陽が沈みかけている。
夕日が学園全体を赤く染めていた。明るくもなく、暗くもない。そんな時間帯。道行く生徒たちの輪郭もぼやけて、その姿は不鮮明になりつつあった。
まるで先ほど見たアグネスタキオンのように。
あれが本物のアグネスタキオンとは違うものだということはなんとなくわかる。本物、という言い方が正しいのかはわからないけれど。どっちもある意味で本物なのか、或いは全部僕の妄想なのか。
もしこれが妄想か何かだとすると、頭を打ったせいでそんなものを見るようになったのだろうか。いや、それともつらい現実から逃げたいという強い思いが生んだ幻なのか。
どれだけ考えても答えにたどり着けるわけがなかった。
歩きながらそんなことを考えていた僕は、不意に足を止めた。
「……」
頭に響くような独特の頭痛。おそらくアレの予兆が。
「私は来月にはここを出ていく予定だ」
「……」
そいつはやっぱり当たり前のように隣に立っていた。まるでつい先ほどまで僕と一緒に歩いていたかのような素振りだった。
僕は構わずに再び歩き出した。近くに歩いている生徒たちがいる。立ち止まっていては不自然極まりない。
僕が歩き始めると、アグネスタキオンの幻影も肩を並べて歩き出す。ただし、気のせいかもしれないが、本来聞こえてくるはずの足音が聞こえない。
「来月にアメリカに留学するつもりだ」
「……俺にそれをやめさせろってのかよ」
小声でそう返すと、ずっと微笑のみを浮かべていた幻影の表情が初めて崩れた。
「いやぁ話が早くて助かるよ」
「そうしないと消えてくれないんだろ」
「ありがたいねぇ。聞き分けをよくする手間が省けた」
「……」
無言かつ無表情で幻影を見やる。 彼女は満面に笑みを携えていた。
「いや冗談だとも、冗談!私にそんなことはできないよ」
「本当だろうな」
「今の私じゃせいぜいキミのマイクロフィラメントのねじれを三回転にするくらいさ」
「……で、俺は具体的には何をすればいい?留学を止めるって、決めたのは本人じゃないのか」
どこまでが冗談でどこまでが本気なのかわからない、のでこれ以上の不毛な言及は避けることにする。それに、僕にとって重要なのは留学の件だ。
「お前自身が決めたことなんだろ」
「そうだね」
幻影は当たり前かのように同意する。
「そうだねって……」
「他でもない、この私の決断を百八十度変えさせるのは少々骨が折れるだろうが、他でもない、私の手にかかればできないことはないさ」
なんかややこしいな。
「そもそもなんで一度中退を決めた学園にまた居座りたいと思ったんだ。聞いた話じゃ授業にもレースにもロクに出てないそうじゃないか」
「授業やレースに出ないのは必要がないからさ。そして中退を取り消したい理由は私の研究に必要な、大切なものがここにあったからさ」
頭が痛くなる話だ。勉強する、レースに出走する。この学校にそれ以外の何か意味があるのだろうか。 彼女はそのどちらもあまり求めていないように思える。
「ここは可能性で満ち満ちている」
ついていけない僕を置いて勝手に盛り上がる幻影。
「それにモルモット、間違えたウマ娘たちもたくさんいるし」
おいおい。 今生徒らのことモルモットって言った?
「それに気が付いたときにはすでに何もかもが手遅れだった」
手遅れ?
何のことだろう。
全く話についていけない僕に構わず、アグネスタキオンの幻影は一方的に話し続けた。
「こちらの私はまだ間に合う。キミが私に与えてくれたチャンスさ」
僕が?
思わず立ち止まって、幻影と向き合う。彼女は真剣な目でこちらを見ていた。アグネスタキオン。名前は知っていても、まるで接点のないウマ娘。それがあたかも旧知の間柄のように話しかけてくる。そしてそうするのが当たり前のように、僕に無茶苦茶な相談をしてくる。
まるで現実味がない。
ふわふわと頭が浮いているようだ。
目の前のアグネスタキオンの幻影は、その輪郭が蝋燭の火のようにゆらゆらと揺らめいているのが分かる。触ろうとしてもゆらゆらと揺れるだけで触れられない気がした。
「そういうわけだから、頼んだよ。安藤くん」
幻影は僕の名前を呼んだ。
そういえば一度も教えていないはずの僕の名前を、こいつは始めから知っていた。 どこで見知ったんだ。
一体こいつはなんなんだ。
本人にそれを直接問いただそうと口を開きかけて、急に猛烈に嫌な予感がしてふと横に目を向けた。
二人の生徒がこちらを見て何やらぼそぼそと会話していたのが見えた。その生徒らは僕と目が合うと、逃げるように足早に立ち去っていく。
「……」
再び視線を戻すと、幻影は影も形もなくなっていた。まるで最初からいなかったかのように。ていうか、そっちが本当なのかも。
気付けば僕は道のど真ん中で、一人突っ立っていた。
なにやってんだ。
「……気を付けないとな」
いや、冗談抜きでさ。
〇
今は使われていない旧理科準備室。
アグネスタキオンはそこを根城にしているらしい。……一介の学生でしかない彼女がそんなことしていいのだろうか。
とりあえずドアをノックしてみる。
が、返事はなし。
「開けてしまえばいいよ」
云われるままにそっとドアを開けると、中には幻想的な光景が広がっていた。薄暗い部屋の中。試験管、ビーカー、フラスコ。学生の頃よく見た実験器具や、液体バックなどの見慣れないものまで。その中には緑や赤に発光する謎の液体が周囲を怪しく照らしている。おそらく照明器具などのインテリアの一種だとは思うが、まさかあれを人体などに投与するわけではあるまい。そんなことしたら死ぬと思う。
何よりこの部屋を摩訶不思議な空間たらしめているのは、部屋のもう半分が全く別の趣向で彩られていることだった。趣味のいいインテリアで程よく飾られているその部屋には、まるで別々の部屋を半分に割って無理やり接合したかのような違和感があった。まあ、こっちはこっちでアグネスタキオンの研究室同様不思議な感じがする部屋だけど。少なくともアグネスタキオンとは別の者がこの部屋を半分使ってるのだということはわかる。ルームシェアという奴か。仲がいいのは結構だが学校ですることじゃないだろ。
「……アグネスタキオン?」
研究室の奥の方。
淡い光に照らされた一人のウマ娘が何やら実験しているのが見える。そいつはようやく僕の存在に気が付いたのか、物憂げな動作でこちらに頭を傾けた。
「おやおやおや、キミは?」
聞き覚えのある声。
やはりあれは……。
「トレーナーの安藤だ。ちょっといいかな」
「ン?ダメ」
「……」
ふざけんな。
「見てのとおり、私は研究で忙しいんだ」
アグネスタキオンが手に持った三角フラスコを掲げると、中に入っているピンク色の薬品のようなものがポコポコと煙を吹いた。なんかやばそうな気体が出てるけど、この部屋ちゃんと換気しているんだろうな。
「少しだけでいいからさ」
何とか粘ってみようと試みる僕をあざ笑うかのように、アグネスタキオンは手をひらひらと振って俺を追い立てようとする。
「後にしてくれたまえ~」
微動する液体パック。歪むアグネスタキオンの鏡像。
「話を聞いてくれよ」
「ん~、あ、じゃあこの新薬の実験体になってくれるならーー」
全く折れる気配のないアグネスタキオンに、僕は仕方なく急いで扉を閉めた。
「確かにお前の言う通り、こいつは骨が折れそうだな……」
どうするかなぁ。
ため息を大きくついた僕は、そこでようやく間近からこちらをのぞき込むウマ娘に気が付いて、思わず飛び上がりそうになった。
怪しく光る双眸。
なんというか、そいつはまた妙な雰囲気のウマ娘だった。墨で染めたかのように真っ黒な黒髪に、一筋の白い流星が異質に浮き上がっている。
謎の威圧感に、思わずうめき声が漏れる。何だ、この感覚。
もしかしてこいつも……。アグネスタキオンと同じ、幻影なのか?
急いであたりを見まわすが、人影はない。
固唾を飲んで、もう一度彼女に向き直った。金色の双眸がこちらをじっと見つめている。
聞いてみるか。本人に、直接。
いや待て待て。冷静になれ。よく見てみると、アグネスタキオンの幻影のような奇妙な揺らぎのようなものを感じない。あくまでも神秘的な雰囲気である、ってだけだ。何より早とちりして間違ってた時のリスク高すぎる。
「あの……、タキオンさんに、何か御用ですか」
こちらが黙っていると、しびれをきらしたのか向こうから話しかけてきた。
「あ、ああ。でも話も聞いてもらえなかったよ」
相変わらずじっとこちらを見つめてくるウマ娘。瞳から警戒色がなくならない。
「えーと、君は?」
「……タキオンさんと一緒に、ここを使わせてもらってます」
なるほど。
理科準備室の半分。あの研究室とは違う不思議空間はこの娘のものだったのか。
「……タキオンさんに、何か話を聞かせたいなら」
「はい?」
「多少強気で……あの人は案外、押しに弱い……ですから」
白髪がゆらゆらと揺れた。
「そう、なのか?」
ニスの効いた床に、二つの影がぼんやりと浮かぶ。
「……では、私はこれで」
「あ、ああ」
そういって黒髪のウマ娘は旧理科準備室に入っていった。しっかりドアが閉じ切るのを確認してから口を開く。
「不思議な奴だったなぁ」
「知ってるかもしれないが彼女はマンハッタンカフェ。なかなか面白いウマ娘だよ。プランの要でもある、いやあったというべきか」
「へぇ」
プラン?なんだかよくわからないが、とにかく彼女とは親しい間柄なのだろう。ルームシェアしてるくらいだし。
「彼女なら私に気が付くかと思ったんだがねぇ」
「どういうことだよ」
僕は幻影の方を振り向いた。廊下は恐ろしいほど無音だった。僕以外の誰の動きも感じられなかった。
「彼女、霊感を持っているんだよ。いつも一人で何もいない空間に向かってしゃべってるんだ。どうも彼女の近くにはオトモダチとやらがいるらしい。まあ、所謂ところの幽霊という奴なんだろう」
幻影は面白そうに喉を鳴らして話し続ける。
「いつも他の人には見えない何かとしゃべってるんだ彼女は。まるで今のキミみたいにね」
「……」
窓の外を複数のウマ娘が歩き去っていく。 こちらには目もくれずに。
「ちょっとは期待していたんだけどね」
「……霊感ってことは、遠回しにお前が幽霊だって認めるわけか」
「どうなんだろうね。私は幽霊のようなものだと予想してたが、カフェの様子を見るにそれは間違いだったのかもしれない」
結局本人もよくわかっていない、ということか。
「それで、どうするんだ。どうやってお前自身を説得したらいい?」
畢竟僕にとって重要なことはそれだけだった。
アグネスタキオンが抱える事情も、交友関係も、僕にとってはなんの意味もない情報だから。
「心配いらないさ、キミが私に協力してくれるなら、だけどね」
「妙に自信だな。俺に何を期待してるか知らんけど」
「期待するのは当たり前さ。ほかでもないこの私が、キミに興味を持たないはずがない」
「ん、なんで」
アグネスタキオンの幻影は、人差し指を立てる。その指の先は僕を差す。
「キミの持っている
力?
よくわからないがどうやらアグネスタキオンの幻影は僕のことを妙に買ってくれているみたいだった。だが全くいい気分がしなかった。彼女の、ガラス越しにこちらを観察してるかのような、薬剤を投与したモルモットを見ているかのような目が気に食わなかったからだ。
〇
誰もいない暗い部屋の中、ディスプレイに表示されている文字列だけが僕の顔を冷たく照らしていた。この二年間ですっかり見慣れた光だ。
「先輩の知り合いにそういうの得意な人がいる。頼めば、何とかなりそうだよ」
「それは僥倖」
彼女の身体はあの時と同じように暗闇の中で淡く光っていた。やはり人間ではないのだろう。人体が発光するなんてありえないし。
「というか、親御さんへの説得はまあわからなくもないけどさ。正直ここまでする必要あるかな。学費とか諸々世話になってるのは確かだけど、お前が親の迷惑を気にするようなウマ娘か?」
「いや、……」
アグネスタキオンはそれから少しだけ黙った。いつもの舌鋒鋭いズケズケとした物言いからは想像もつかない歯切れの悪さだった。
「言い難い理由なのか」
「……そんなことないさ」
アグネスタキオンは僕から少しだけ目をそらしながら話し始めた。それも不遜な彼女には似つかわしくないしぐさだった。
「母親が苦手なのさ」
……それはなんというか、意外な話だった。
「そうかい?ごく一般的な悩みだと思うが」
「いや、なんというか、ことお前に関しては親だとかそういうしがらみを気にしない質だと思ってたから」
僕も自分の親は苦手だ。だからというかそれ自体は珍しいことでも何でもない。ただ、アグネスタキオンが言うと違和感がある。そういう決めつけはよくないのかもしれないけども。
「私もだよ。ずっと自分勝手に、自分の生きたいように生きてきたと思っていたし、まあ事実好き勝手してきたんだけどね」
好き勝手、か。随分羨ましい人生だ。だけど羨ましがられる分だけ、歩んでいくのが難しい生き方だ。少なくとも自分には無理だと思う。大人になるとなおさらだ。
「でも、心の奥底はあの人に縛られていたんだと思うよ。思い返すと私は本当に大切な選択をいつもあの人の機嫌に委ねてきた。今回の中退の件も、元はあの人が言いだしたことだからね」
まあ、大小の差はあれ子供っていうのはみんな親の言いなりだ。アグネスタキオンもその例に漏れなかっただけという、ただそれだけの話なのだろう。
「あの人は私に、レースでの結果しか求めてない。走れなくなった私を学園にいつまでも置いておかない」
もしかしたら。
ふと思った。もしかしたら、入学当初の退学騒動を引き起こした理由も、親による抑圧の表れ、13歳の言葉なき拙い抵抗だったのかもな。きっと本気で退学しようとは思っていなかったのだろう。
「で、その七面倒な母親をこのネタで強請れるのかよ」
「ああ、間違いない」
僕の後ろで、静かに扉が開いていく。
「私とあの人は似てるんだ」
似てる?
「私があの人に逆らえないように、あの人も親には逆らえないのさ。留学して一ヶ月後に、祖父が亡くなって初めてそれに気がついたよ。あの人は祖父が死んでから急に腑抜けたみたいになってーー」
僕はアグネスタキオンの言葉に集中していた。だから、後ろの人影に気が付かなかった。
「何してる」
驚いて振り返ると、竹中さんがじっとこちらを見つめていた。
「あ、あぁ、いや」
急いでノートパソコンを閉じた。
「何でもないですよ」
「お前、最近アグネスタキオンに執心だな」
竹中さんは何もかも見透かしているような目をしていた。もしかしたら僕がちょっと、いやかなりおかしな状況に陥っているのも理解しているのかもしれないと、つい思ってしまう程だった。
「アグネスタキオンの中退を止めたいのか?」
「えぇ、まあ」
観念して正直に告白すると、竹中さんは小さくため息を吐く。
「なんでそんなことする」
それを正直に言えたら苦労しないのだが。
「はぁ、まあなんでもいいけどな」
僕が黙りこくっていると、竹中さんは半ば諦め口調で話を続ける。
「若いんだからやんちゃもいいが、無茶はするなよ。生徒とトレーナーなんてのはな、仮に契約したとして所詮数年の付き合い、赤の他人なんだ。あまり入れ込み過ぎるな」
竹中さんは机の端に腰かけた。暗い部屋に竹中さんの影がぼんやりと浮かび上がる。
「だいたい、お前の今の担当はラックリーターなんだからな」
「はい、わかってます」
「ま、それでもってなら全力でやれよ。俺も少しは協力してやらんこともないから」
「ありがとうございます」
そういって竹中さんは部屋を出ていく。
暗い部屋には自分一人だけがポツリと残された。僕は再びパソコンを開いて、キーボードをたたき始めた。
〇
昼。
公園。
僕たち以外人一人いない公園。
その公園のベンチ。
僕ともう一人、松尾さんというフリーのジャーナリスト。少しだけ距離を開けて二人でそのベンチに腰かけていた。
心地の良い風が吹いている。
「あなたのような、中央のエリートトレーナーが私に御用とは」
松尾さんは被っていた妙な形の帽子を頭から外して手に取ると、カバンから一通の封筒を取り出した。
「それが、頼んでおいたものですか」
「こんなもの、何に使うんです」
そういって封筒を僕に手渡した。
「まあ、ちょっと」
「アグネスタキオンと、何か関係があるんですか?」
「……」
「安藤さん、どうやらアグネスタキオンの退学を止めたいらしいですね。もしかしてそれに必要なんですかね」
どうやら優秀だという話は本当らしい。こちらの事情をかなり把握しているようだ。どうやってかは知らないが。
「まあ、そんなところです」
「そうですか。あ、私そろそろ帰ります」
松尾さんはベンチから立ち上がった。
「いくら払えばいいんです?」
懐から財布を取り出そうとする僕を、松尾さんは手で制した。
「初回なので結構です。もともと趣味で始めたことですし、多少恩に着てもらえればそれで」
「……」
「では、また」
松尾さんは思い返したように手に持っていた帽子を頭にのせると、ベンチから立ち去っていった。
不思議な人だったな。