生徒会室にて、僕とシンボリルドルフは互いに向かい合い、チェス盤を見つめていた。と、そこでシンボリルドルフが顔を上げて僕に笑いかける。
「中々やるじゃないか」
「まあ、もう何度も対局してるし、いい加減ルールは覚えた」
僕が生徒会室に、こうして遊びに来るのはこれで何度目だろうか。元々は飯田さんとシンボリルドルフ、それとサードステージの三人の仲を取り持つために、生徒会室に集まってつまらないダジャレを聞くだのうんぬんかんぬんしていたのが、妙な勘繰りを入れてきた他の生徒会のメンバーだったり、トウカイテイオーだったりに邪魔されて、今では飯田さんとサードステージは来ずに僕とシンボリルドルフがチェスを打つというわけのわからない会に変わり果ててしまった。今ある伝統行事のほとんどがこうして形骸化していったのだろうか……とある種の哀愁に浸っていると、シンボリルドルフがようやっとチェスの駒を持ち上げて、トンと置いた。
「……」
チェス盤上の戦況を見て、どうやら負けが見えてきたみたいだぞ、と悟ったところで僕も顔を上げて、そこでシンボリルドルフと目が合った。
「なにか、悩み事かな。私でよければいつでも相談してほしい。安藤さんにはお世話になったから」
「いや、悩み、というか」
気まずくなった僕は彼女から目をそらしながら、
「ちょっと個人的に気になっているんだけど、でもそれってデリケートな問題だから、お前に軽々しく聞くのは憚られる、というか」
「構わないから、まあ取り合えず言ってくれ」
「じゃあ、遠慮なく……」
僕は顔を机の向こうに座っているシンボリルドルフへ、少しだけ寄せた。
「飯田さんとはもう和解したんだろうけど」
「うん」
「和解してなかった頃の話だとして、……実際の所、どれくらい飯田さんのことを恨んでたんだ?」
「うーん」シンボリルドルフは困ったように首を傾ける。「難しい質問だな。どれくらいと言われても、これといった明確な尺度もない、どういえばいいのやら」
「わかりやすく行動で示すとすると?」
「……そうだな。安藤さんを信用するとして、素直に言うと」
シンボリルドルフはグッと顔を近づけて、
「噛み殺してやりたいくらい」
「……」
「かな」
「……」
……。
「なるほど」
僕たちはスッと、姿勢を正して互いの頭をもとの位置に戻した。
「ありがとう」
「どうも」
僕が駒を持ち上げて動かすと、シンボリルドルフは嬉しそうな顔になった。
「おっ、どうやらまだまだ楽しめそうじゃないか」
「まあな」
負けると分かっていても、最後までせいぜいじたばた足掻くさ。それが勝負ってものなのだと、この三年間でよく学んだのだ。
勝ち負けは重要だが、勝負の過程にこそ価値がある。互いが正々堂々全力でぶつかり合い、その結果が勝ちだろうが負けだろうが、そこから得られるものは、きっと同じだ。酸いも甘いも、結局は同じくらい僕たちの人生に欠かせないものなのだから。
だから、後悔する者たちとは、勝負に全力で挑まなかったもの、そして、挑めなかったものの二者ただそれだけだ。
僕たちの仕事は、彼女らが全力でレースに挑めるよう補佐すること。
そうだろ、竹中さん。
「ところでつい最近思いついたジョークがあるのだが、是非とも聞いてくれないか」
「別に聞きたくない」
「先日素晴らしい毛並みの犬が歩いていてだな……」
止めろって。
どうせ「毛並みがワンダフル」とか言っちゃうんだろ?
〇
「いや、俺は竹中さんのことあまり知らないなぁ。中央のライセンス取ったのは数年前だし」
「そうだったんですか……」
オグリキャップとラックリーターが目の前を駆けてゆく中、僕と北原さんの二人はトラックの埒に寄りかかって談笑していた。
というか、この人僕とほとんど変わらない時期にここに来た新米だったのか……。ベテランと並んでそれっぽい顔してたから、全く気が付かなかった。
「南坂さんなら何か知ってるかもな」
「南坂さんですか……。一度話を聞きに行ってみます」
あまり話したことはないが……。あれ?でもあの人結構若かったような?一瞬よぎった不可解な思いは、北原さんの続く言葉に遮られた。
「そうか。にしても、お前んとこのラックリーターめちゃくちゃ速いじゃねぇか。さすがは話題のダークホースマンといったところだな」
「え、ええ、まあ」
「来るんだろ?ドリームシリーズに」
「そうですね。そのつもりです」
僕は向こうで走るラックリーターを改めて見た。調整中の軽い併走とはいえ、あのオグリキャップと遜色ない立派な走りだ。あの二人が並んで走る姿など、一昔前は想像もつかなかったが。
「……そういえば、オグリキャップの父親とは今どうなってるんですか」
「それがな、あの二人意外に上手くやってるみたいでよ。二人で飯食いにとか行ってるみたいだ」
「そうなんですか?」
「ああ、全くわかんねぇもんだな。親子ってのは」
「……」
人間関係は、刻一刻と変わっていく。それもきっかけさえあれば、劇的に。
変わらないものもあるのだろうか?
〇
「竹中さんの初めての担当と言えば、レッドカグヤですね」
チームカノープスのトレーナー、南坂カイ。年齢不詳経歴不詳の、かなり謎の深い人物だ。色物の生徒をまとめ上げていることからその手腕の高さはうかがえるが、G1を取り切れていないことから、イマイチ評判もパッとしない。
二十代、よくて三十手前といった風貌だが、実のところはっきりとしない。
どこか胡散臭い感じがする。そう思い今まで特に話すこともなかったのだが、彼はなんと竹中さんとレッドカグヤの関係性を知っていた。
「初って言っても、その当時の竹中さんは、サブトレーナーとして堅実に実績を重ねてましたから初々しい感じはありませんでした。G1にも何度か出場してましたし。でも結局G1では勝ち星を上げられないまま、学園を去ることになってしまいましたが」
「退学ですか?」
重賞に出場していた、ということはそれなりに活躍していたということ。成績不振での退学ではないということだ。
何かあったのだろうか。
「実は……いや、これは人に話すようなことでもないですね。私の口からは話せません」
「そうですか」南坂さんは見るからに口の堅いタイプの人間だった。これ以上押しても無駄だろう。と、僕は南坂さんに頭を下げてお礼を言った。「ありがとうございます、わざわざ時間を取らせてもらって」
「あっ、待ってください」
僕が部屋を出ていこうとすると、南坂さんは僕を引き留めた。
「安藤さん」
「……なんですか」
「竹中さんは良い人ですよ」
「……はい、確かに」
僕は後ろ手にドアを閉めた。
「……」
しばらくそのままじっと考え込んでいたが、やがて僕は何も言わずに歩き始めた。
〇
「あら、意外に片付いてるわね」
トレーナー室に入ってきた福良さんは開口一番、そう口にした。
「アイネスフウジンが、ここに来るたびに色々整理とかしてくれてるからな」
「へぇ」
福良さんはトレーナー室を横切って、窓枠に腰かけた。
「元気そうで何よりだわ」
「ああ、そうだな」
それから福良さんは、何も言わずに窓の景色を眺め始める。一体何を考えているのやらさっぱりだ。まあ、僕の方もはたから見れば大概なのだろうけど。
「あのさ、竹中さんのこと、お前はどう思ってる?」
「は?」
福良さんは狐につままれた、というのは些か誇張しすぎではあるが、それなりに虚を突かれたといって遜色ない表情が顔に浮んだ。
「なんで急に竹中さん?」
「いや、なんとなく。どう思ってんのかなぁって」
「なんなのよ藪から棒に」
と言いつつも「そうね……」とか呟いて真面目に考え込んでいる福良さんは、とても気のいい人だと思う。
「優秀、というか堅実なトレーナーだと思うけど。それなりに尊敬できるところもあるし。でも大成はできないかなって思う」
「それはまたどうして」
「というか、しないって言った方が正しいかな。なるべくリスクを嫌っているというか、トレーナーとしてあと一歩踏み込みが甘いのよ」
「なるほど」
「で、それが何?」
「いや、ちょっと気になっただけだって」
そういいつつ、僕はその時にはすでに福良さんから目を離して、ボーっと部屋の隅を眺めていた。福良さんは訳が分からないといった風な目でそんな僕をじっと見つめていた。
〇
例の公園のベンチに僕がたどり着いたときにはすでに松尾さんはベンチに座って、手元の新聞を広げて待っていた。
「悪い、待たせたか」
「いえ、今来たところです」
それから松尾さんは「なんちゃって」と笑って頭を擦った。やめてくれよ、ぞっとするからさ。
「それにしても」と、新聞の記事をじっと眺めつつ、「サイレンススズカ、海外でますます活躍してますねぇ」
「ファンなのか?」
「最推しです。あ、次点では安藤さんが推しですよ」
「殴るぞ」
「いえいえ、冗談でなく。安藤さんの行動は見ていてとても興味深いですからね」
「……それで、頼んでおいたものは?」
僕が急かすと、松尾さんはカバンから大きな封筒を取り出しつつ、意味があるのかないのかわからないが周囲に聞こえないよう小声で、
「私のコレクションから引っ張り出してきた『秘蔵』です。取扱いには十分注意してください」
「大丈夫、外には漏らさないから」
「ちょっと待って」
僕が封筒を受け取ろうとすると、松尾さんはグッと手に力を入れて封筒を離さなず、
「これを見て何をするかはわかりませんが、くれぐれも早まった行動はとらないでくださいよ」
「……大丈夫、松尾さんには迷惑をかけないから」
「まあ、信じましょう」
すっと、封筒から力が抜けていくのが分かった。僕は封筒を受け取って懐にしまうと、もう用は済んだとばかりにさっさと立ち上がった。
「安藤さん」
僕が振り返ると、松尾さんはベンチに腰掛けたままの姿勢で、
「失われたものやどうしようもない出来事に、いつまでも振り回されていてはいけません。仕方のないことだと諦めて、掘り返さずにおくのがいいことだってある」
でもそれはいつまでも埋まったままじゃない。きっかけがあればいつでも顔を覗かせるはずだ。どうしようもなくなってから露出するよりも、今掘り返して、しっかりとけじめをつけなければならない。
「でもそれは安藤さんがやらなくてもいいではありませんかね」
「けじめをつけるのは俺じゃない」
竹中さんだ。僕は口に出さず、心の中で呟いた。
〇
「あの、トレーナーさん。ブルボンさんがチームに来るって、本当ですか?!」
僕が買ったばかりの金属バットを手に取ってじっと眺めていると、トレーナー室に押しかけてきたライスシャワーが、嬉しそうな顔でどこからか聞いたらしいことを口にした。
「あ、ああ。といっても、仮契約での参加だけど」
随分嬉しそうな、というよりも期待と確信の入り混じったような眼だった。これで僕が「嘘ぴょーん」とでもいったなら、目の前で思いっきり舌打ちされそうな雰囲気が出ていた。
僕が曖昧に頷くと、ライスシャワーの耳がウサギのようにちょこちょこと跳ね回った。
「そうなんだっ!……でも、どうしてブルボンさんが?」
「黒沼さんが私用で休職中だから、代わりに俺が引き受けることになったんだ」
黒沼さんは僕への引継ぎの終わったその去り際に、「やれやれ、俺はもうカタギなんだがな……」とか言いながらトレセン学園を発っていった。黒沼さん、本当のカタギはカタギなんて言葉使わないと思います……。
「そうかぁ。でも、ブルボンさんとトレーニングできるなんて、ライス嬉しい」
「いや、怪我はもう治ってるけど、まずはリハビリからかなぁ。だからトレーニングは別々だな」
「あっ……そうなんだ」
途端にしゅんとなるライスシャワー。いつの間に彼女たちはこんなにも仲良くなったのだろうか。バクシンオーとは仲良くないのだろうか。いや絶対に仲良くないな。性格が合わないだろう。
「まぁ、黒沼さんが帰ってくるまでだから、それまでに一緒にできるかどうかってところだな」
「ずっと一緒にいるわけじゃないんだね……」
「うん、まあ、それは」
「そっかぁ……」
そういって、とぼとぼとトレーナー室を去っていくライスシャワー。
……それだけ聞くためにここに来たのだろうか。
「……」
そんなことよりも、僕にはしなくていけないことがある。
ポケットから携帯を取り出して、電話をかける。
僕は手に持った金属バットを力強く握り締めた。
そして、かなり長い時間がたってから、ようやく電話がつながった。
「もしもし――…」