「やめときなさいよ」
病室を歩く僕の前に、幻影が姿を現した。
「安藤さんがそんなことする必要ないでしょ」
「そうかもしれないな。でも、これは俺の自己満足でやってることだから」
「わけわかんない」
それきり、幻影はじっとして黙りこくってしまった。
「ゴメン。俺のやったこと、意味なかったな」
「……意味がない、なんてことは、ないわ」
少しだけ俯いている幻影の目元は、サンバイザーに隠れてよく見えない。口元がもごもごと動いているのだけが分かった。
「あの時の私、ちょっと心細かったから」
「そうか」
「だから……その、励ましてくれて、感謝してるわ」
「ああ」
「あの…………ありがとうございます」
最後に聞こえるか聞こえないかくらいの小声で感謝の言葉を述べた幻影に、僕は思わず笑った。
「きっと助かるよ、君は」
「それはないわ。たくさんの人が待ってるもの」
「そうだな。順番だからな。でも、運が良ければ……」
言葉をつづけようとして、やめた。もう僕一人しかいないことに、気が付いたからだ。
彼女は助かるだろうか。
きっと助かるのだろう。
なんとなく、僕にはそれが分かった。
「もう、行くよ……」
虚空に向かって、そう呟いた後、僕は病室を一人歩いて行った。
〇
僕はドアを開けた。
そして、たくさんの機器につながれて寝かされている、ラックリーターの隣に腰を下ろした。
「……」
僕は、ラックリーターの顔をじっと見た。意外に血色がよく、本当に寝ているみたいだった。呼吸器から息が漏れているような音が聞こえるのと、頭に包帯がまかれているのは、少々尋常でないけれども。しかし、これでは両親が納得しないのもうなずける。
「……」
やはり、幻影は現れない。
「……」
リーターは、何も意思を示さない。
「……」
何もわからない。
わかるのは、彼女がドナーカードを持っていて、臓器を渡す意思を示している、ということだけだ。
だけど、このままじゃ多臓器不全で、すべての臓器が使えなくなってしまう。
「……」
だからその前に、お前を殺そうと思う。
死んだ後も提供できる臓器がある。
眼球、膵臓、それから腎臓。
きっと誰かの役に立つ。
運が良ければ、あの娘の役にも。
僕は別に、そういう奴らのためにこんなことをしようってわけじゃない。
お前ならきっと、こうしたいと言うだろうから、するんだ。
いや、本当はお前の考えてることなんて何もわからない。曲がりなりにも3年間一緒にやってきたはずなんだけどな。
「……」
僕はしばらくじっと座って待った。
それでも、頭痛は起きなかった。
「……」
僕は椅子から立ち上がった。
僕が何をしなくてはいけないのか。本当ならお前たちが示してくれるはずだったのに、何時からか僕自身が、僕のしなくてはいけないことを考えるようになっていた。
何をしなくてはいけないのか。何が正しくて、何が間違っているのか。
「……」
僕はラックリーターの指についていたプローブ、パルスオキシメーターを外して、素早く僕の指に装着した。これで、病院には悟られないだろう。
「……」
きっと答えなどない。
結論は出ない。
それでも、僕は進むしかなかった。それが彼女のためなのか、自分のためなのか、それすら曖昧なままに。
「……」
ラックリーターの喉に取り付けられていた呼吸器を、
外した。
「……」
自発呼吸なし。
もうすぐ、ラックリーターは死ぬ。
脳死だから、もう死んでいるのか。それとも今死ぬのか。
知らない。
そんなことはわからない。
何をすればリーターの助けになるのか、僕にはわからない。でも、何かしたかった。
何でもいいから助けになりたかった。
「……」
もうじき冷たくなるラックリーターの手に、そっと触れた。
頬に、涙が流れ落ちた。
その時だった。
頭痛がした。
「……」
僕がゆっくりと振り返ると、そこにラックリーターが立っていた。
「……」
僕と、ラックリーターはしばらく見つめ合っていた。
それから、ラックリーターは僕にそっと微笑んだ。
「ありがとう、トレーナーさん」