来る宝塚記念の当日。
僕は結局その日まで、一度もライスシャワーと接することはなかった。これ以上彼女に近づいてしまうと、僕の決意が、ライスシャワーに協力しないという決意が鈍ってしまうのではないかと思った。幻影とは何度か雑談を交わしはしたけれど、彼女の方から、僕に何かを強制するようなことは一度もなかったのは、素直にありがたかった。
僕がぼんやりしながらトレーナー室に据え置かれた椅子に座っていると、「おはようございまーす」と軽快な声と共に扉が開かれ、ラックリーターが入ってきた。
「あれ?セイウンスカイとの併走は?」
「いや、なんか「急用を思い出した」って言って、どっかに出かけちゃいました」
「あいつサボって釣りに行ったな」
僕の言葉にラックリーターが鷹揚に頷きを返した。
「いいんですか?セイウンスカイさんだけあんな自由させて」
「ああ。彼女は自由にやらせるのが一番だ」
そして、本当に困ったときは手を貸してやればいい。あいつは陰で勝手に一人で努力するタイプのウマ娘だから、僕がわざわざトレーニングをしっかり見てやる必要はないんだ。怪我にだけ注意しておけば。
「でも私の時は、きっちりトレーニングの計画立てて、自主練とかあんまりさせてくれませんよね?」
ラックリーターは見てないところで力を抜いてしまうタイプのウマ娘だからな。
「やっぱり、バレてますよね」
頭を擦りながら、そう言って苦笑いを浮かべるラックリーター。
「自分のそういうところ、ちゃんと治そうとは思ってるんですけど……」
「いや、治さなくてもいいよ。俺の見てないところで自主練なんか張り切って、もし怪我でもされたら大事だからな」
トレーニング何て、一から十まで何もかも頑張らなくても別にいい。やればやるだけ早くなる、ってわけでもないのだ。休めるときにしっかりと心と体を休めることができる。それも立派な才能だ。
「サボり癖が、才能ですか」
「使いようによっては、な。少なくとも、悪いものってわけじゃないよセイウンスカイだってみんなの前じゃサボりまくってるのに速いだろ?」
「まあ、そうですね」
ラックリーターはそのまま、僕の机の近くに腰を下ろした。どうやら本格的にここに居座るつもりらしい。
「ありがとうございます、トレーナーさん」
「ん、何が?」
「私、あんまり好きじゃなかったんです。自分の、そういうところ。見てる人がいないとちゃんと頑張れないっていうか、影の努力ができないっていうか、まあ、そういうところが。でも、トレーナーさんがサボり癖も悪くないって言ってくれて、ちょっとほっとしました」
「……」
ラックリーターの悩みは、ほんのちょっとした、本当に些細なことだった。ほんの小さな棘が、ラックリーターの胸に引っかかっていた、という程度の話。それで、僕は少しだけ手を動かして、その棘を払い落としたってだけのこと。
ただそれだけのことだけど、僕もラックリーターも、悪くない気分だ。ラックリーターは少しだけ気が晴れたのだろうし、僕もいいことをしたみたいで気分がいい。
そう、僕はこれくらいがいい。
幻影がどうとか、レースに出走させるなとか、恩師だの親だのに会わせろとか、そういうのはトレーナーの仕事じゃない。せいぜいが人一人できることを、精一杯、できる範囲で実行する。こんなもんで十分なのだ。
ラックリーターが僕の最初の担当でよかった。こいつは、よくも悪くも普通で、それが僕には丁度いいのだ。
「トレーナーさん、実はもう一つだけトレーナーさんに相談したいことがあったんですけど、今しがた解決しちゃいました」
「そうか、それはよかったな」
「私、トレーナーさんみたいなウマ娘になろうかなって思います」
びしり、とそんな音が身体から聞こえてきた気がした。いや、ていうか、なんだって?
「えーっと、それってどういう意味」
「ほら、トレーナーさんって、困っている人とか放っておけない人っていうか、いろんな人に無償で手を貸してあげてるじゃないですか。セイウンスカイさんの時とか、他にもたくさん」
……いや、それは。
「そういう献身的なところがいいなぁっていうか、私もそういうことができたらなぁって思いまして」
「それは、まあ、立派な心がけだと思うけど、でもそれって具体的には何をするつもりなんだ?」
「それは私もわかりませんけど」
ラックリーターは机の上に肘をついて、うーんと唸り始める。
「まあでも、トゥインクルシリーズをしっかり走り終えて、それからできればドリームにも参加して、それで、いつか引退ってことになったらその時は」
ラックリーターは僕に、少しだけ揺れている瞳をちらりと見せてきた。
「トレーナーになるっていうのも、悪くないかなぁって」
「……」
「な、なーんて」
ラックリーターはそこでようやく気恥ずかしさを思い出したのか、顔をすこしだけ赤く染めた後、勢いよく立ち上がった。
「あ、あの、私やっぱりセイウンスカイさんのこと探してきますっ」
あわただしく駆け出ていくラックリーターを、僕は茫然と見送った。
僕みたいになりたい?
やめとけよ。僕みたいなやつになっちゃだめだ。
たった今、一人の生徒を見殺しにしているというのに。
〇
ラックリーターの話を聞いてから、僕の胸中には黒いもやがかかったみたいに渦巻いてすっきりとしなかった。
僕は、本当はどうしたいのだろう。
ライスシャワーを助けたい?確かに、助けてやりたい、怪我をするのは不憫だという気持ちがないわけでもないから。
でも同時に助けたくない、という気持ちも間違いなくなる。これも確かなのだ。いや、どちらかというとこちらの気持ちの方が強い。
僕は自分の気持ちに、ある種の決着をつけたかった。幻影に会って話がしたかった。
だから僕は図書館へ向かった。図書館へ向かえば彼女に会える気がした。彼女は本が好きだったから。
果たして僕の目論見は当たった。僕が図書館の中に入ると、窓際の席に腰を下ろして座っている幻影を見つけた。
「出てきてくれたのか」
「もう、これで最後だから」
ライスシャワーの幻影はそう言って儚げな笑みを浮かべた。
「これで最後?」
「うん、今日の宝塚記念で、もう走れなくなっちゃうから」
「……そう、か」
走れなくなる。
そうか。ライスシャワーは走れなくなるのか。
「……」
僕は腕時計を見た。十時を丁度回ったところだった。確か宝塚記念の発走時刻は15時頃だった。そしてここから京都レース場まで最低でも五時間はかかる。
「でも、ライスは、ちゃんと納得してるよ?悲しいけど、青いバラになれたと思えるから」
「……?」
「お兄さまには会えなかったけど」
僕は幻影に近づいた。それから、幻影の手元に置かれた一冊の本を手に取った。
「『青薔薇の最後』……?」
これがライスシャワーの幻影が言っていた続きか。僕はページをめくって、ストーリーを追い進めた。
「……」
『すっかり元気を取り戻し、みんなからも慕われるようになった青いバラは、小さな鉢からお兄さまの屋敷の大きな庭に移し替えられました。すると、薔薇はこれまで以上に大きく、美しく成長していきました』
「……」
『庭中に咲き誇った青いバラは、やがてたくさんの薔薇の花を咲かせました。そして屋敷を通りかかるみんなを幸せな気持ちにさせました。ある日、小さな女の子が大輪の薔薇の一つを青いバラにねだりました。青いバラは喜んで薔薇の一つを女の子に与えました。その薔薇は青いバラの手を離れた後も枯れずに永遠の美しさを放ち、見る人々を幸せな気分にさせました。その噂を聞いた大勢の人々がお兄さまの屋敷に集まりました。そのたびに、青いバラは喜んで薔薇を与え続けました』
「……」
『青いバラから、たくさんの薔薇が切り取られていきました。そのたびに青いバラは徐々に弱弱しく、やせ細っていきます。でも、青いバラは人々を幸せにすることに夢中で自身の体調の変化に気が付きません』
『お兄さまや青いバラと親しかった屋敷のみんなは心配し、青いバラにもうこれ以上薔薇を分け与えるのをやめるよう説得しました。青いバラはそれがだんだん煩わしくなり、いつしかお兄さまやそのほかのみんなのことが嫌いになりました。すると、みるみる薔薇はしおれ、気が付いたときには干からびて枯れてしまいました。青いバラはそれから二度と薔薇を咲かせることも、話すこともなくなりました。世界で唯一の青いバラの突然の訃報に多くの人々が悲しみました。しかし、青いバラの薔薇は、青いバラが死んだ後も永遠の美しさを保ち、見る人々を幸せにしました。青いバラの死がきっかけで、薔薇の価値は一気に跳ね上がりました。あるものは家宝として、あるものはそれで莫大な富を築いたりなど、みな思い思いに薔薇のことを愛しました。しかし、お兄さまや屋敷のみんなは、青いバラのお墓の前で、ずっと悲しそうに泣いてばかりいたのでした。
おわり』
「……」
僕は本を閉じた。それから、考えた。
幻影がこれらの話における青いバラと自分を重ねている、ということは、だ。
「お前はもう二度と走れなくなるってことか」
「うん」
「本当に
「……」
ライスシャワーの幻影は、首をフルフルと振った。
「ライスはね、宝塚で予後不良になっちゃった」
……。
「でもね、ライス思うんだ。あの時、みんなの期待には応えられなかったけど、みんなを酷く悲しませちゃったけど、でもその代わり、ライスはみんなから愛されるウマ娘になれた。あの青いバラみたいに」
「……」
僕は手に持っていた絵本の中を開いて、幻影に見せつける。
「本当にそれでいいのか」
「うん」
「青いバラみたいになっていいのか」
ライスシャワーの幻影は僕の手の中の絵本に目を落とした。何かを迷っているような、そんな逡巡が見て取れる。
「青いバラは、確かに結果的にはみんなから愛される花になった。でも青いバラは本当に幸せにしなければいけない人たちを幸せにできなかった、だろ?」
「……うん」
「お前が死んだら悲しむ人たちがいるはずだ」
「お母さまとお父さま、家族のみんな。ブルボンさんにロブロイさん。そのほかの皆も……」
ライスシャワーの眼から、いつの間にか大粒の涙が零れ落ちた。
「ライス、死にたくない……。ほんとは生きていたいっ」
「だったら」
「でも、安藤さんは、ライスのこと助けてくれないんでしょっ!!?」
初めて幻影が激情を露にした。
「ライスのことが嫌いだからっ!!」
確かに、僕は彼女のことが嫌いだ。ああそうさ、僕は、バクシンオーの願いが忘れられない。彼女の想いを踏みにじったライスシャワーが、憎くさえあった。
だけど、彼女の涙を見た瞬間、やっぱり違うと思った。
「俺はお前のことを多少なりとも知って、少しは好きになった。そんなお前が死んだら、見殺しにしたとしたなら、俺はもう耐えられないと思う」
「でも、ライスは何も……」
「そうだ、何もしなかった。どうしてだ?人から好かれたいなら、愛されたいなら、どうしてその努力をしようとしない」
「……」
ライスシャワー、お前はただ怖がっているだけなんだ。他人との深いつながりを。そして赤の他人である僕に、ずうずうしく助けを求めることを。
「お前は、俺にどうしてほしいんだ。お前の気持ちを教えてくれ。俺は、お前を助けたい」
たい」
自分の気持ちとは裏腹の言葉が出てくる。さっきまで僕は彼女を見捨てようと思っていたのに。
本当に、人間というの卑怯な生き物だ。その時その時で自分に都合のいいように心が変わってくれる。
ライスシャワーを助けることは、レースのリスクを背負って戦っている他の選手たちに対してフェアじゃない。他でもない、僕が言ったことだ。
それがどうした。僕は、本当はフェアだとか、フェアじゃないとか、そんなことは心底どうでもいいんだ。
人の生死がかかっているんだ。なりふり構わないのが普通だぜ。
「どうなんだ、ライスシャワー」
「ライスは……」
ライスシャワーはしばらくの間迷い続けて、それから意を決したようにぺこりと、頭を下げた。
「ライスを、助けてください。お願いします、安藤さん」
「わかった」
僕は急いで図書館を後にして、駐車場に向かった。
「で、でも、もう間に合わないんじゃ……?」
「いいや間に合う。車ってのは本気で走らせればものすごい速度が出るんだ」
警察に捕まったら終わりだけど。