「結論から言わせてもらうと、今回の件に関して俺はお前には協力しない」
僕が目の前の幻影にそう告げると、幻影は声を荒げた。
「ど、どうしてっ!?」
「理由はいくつかある。まず一つ目に、俺の力でお前の出走を取り消すのが難しい」
そんな、中学校の英作文で頻繁に用いられている定型文のような序文言を口にしつつ、指を一本立てる。
「お前は、ライスシャワーは宝塚記念でファン投票一位を獲得している。それに、今回のレースはお前にとっても絶対に外せないレースのはずだ」
今回の宝塚記念は、例年とは違いとある事情から通常の開催場所である阪神レース場が使えなくなってしまった影響から、特別に京都レース場での開催が決まっていた。そして京都レース場、淀はライスシャワーの得意とするコースだ。宝塚記念に、自分のホームグラウンドで挑戦できる機会など今後まず訪れないだろう。
それに、ライスシャワーは長距離での実績は固いものの、それ以外の距離での適正は疑問視されがちだった。今後ドリームシリーズに参戦するつもりなら、長距離だけでなく、他の距離での実績もなければ厳しい。シリーズ参戦への審査で引っかかる可能性がある。2200mの宝塚記念で勝ちを挙げることができれば、それらの懸念を払拭することができる。
「ファンだけじゃない、誰よりもお前自身が宝塚記念への出走を切に願っているはずだ。そんな状態で俺の説得に、まともに応じるとは思えない」
「それは……」
心当たりはあるのだろう。ライスシャワーの幻影は目線を下にボトリと落とした。
「二つ目に、俺は以前に一度同じような頼みを引き受けて、計画を強引に決行した結果失敗している。元々無茶だったっていうのはわかってた。今回も失敗する確率が高いと思う」
「……その人は、どうなったの」
「結局レース中の故障で出走取り消しになった。まあ、でも今は元気でやってるみたいだし、結果的には下手に干渉しないで正解だったと思うよ」
「そうなんだ、……よかった」
幻影は僕の話を聞いて、ほっとした。どうしてほっとしているのか意味が解らない。考えても仕方がないので、僕は気にせず話を続ける。
「三つめは、「フェアじゃない」からだ」
幻影は少しだけ緩んでいた表情を引き締めて、僕を真正面から見据えた。
「レースに出走するウマ娘たちは、レース場での故障のリスクも承知で走っている。「怪我をすることが分かっているから、俺に回避させる」ってのは、少なくとも俺は、他の走者に対してフェアではないと思うぜ」
「それじゃあ、安藤さんはライスが怪我をするのを承知で、出走を止めないの?」
ライスシャワーは僕の目をじっと見た。何かを責めるような感情が、視線の中にさりげなく込められているのがわかった。
「ああ、そうだ」
僕は悪びれることなくそう言いきった。
「お前の頼みを聞いてやるのは、リスクが高い。生徒が自主的に参加しようとしているレースを、トレーナーである俺が無理やり止める、ってのは明らかにコンプライアンスに反しているし、もしそんなことをしたのが露見した場合謹慎じゃすまない、最悪クビだ」
まだ二十代で職を失うのはキツイ。一時の暴走でその後の人生を投げ出すのはいただけない。
「と、いうわけだ。お前には悪いけど、俺だって自分の人生がある。それに、俺たちトレーナーは、レース場という神聖な場で起きる事象に干渉すべきじゃない。それがルールだ。だからお前の頼みは聞けない」
「……そう、だよね」
以前のサイレンススズカの幻影を思い返して、執拗に迫られたらどうしようかと身構えていたのだが、僕の予想に反して、幻影はあっさりと納得したように、身を引いた。
「ごめんなさい、安藤さん。ライス無理言っちゃって」
「い、いや……別に」
「本当にごめんなさい」
言うが早いが、幻影は僕の前から姿を消した。
「……」
あのように頭から謝り倒されては、なんというか、逆にこちらの調子が狂ってしまうな。しかし、どうあれ幻影は自らの運命を受け入れたのだ。だとすれば、もうこれ以上僕が気にする必要などないはずだ。
……。
本当は、先ほど幻影に述べた「僕が協力しない理由」には不足がある。本当はあと一つ、理由があるのだ。わざわざ言う必要のあるものではない、しかし、それは僕にとって決定的にライスシャワーに協力しない、いやしたくない確かな理由なのだ。
正直に言うと、僕は個人的に彼女のことを好ましく思っていなかった。僕はライスシャワーのことが、ミホノブルボンの、バクシンオーの菊花を無惨に散らしたあのウマ娘のことが嫌いなのだ。
〇
「幸せの青いバラ?」
「うん、ライスの大好きな絵本」
ゼンノロブロイの手伝いで図書室の図書を整理していた時のことだ。幻影は、僕がたまたま手に取った絵本を見て嬉しそうな声を上げた。
「へぇ、本が好きなのか」
少し興味が湧いた僕は絵本を開いて中身を確認しようとして、はたとページをめくる手を止めた。それから、隣で僕の持つ絵本をのぞき込んでいる幻影に目を向けた。
「……」
「?……あっ。ご、ごめんね?ライスなんて早く消えて欲しいよね……。でも、ライス消え方がわからなくって」
「そ、そうか……」
別にそんなことは思って……いやゴメン、ちょっと思ったかも。
気を取り直して絵本を読み始める。
……。
なるほど。暫く読んでみて概ねのストーリーは理解した。主な登場人物は「青いバラ」と「お兄さま」で、みんなからダメな奴だとけなされて生きてきた青いバラが、自分のことを肯定してくれるお兄様に励まされて最終的にみんなを幸せにする花として咲き誇る、という話だった。
幻影はどうやらこの絵本が好きらしいが、僕にはあまり刺さらなかった。ストーリーがあまりにも普通だったし、キャラクターにも特に共感できるところがなかったのだ。でも確かにライスシャワーなら好みそうな話だと思う。誰に共感しているかも一目で理解できる。この薔薇の性格というか言動があまりにも彼女のそれと似通っているのだから。僕じゃなくてもわかる。
「なるほどな」
「ど、どうだったかな?」
ウキウキとした表情で感想を聞いてくる幻影に、内心辟易としながらも「うん、面白かったよ」と応える。
「そ、そうだよね!」
幻影の食いつきはすごかった。
「あ、あの……ちなみにどこがおもしろかったか、聞いてもいいかな?!」
「えっ!?」
どうやら必要以上に食いつかれているらしい。このままだと、ものの見事に食い破られて双方痛み分けという結果に終わってしまうだろう。僕は必死に考えを巡らせた。
「そうだな……」
「うん」
「周囲から嫌われてるという設定のキャラクターに、敢えて青いバラを配置したっていうのが面白かったと思う」
既に薄れ始めている記憶をなんとか手繰り寄せながら、言葉を紡いでいく。
「えーっと、多少変わってようが青かろうが、薔薇は薔薇だし、きれいな花ってのは変わらないんだけど、青いバラの、その希少性から嫉妬されたり敬遠されがちなのを「自分が嫌われている」と勘違いしたその卑屈な心を、薔薇を買い取った「お兄さま」が少しずつ矯正していくその過程が丁寧で引き込まれたよ。「よだかの星」のよだかみたいに単純にひたすら嫌われているっていうキャラクターじゃなくて、そいつの考え方や努力次第でいくらでもみんなに好かれることができる。そんなキャラクターを主軸に置いたことで、ストーリーの前向きなメッセージがしっかり伝わってくるっていうか……」
うん、そんな感じ。と、僕はそこで恐る恐る幻影を見た。真顔とかになってたら失敗だ。
「すごい、安藤さん、そこまでこの絵本のことが好きになってくれたんだね!」
果たして幻影は満面の笑みを浮かべていた。
「お、おう」
その場しのぎの感想だったのだけれど、予想外に好感触だったらしい。
「ちょっと何言ってるかはわかんないけど」
わかってねぇのかよ。じゃあその笑顔は一体なんだよ。
「この絵本の続きとかないのか?これ一作だけ?」
これ以上話し続けると余計に二人の間の溝が深まりそうな気がして、僕はひとまず話をそらした。
「う、ううん。もう一つだけ、続きがあるよ。でも……」
ライスシャワーの幻影は目をそらしながら、
「ライスはあんまり、好きじゃないかな」
「面白くないのか」
「ううん」
ライスシャワーの幻影は首を振った。
「悲しいお話だったから」
悲劇か。でも絵本ってむしろ喜劇よりも悲劇の方がずっと多いような。俄然興味がわいてきた僕は、幻影に尋ねた。
「悲しいって、どんな話?」
「えっとね、その、青いバラが……」
枯れちゃうお話なの。
〇
トレセン学園からトレーナーの独身寮までは、そう遠くもない、とはいってもそこそこ歩かなければたどり着けない距離にあった。
夜。仕事を終えた僕は、いつものように歩いて帰っていた。一時期は車を使わなくても寮が近いので学園に通えることから、免許を取得しなくてもいいじゃないかと高をくくっていたのだがこれは罠で、トレーナーに車という脚は必需品だから免許と車は絶対に取っておかなくてはならない。どれくらい必需化というと就職項目に記載してほしいくらい。
何て取り留めのないことを考えていた時だ。
ポッと。
目の前の信号が赤に変わった。僕は足を止めた。すると、後ろの方から軽快な足音が聞こえてきた。その独特のリズムと速度から、人間のものでないことはすぐに分かった。
僕が後ろを振り返ると、いつか見かけたフードのウマ娘がそこにいた。彼女はサングラスをかけていたが、僕には彼女の正体がすぐに分かった。
「……ライスシャワー?」
「……えっ!?」
ライスシャワーはギョッとしたようなしぐさで、僕から数歩離れた。
「ああ、大丈夫。俺はトレーナーだから」
「あっ、そうなんだ……」
襟元の徽章をみせると、ライスシャワーはほっと胸をなでおろした。
「……天皇賞、おめでとう。素晴らしいレースだったよ」
僕がライスシャワーに一応の祝辞を述べると、彼女は途端に嬉しくなってしまったらしい。
「あ、ありがとうございましゅっ!応援してくれてたんですねっ!」
いや応援はしてない。本当のことなんて、わざわざ言うつもりもないけど。
「次は宝塚記念、かな」
「は、はい……あ、もしかして、ライスに投票してくれたの?」
そう言ってライスシャワーは期待の籠った目をキラキラと向けてくるが、残念ながらトレーナーとしても個人的な感情にしても、ライスシャワーに投票などするつもりはなかったし、実際票など入れていない。
「あの、本当にありがとう。ライス、みんなの期待に応えられるよう頑張るね!」
ライスシャワーはぺこりと頭を下げた。どうやら勝手に勘違いしてれたらしい。都合がいいのでこのままにして誤解は解かずにおこう。
ライスシャワーはやる気満々、といった感じだ。
「……」
今回の宝塚記念で、ライスシャワーは高い確率で故障する。多少不憫だけど、サイレンススズカの例もある。無事に復帰できることを祈ろう。
「あれ?」
ふと、ライスシャワーの脚を見て、トレーナーとしての勘が鋭く警鐘を鳴らした。服越しからでも、足の震えから疲労が見て取れる。
「……天皇賞での疲れが、抜け切れてないみたいだけど、大丈夫なのか?」
それから、つい余計な口出しをしてしまった。
「へっ?」
僕の指摘に、ライスシャワーの口から間抜けな声が漏れる。
「身体に異変とかは」
「う、ううん……何もないよ?」
と口では言いつつ、目が若干泳いでいるのが見て取れた。嘘が苦手らしい。
それにしても、脚がこんな状態では、まともなトレーナーなら宝塚出走は回避するだろう。一体彼女のトレーナーはなにをしているのだろうか。
……いや、幻影に協力しないと決めた以上、これより深く追及はしないでおこう。そもそも外様の生徒にあれこれ口を出すのはタブーなのだから。
「まあ、あまり無茶はするなよ」
「う、うん」
そんなこんなしているうちに、信号が青に変わった。
「じゃあ、頑張って」
「うんっ!」
ライスシャワーは走り去っていった。その走りはステイヤーらしい力強い走りで、しかし明らかに疲労の跡が色濃く見えるのがわかった。
「……」
僕は意図せず釘付けになっていた目を無理やり引きはがして、再び寮に向かって歩き出した。