電話に気を取られていたせいだろう。ものすごい勢いで接近してくる、唸るような排気音に気が付くことができなかった。
強烈な光が僕の目を眩ませた。
不審に思って顔をあげると、目前にバールが――。
「安藤?」
目を覚ますと、僕は車に揺られていた。
「どうしたんですか、トレーナーさん?」
ラックリーターが顔をのぞき込んできて、すべて思い出した。
今は
「いや、なんでもない」
「何か怖い夢でも見たのかぁ~?」
胡乱な目を声の方に向けると、ルームミラーに車を運転している杉原のにやにやとした目が写り込んでいた。
「それともこの前の怪我が響いてるんじゃないだろうな」
そのにやけ面が一気に真顔に変わる。
「大丈夫だよ……」
どうやら本気で心配しているらしい杉原。やはり、杉原にはこういう素直なところがあるからどうにも憎めない。
「ま、この機会にしばらく休めばいいさ」
助手席の竹中さんは、グッと上に伸びをした。
「……」
あれから。
僕が頭に重傷を負ったあの事件のあった日から、実に二年が経過した。
未だに犯人は見つかっていない。
別に見つかって欲しいなどとは思っていない。僕にとって犯人の正体や目的などもはや些事だった。
だけど、あの日を境に妙な現象に苛まれ続けているのもまた事実であり、だからこうして、あの日の出来事を夢見る日なんかはふと考える。
僕を襲った犯人はどこのだれで、今何をしているのだろう。そして、僕を襲った理由が何なのか、それとも理由など、ただの行き当たりばったりの凶行だったのか。そして、僕の身に宿った能力と何か関係があるのか
きっとそのどれの答えも見つかる日など来ない。
そう、思っていた。
〇
「「「カンパーイっ!!」」」
各々勝手にグラスを打ち付け合って、ラックリーターのURAファイナルズ優勝を祝う会は滑っと始まりを告げた。
チームレグルスのメンバーはもちろんのこと、今回の打ち上げにはそのほかの知り合いも参加していた。みんながラックリーターの勝利を祝いに来てくれたのだ。
「乾杯ってどういう意味なんだろうな」
「諸説あるけど、乾杯は杯を乾かす、つまりお酒なんかの飲み物をしっかりと飲み干す、という意味らしいわね」
「さっすが福良先生はものしりだな」
「まあアンタよりはね」
隣で福良さんと杉原が談笑している。なんだかんだこの二人も上手くやってるみたいで何よりだ。僕は反対の方に座ってビールを飲んでいた竹中さんに声をかける。
「今日はだいぶ飲んでますね」
「……ああ、まあな。無礼講ってやつだ。お前は飲まないのか?」
「お酒は苦手です。それに、酔ってるところを生徒たちに見られたくなくて」
僕はトレーナーたち大人の集まった席の奥で騒いでいる生徒らに目を向ける。
飲み物に謎の液体を混入しようとしている、そこらの下手な迷惑客よりも質の悪いタキオンに、それを羽交い絞めにして止めているマンハッタンカフェとエアシャカール。
隙を見て焼き具合の良い肉をかすめ取っているセイウンスカイと真面目に肉を焼いている対照的なニシノフラワーの二人。
どうしてここにいるのかいまいちわからない生徒会一同と、それよりもさらになぜここにいるのかわからないトウカイテイオー。
北原さんや小宮山さんの率いるオグリキャップとタマモクロス、それから笠松から連れてきたらしい友人らも一緒にいる。お好み焼きの切り方がどうのとか、どうでもいいことでけんかしている真っ最中だ。
騒がしい周囲とは正反対に、隅の方に寄って静かにご飯をつついているのはライスシャワーとミホノブルボン、その向かいにゼンノロブロイの三人組。
そして客のくせにいつの間にか給仕に徹しているアイネスフウジン。
何よりサードステージをはじめとした昔なじみの仲間に囲まれて笑顔を浮かべている、ラックリーター。
彼女たちにはどうしてか、アルコールに飲まれている自分を見られたくはなかった。
「要するに、お前はあいつらに隙を見せたくないんだな」
竹中さんは、追加のジョッキを手元に取り寄せつつ、それから
「そう肩肘張ってると、長く続けられないぞ」
と、僕に忠告した。
長く続ける。
仕事をするうえで欠かせない大事なことだ。ベテランの竹中さんはそこの所をよく理解しているのだろう。
どれだけ嫌なことがあっても、全くうまくいかない日が続いていても、ずっと続けられるような仕事の仕方が、何よりも肝要。そのためには多分、常に余裕を持ってることとか、虎の尾を踏まないよう余計なことに足を突っ込まないことが大切なのだと思う。普段の竹中さんのように。
果たして僕は、竹中さんの言うような、長く続けていられるような仕事の仕方をしているだろうか。どうだろう。僕は今のまま、この仕事を続けていられるだろうか。
「ん?」
そんな折に、竹中さんのポケットから携帯電話がけたたましく鳴った。
「……悪い、ちょっと外す」
竹中さんは通話相手をすばやく確認すると、僕に断わりを入れてから店の外へいそいそと出ていった。
いったい誰からだったのだろう。随分忙しなかったが……。
「……あれ?」
ふと視界の隅に転がっていたものに気が付いて、それを何気なく拾い上げた。
それは財布だった。
竹中さんの物だろうか?竹中さんとの付き合いは長いし、何度か彼の財布を見かける機会はあったろうが……ダメだ、思い出せない。十中八九竹中さんのものだと思うが。
まあ、少々マナー違反かもしれないが、中身を確認すればすぐにわかるだろう。と軽い気持ちで財布を開くと、案の定免許証等から竹中さんの財布だということは一目瞭然だったのですぐに開いた財布を閉じようとしたその時、僕は財布の中に誰かの写真と、小さく折りたたまれたボロボロの封筒を見てはたと手を止めた。
この封筒、どこかで見覚えがある。そんな昔でもない、近頃に見かけたことがあるのだ。どこだったか……。
しかし、問題はそれではなかった。
僕は中に入っていた写真を少しだけ引っ張り出して、中に写っている人物をよく見た。それから、次に顔を上げて店の隅に立っている人影に目を向けて、よく凝らしてみた。
間違いない。顔がそっくりだ。
それは少なくとも僕の知らないウマ娘。
そして、つい今しがた出現した幻影。
「……っ」
僕は素早く財布をしまった。竹中さんが店に戻ってきたのが目に入った。
「竹中さん、これ、財布落としてましたよ」
「ん?ああ、悪いな」
戻ってきた竹中さんに持っていた財布を渡すと、竹中さんはそれから、
「それで、一体何の電話だったんですか」
「おう、どうやら、お前の独り立ちの日が決まったようだぞ」
「独り立ち?」
「まあ正確には『レグルス』からの発足チーム、って形になるけどな」
竹中さんは、僕の背中を軽く叩いた。
「曲りなりにも、お前が自分のチームを持つってことだ」
「……ああ、なるほど」
「問題のチーム一期生の数には事欠かないだろ」
竹中さんは打ち上げに参加している生徒らに目線を送る。
「チームの名前も考えないとな」
「少し時期尚早ではありませんか。僕はまだ三年ですし」
「いや、実績だけ見れば十分だ」
「……」
チームか。同期たちの中で頭一つ抜けてしまった。杉原の嫉妬の形相がくっきりと目に浮かぶ。
だがしかし、正直、今はどうでもいい。
「ちょっと、トイレに行ってきます」
「おう」
僕は席を立って、トイレに向かった。
〇
トイレを出た先の洗面所で手を洗いながら、僕は目の前の幻影に話しかけた。
「えーっと、名前は?」
「レッドカグヤ、です」
……聞いたことがない。
「で、何の目的で俺の前に現れたんだ?」
「その前に、安藤さんに謝らせてもらえませんか」
「謝る?」
「はい、あの時は本当にすみませんでした」
「……」
なんのことだろう。
駄目だ。全く身に覚えがない。僕はレッドカグヤと名乗った幻影の姿をまじまじと見た。青鹿毛の髪に、赤と白の星がトレードマークの勝負服。どれだけ見ても記憶に該当する人物は見当たらない。
ただし、その顔には見おぼえがある。ついさっき、竹中さん財布の中から出てきた写真の人物。彼女はそのウマ娘にうり二つなのだ。
しかし、僕個人に謝りたいというのはどういうわけだろう。
「悪い、全く身に覚えがないんだが、謝るってのは何のことなんだ?」
「私が、安藤さんの頭をバールで殴ったことです」
「……」
ン?
「悪い、もう一回言ってもらえるか」
「私が安藤さんをバールで殴ってしまったことです」
「ちょっと待て」
僕は流したままにしていた蛇口の水を止めた。それから、鏡越しではなく、振り向いて幻影と対峙した。
「お前が俺を殴った?お前があのバイクの犯人?」
「はい」
はい、ってお前……。
僕の中でありとあらゆる感情があふれ、せめぎ合い、ごった返し。それからまず初めに出た言葉が。
「どうして、俺を襲った?俺に何か恨みがあるのか」
「いえ、私が安藤さんを襲ったのは、いわば偶然です」
「偶然?」
「私はあの時、
……。
偶然?偶然で僕は死にかけたのか?
ふざけんな。と言ってやりたいところだが、それよりも情報過多で脳が混乱している。
「まあ……そのことはいったん置いといて……」
混乱した結果、僕はそのことについて考えることをいったん保留した。
「俺にしてほしいことは何なんだ」
「……それは私のトレーナー」
幻影は僕の目をじっと見る。彼女の瞳にはある種の、愛憎入り混じったような狂気が宿っていた。
「竹中さんを――…」
「トレーナー君、何をしているんだい?」
「っ!」
後ろを振り向くと、タキオンが壁に体を凭れさせていた。
「ダメじゃないか、宴の主役の一人が、こんなところで油を売ってちゃ」
「主役はリーターだろ。ていうか、お前なんでここにいるんだよ」
「トレーナー君を探しに来ただけさ。それとも、私がここにいては拙いのかい?」
「いやだってここ男子トイレだろ」
「問題ない」
あるだろ。
「それよりも、誰かと話をしていたみたいだけど」タキオンはそう言ってわざとらしく周囲を見渡し、「あれれ~、おかしいぞぉ?君以外人は見当たらないなぁ。一体誰と話していたんだい」
「独り言だよ」
「フゥン?」
タキオンは不機嫌そうに顎をしゃくった。
「そうやって格好つけるのは一向に構わないがね。何でもかんでも一人で抱え込むと、いつかその報いを受けるかもしれないぞ」
「……」
タキオンはじっと、僕を見ていた。割と長い付き合いになるが、相変わらず何を考えているのか、その瞳から推察することはできない。
「……いや、俺は大丈夫だよ」
「そうかい」
タキオンはあっさりと身を引いて、トイレのドアを開ける。
「早く来給へよ。みんな君を待っている」
「……ああ」
僕はタキオンに続いてトイレを後にした。
胸の奥にある葛藤を抱えたまま。
タキオンの言う通り、僕は誰かを頼るべきだったのかもしれない。或いは、頼らなくて正解だったかもしれない。
結局何が正しくて、何が間違った行動なのか、たとえその代償を払う時が来たとしても、明確な答えを導き出すことなどできないのだ。
だけど一つだけ言えることは、僕は僕のやったことに対して、もう間もなく重大な責任を負い、決断を下さなくてはならない時がやってくるということだけだ。