店の看板を指さした。少し薄暗い天気の中でも、でかでかと立っている看板がよく目に留まる。私と安藤君を乗せた車は、そんな適当な飯屋の駐車場に入っていった。

 

 店内は閑散としていた、という程ではなく、かといってにぎわっているわけでもない、程よい客の入りだった。

 

「私、牛丼並み一つ」

「じゃあ俺も」

 

 それからしばらく空腹に飽かせて牛丼を無言で掻きこんだ。私たちが口を開いたのは丼の中身を半分ほど平らげてからだった。

 

「それにしても、安心したよ。腹は膨れたし、小林さんの自殺は止められたし」

「ぶふっぅ!!」

 

 口の中の米粒を吹き出しそうになった。突然にこの男は一体に何を言い出すのだろう。

 

「なんでいきなりそんな話になるのよ!」

「……あ」

 

 咄嗟に手で口を押える安藤君。

 

「小林さんが自殺?」

「いや、そんな気がしたってだけで……」

 

 安藤君はごまかすように、私とは逆の方へ顔を向ける。

 

「どうしてそう思ったの?確かに小林さんは失踪したし元気が少なかったけど、だからっていくらなんでも突拍子がないかしら」

「……一応根拠はある」

 

 安藤君は、箸を丼において指を組んだ。

 

「あの部屋、家電がほとんどなかった」

「それが理由?でも、私の部屋もテレビとか置いてないわよ」

「でも冷蔵庫がないのはさすがにおかしいだろ」

「……」

 

 私は海馬の奥底についさっき仕舞っておいたはずの記憶を引っ張り出した。確かに、冷蔵庫もなかった、気がする。

 

「だから少なくとも、あそこでずっと暮らすつもりではなかったってことだ」

「なる、ほど」

「でもまあ確かに、だからと言って自殺ってのは突拍子がないよな」

 

 「あくまで俺の想像だよ」と安藤君は話を切り上げた。私はそれ以降結局口が進まず、残りの牛丼を食べきることができなかった。鉛を食べているような気分になったのだ。

 

 

 

 

 

 

 店を出ると、外はもうすでに陽が落ち暗くなり始めていた。安藤君は私を車に乗せて、再び帰路についた。相変わらず私は、不自然に空いている助手席ではなく後部座席に座らされた。

 

「ここからが長いぞ」

「……」

「福良さんは寝てたらいいよ。シートも遠慮なく倒して」

「……」

「福良さん?」

 

 私はルームミラー越しに安藤君を見た。

 

「ねぇ、その前に聞いてもいいかしら」

「ああ、はいはいどうぞ」

「仮に安藤君の予想が当たってたとして、小林さんが本当に自殺するつもりだったのなら」

「うん」

 

 一呼吸おいて、私は言葉を続ける。

 

「その……どうして、もう自殺しないと思うわけ?」

「……」

 

 安藤君はルームミラー越しに数度瞬きをした。

 

「小林さんは、アイネスフウジンの引退を気に病んでたんだろ?復帰の目途が立ったんだから、小林さんに自殺する動機はもうないじゃないか」

 

 安藤君は、ある種の確信をもっているらしい。

 

「私はてっきり……」

「てっきり、なんだよ」

「……私は、アンタと違って小林さんの考えてることなんて、全くわからないのよ」

 

 疲れの溜まった体を背もたれに預けながら、話を続ける。

 

「アンタを見てると、どうしても考えてしまう。アンタならもしかしたら、お母さんがーー」

「わからない」

 

 私の言葉を遮るように、安藤君がそう口にした。

 

「俺も小林さんの考えていることなんて何もわからねぇ」

「じゃあなんで自殺するだとか、しないだとかがはっきり分かるのよ?」

「それは……」

 

 安藤君は助手席の方に顔を向けた。当然だけど、私には彼が何を考えているかなんて、さっぱりわからない。

 

「……福良さん、小林さんについて、何か知ってるのか?お前はどうして小林さんが失踪したと思うんだ?」

「えっ?」

 

 急にそんなことを尋ねられて、私は返答にまごついた。

 

「いや、私は「小林さんが担当してた娘が軒並み退学処分になったから、それで彼が落ち込んでた」っていう話を聞いたから……てっきりそれが理由で失踪したんだって思ったわ。もちろんアイネスフウジンの引退のこともあるんだろうけど」

「……」

「それに、今の担当の娘の一人と喧嘩別れしたって話も聞いた」

「……」

「うわっ!!」

 

 突然車が道の途中で急停車した。反動で私の身体が前方に勢いよく吹っ飛んだ。

 

「ちょっと、危ないじゃない!!何考えてんのよ」

「引き返す」

「はぁ!?」

 

 私が理由を聞く前に、すでに車は強引なUターンを始めていた。

 

「いきなり何なのよ!」

「小林さんが心配だ」

「いや、だからもう大丈夫なんでしょ?」

「確証なんてなかった!俺は小林さんのことなんて何もわからないんだよ!」

 

 運転手の焦りを反映するかのように、車がぐんぐんと加速していく。

 

「なんでさっきの話、教えてくれなかったんだ」

「いや、だってアンタ自信満々だったじゃない」

「……」

 

 安藤君の顔から、みるみる色が抜け落ちていくようだった。それから小林さんのアパートにたどり着くまでに、彼はしきりに誰も乗っていないはずの隣を気にする素振りを見せていた。

 

 

 

 

 

 

 

 アパートについた頃には、もうあたりはすっかり夜の帳が降ろされてしまっていた。

 

「着いたわね」

「……」

「ちょっと、降りないの?」

 

 目的地までたどり着いたというのに、運転席から一向に動こうとしない安藤君に、しびれを切らして話しかけた。すると安藤君は、

 

「車がない」

「えっ?」

「ここに駐車してた小林さんの車がない」

 

 私は車の中から、あたりを見回した。確かに、昼間まで鎮座していた小林さんの車が消えていた。

 安藤君は先ほど止まったばかりの車を再び発進させる。

 

「次はどこに行くの?」

「探すんだよ、車を」

「探すって、いつまで」

「見つかるまでだ」

 

 

 

 

 

 安藤君は一晩中車を走らせた。いたるところを走り回った。

 

 それでも小林さんの車は見つからなかった。安藤君は度重なる運転で身も心も疲れ切って、ついには近くの河川敷で車を停車させて、ハンドルにもたれかかった。

 

「マジで一晩中走ったわね。……見てよ、あの奇麗な朝焼け」

「……ごめん」

「それに今日は月曜日よ。今から学園に戻っても確実に遅刻するわね」

「……ごめん」

「ていうか、私も探すの手伝わされて一睡もしてないんだけど」

「……」

「いやごめんなさいは?」

「……見つけた」

「は?」

 

 私と安藤君は車から飛び出した。安藤君が指さした河川敷の奥に、確かに小林さんの車と同じ車が、アイドリング状態で停車しているのが見えた。

 

 安藤君が一目散に駆け寄った。

 

「小林さん!!」

 

 安藤君は車の窓をバンバンと叩いた。それから、ぴたりとその手を止めた。

 

「安藤君、小林さんは……?」

 

 私の問いかけに、しかし安藤君はピクリとも動こうとしない。代わりに私は車に静かに近づいた。

 

「……」

 

 中には小林さんがいた。

 

 車内の状態を見て、私は一瞬で何が起こったのかを悟った。

 

「安藤君、警察に……」

 

 私か振り返ると、いつの間にか安藤君はその場に座り込んでしまっていた。

 

「……」

「早く知らせてあげよう」

 

 私の声に、安藤君はやっぱり何も応えようとしなかった。私にはわからなかった。安藤君がなぜこんなにショックを受けているのかが。

 

 私だってもちろん、この光景にはショックを少なからず受けてはいる。でも、立ち直れないほどのものじゃない。私と小林さんは、別に特にこれと言って親しい間柄だったわけじゃないからだ。それは安藤君も変わらないはずなのに。まるで親を目の前で失ったかのような打ちひしがれようだった。

 

 私には何もかもが分からない。

 

「俺が悪かった。だから、頼むから泣かないでくれ」

 

 

 小さく聞こえてきた、安藤君の独り言の意味も。

 

 

 

 

 

 

 

 それからしばらく時間がたった。

 

 小林さんの遺体の火葬が終わり、私は葬儀場を後にした。外に出ると、季節外れの酷い土砂降りだった。私は傘をさして、しばらく歩いた。それから、道の途中で立ち止まって、振り返った。

 

「じゃあ俺、先に帰るわ」

 

 前を歩いていた杉原が私にそう声をかけてきた。どういうわけか私のことを待っていたらしい。

 

「私はもう少しだけここにいる」

「安藤を待ってるのか?」

「……」

 

 私が杉原を睨みつけると、杉原はすぐに目をそらした。

 

「まあ、なんつーか、安藤のこと頼むわ」

 

 傘に乱打する雨の音で、杉原の言葉尻は霞んで消えた。それからしばらくして、杉原の気配が遠ざかっていくのが分かった。

 

「……」

 

 私は元来た道と杉原が進んだ道とは別の道を進んだ。

 しばらく歩いてると、濃い霧雨も向こう側に、ぼんやりと佇む影が現れた。

 

「安藤君」

 

 私はその影、安藤君に声をかける。

 

「誰を待ってるの?」

「……」

 

 安藤君は、傘をさしているにも関わらず、右肩が雨にずぶ濡れていた。

 

「肩、濡れてるよ」

「……ああ」

 

 今度は返事をしたが、それでも肩は濡れっぱなしだった。私は安藤君の後ろに立った。横に立つのは、どういうわけだか知らないけれど、憚られた。

 

「……」

 

 暫く、無言で雨に打たれる安藤君を見守った。彼の背中はとても弱弱しかった。

 

「……俺の従妹、失踪したなんて言ったけど、本当は自殺だったんだ」

 

 不意に安藤君はそんなことを言い出した。

 

「首をつってた。なんで死んだのかはわからない。遺書もでなかったし。でも、あの人が死ぬ前に俺に電話をかけてきたんだ。なんて事のない他愛のない短い話だった」

「……」

「多分あれが従妹なりの、精一杯のSOSだったんだ。あの時の俺がそれに気が付いてたら、もしかしたら従妹は助かったかもしれない」

 

 私と同じように、安藤君もずっと悩み続けていた。何かを求めて、探し続けていたのだ。

 彼は何も特別じゃない。それがよくわかった。

 

「俺はずっとそれを、後悔してる。トレーナーになったのは多分……」

 

 それきり、安藤君は押し黙った。

 雨がより一層強くなってきた。私は安藤君を置いて、静かにその場を立ち去った。

 

 結局、答えは私自身が見つけなければならないのだ。……そんなこと、とっくの昔にわかっていたはずなのに、いつの間にか不思議な力を持つ安藤君に幻を見てしまっていた。

 私はその幻を打ち払おうと思う。そうしないと、私はいつまでも無能の私のままだった。

 

 無能。

 

 その時ふと思い出した。そういえば、あの優しかったお母さんは、私によくその言葉を使っていたのを。お母さんは頻繁に、その言葉を自分と、私に向かって言っていたことを。

 

 

 

 

 

 

 

「安藤さん、肩、濡れちゃうよ。私は平気なの。だからちゃんと自分のために傘を使って欲しいの」

 

 僕の隣に立っていたアイネスフウジンの幻影の言葉に、僕は首を振った。

 

「そう……優しいんだね、キミは」

 

 そんなんじゃないさ。

 俺は少しでも許してもらいたいんだ。許されたいんだ。だからこうしているってだけなんだ。

 

「それでも、優しいよ」

「……」

「ねぇ、安藤さん。私の最後の我儘、きいてくれるかな」

「……ああ」

「もう一人の私の事、お願いなの。できるだけ傍にいてあげて」

「もちろんだよ」

 

 僕はアイネスの顔を見ずにそう答えた。

 

「……本当にありがとうなの。安藤さん」

 

 アイネスフウジンの幻影は、豪雨の中に溶けて消えていった。どうせならすべてを洗い流してくれればよかったのに、あの娘の声だけは耳に残って消えてくれない。消すべきじゃないと、心が訴えかけてくるのだ。

 

 僕は必死になって文言を考え始めた。霧雨の向こう側から、こちらに歩いてくる影が見えたから。

 何を言えばいいのか。どういったら彼女の心を慰めてやれるのか。

 

 どれだけ考えても、そんなことは僕にはわからなかった。

 わからないのに、アイネスフウジンがそろそろやってくる。

 僕は必死に考えるのに。

 

 かける言葉は、まだ思いつかない。

 

 

 

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