ノックする。
扉を叩く。
旧理科準備室のドアプレートと、扉の前に立ち尽くす自分。
アグネスタキオンとマンハッタンカフェの根城。
反応はなかった。
僕は返事を待たずに部屋に入った。部屋の中はやはり暗いままだった。まさか電気が通っていないわけではないだろうけど、ここの蛍光灯は腐り落ちでもしているのだろうか。部屋にはアグネスタキオンとその友人が忙しなく動いていた。どうやら部屋の片づけをしているらしい。
アグネスタキオンはずいぶん早い段階でこちらの気配には気が付いていたはずだが、あたかも今しがた気が付いたかのような素振りでこちらに顔を向けた。
「ああ、またキミかい。何度も言ってるけどーーあ、それはもっと丁寧に扱ってくれたまえ」
「……はいはい」
アグネスタキオンに言われて渋々といった体で、マンハッタンカフェは抱えている段ボール箱を緩慢な動作で運び始める。
「今日の夜八時に栗東のトラックに来てほしい。面白いものが見れるから」
僕が矢継ぎ早にそう告げると、ピタリと中空で止まる段ボール箱。僕の背の向こう側から、こちらに顔を向けるアグネスタキオン。
「面白いものねぇ。なんだいそれ」
「ウマ娘の可能性ってやつだ」
「は?」
じっと二人を見つめるマンハッタンカフェ。その奥に僕とアグネスタキオンが向かい合う。少しだけ張り詰めた空気が二人の間に流れた。
「知りたいんだろ」
「ふぅん……?」
アグネスタキオンと僕はじっと見つめ合った。そして、彼女は少しだけ顎を引いた。
「どこから聞いた話か知らないが、少しは期待していいのかな?」
「もしその気があるなら、走れるような恰好で来てくれ。シューズも忘れずにな」
アグネスタキオンのブロックノイズのような横線の走った独特のタペタムが、僕をじっとりと見つめた。まるで投薬したマウスの容態を観察するかのよう。
「何を見せてくれる?」
「……期待していてくれ」
打合せ通り、思わせぶりな捨て台詞を吐いてから部屋を出た。
それからなるべく足早に立ち去る。十分に旧理科室から距離を取ったところで、僕は後ろを振り返った。
「……で、俺も期待していいんだろうな」
僕の視線の先、アグネスタキオンの幻影は余裕綽綽の笑みを浮かべている。
「もちろん」
「うーん」
僕は首をひねってそれに応えた。なぜなら、彼女の言うことはとてもじゃないけど信憑性のない、オカルトのような与太話に思えるからだ。オカルトというと彼女の存在そのものがオカルトではあるのだが。
「もう一度確認していいか」
「存分にしてくれたまえ」
彼女の許可を取ってから、僕は話を続ける。
「普段のお前は俺にしか見えないし、何にも触れることもできない」
「うむ」
幻影は神妙に頷いた。自分以外認知することができない。まさに幻だ。
「だけど、俺の身体を借りることで、他の者に見えるようになったり、物に触れられるようになると」
「そういうことだ。まあ、それも限定的なものにすぎないけどね。今私がこの世界に干渉できる唯一の存在が君なわけだが、それがあと一人増えるってだけさ」
アグネスタキオンの幻影の人差し指が、ピンと立った。
「……うーん。確かにお前の言うことが本当なら、彼女が興味を示さないはずはないし、学園に引き留めるには十分の口実にはなるだろうけど」
なおさら首を捻る僕に、幻影はやれやれと首を振った。
「信じられないなら、本番前に練習でもしておくかい?個人的にはあまりお勧めしないけど」
「どうして?」
僕がそう尋ねると、彼女の顔からスッと表情が抜け落ちた。
「戻ってこれなくなるかもしれないからね」
〇
照明のついていない夜のトラックは、まるでぽっかりと空いた大穴のように暗闇に閉ざされていた。だからこそ、普段は肉眼で見ることのできない星空が満天に光り輝いているのが見える。
ふたりしてぼんやりとそれを眺めていると、向こうの方から、ジャージを着たアグネスタキオンがポツポツと歩いてくるのが見えた。どうやら約束を破る気はなかったらしい。
「待たせたね」
「ああ、まさか二時間も遅れてくるとはな」
僕の冷たい目線を交わすかのように、アグネスタキオンは肩を竦めた。
「大した用事じゃなかったら、諦めて帰ってくれると思ったのだよ」
「小賢しいよ……」
「まあそれはさておき」
さておき?こっちは二時間立ちっぱなしだったんだけど……。
「面白いものって何だい。まあ、あんまり期待してないがね」
本当に興味がないみたいだった。彼女は夜空を見上げていた。空には満天の星空が、わずかにかすんで見えていた。まるで天体観測が本命だとでも言わんばかりに、彼女の興味は星空に吸い込まれているみたいだった。
「たまには夜の外出も悪くないね」
「星が好きなのか」
「美しくて神秘的なものは何であっても心惹かれるものさ」
どうも本心でそう言っているのか、それとも口から出まかせで適当なことを口走っているのかわからない。でもそんなことは極論どうでもいい。
「お前にとっては、ウマ娘もそうなのか」
「可能性そのものさ。星空とは比較にならない」
随分な物言いだった。
「それで?私に見せたい面白いものって?」
そう口にした側から、アグネスタキオンの身体はすでに僕から離れつつあった。少なくとも全く期待していないということだけは本当らしい。
「今から見せるよ」
僕は真横に立っていた彼女に声をかけた。
「じゃ、始めてくれ」
アグネスタキオンが興味深げにこちらを見てる手前で、僕のすぐ真横に立っている幻影は、僕の方に一歩歩み寄った。そして、まるでそれが何でもないかのような風に、するりと僕に重なり合った。
その瞬間、僕が僕だと思っていたものは、同時に僕でありアグネスタキオンでもある、と思うようになった。僕は僕自身のままはあるが、とっさに「お前はアグネスタキオンである」と誰かに指摘された時、思わず「そうだ」と答えてしまいそうなくらいには自分がアグネスタキオンだと感じるようになったのだ。不思議な感覚だった。また、記憶も混濁した。一瞬ここがどこだかわからなくなった。
これは彼女の記憶だろうか。虚無感と飽くなき探求心とが、僕の心に一気に押し寄せて飲まれそうになる。僕は首を振ってこの思いを振り払った。
自分の手を見ると、ぼんやりとほのかに光り輝いていることに気が付いた。まるで僕の身ていた幻影のように、その輪郭も蝋燭の火のようにゆらゆらと揺らめいてかすんでいた。
アグネスタキオンが驚いたような表情でこちらを見ている。だがそれよりも好奇心からか彼女の目には、驚愕よりも色濃い、狂ったような色が浮かんていた。
「ふぅン、……驚いた。思ったよりもずっと楽しませてくれそうじゃないか」
アグネスタキオンは僕の隣に立った。
「アグネスタキオン、俺と担当契約を結ぼう。そうすればモルモットにでもなんでもなってやるからさ」
夜空の星明かりが怪しく瞬いた。
「……何が君をそうさせた?なぜそこまで」
「それは自分自身もよくわからないけど。今は俺も猛烈に知りたいんだよ、お前の言う可能性の“果て”ってやつをな」
言葉は月並み、だけど狂気の虜。少しだけ彼女の気持ちが分かった気がする。
「俺が担当になったら、誰もお前のやることに文句は言わせない。母親だろうが誰だろうが」
アグネスタキオンは狐につままれたような顔をした。
「へぇ、そうかい。それは結構」
それから少しだけ笑った。中学生の、年相応の笑顔を浮かべていた。それはほんの一瞬だけど、彼女が見せてくれたほんの少しだけの素顔なのかもしれないし、僕の幻だったのかもしれない。
「わかった。君の誘いに乗ろうじゃないか」
「そうか、じゃあ」
身体を少しだけ前に倒して、じっと前を見据えた。そうすると、体の芯が喜びで咽び泣くかのように震え始めるのが分かった。泣いているのか彼女か、それともこれは自分自身の想いなのか、僕には判別がつかなかった。でも、今はそんなこと全く気にならない。とにかく自分の力を試してみたいという狂気に囚われているのだ。
「俺にも見せてくれ。誰も辿り着き得なかった“果て”を」
星空の下、一つの影が何か追いかけるかのように、夜のトラックを駆け抜けていった。
〇
猫のロゴの入ったマグカップ。その中に入った真紅の紅茶から湯気が立ち昇っている。
「おう、安藤。……どうした、それ」
トレーナー室にて。
椅子に座って仕事をしている竹中さんと、その傍で立ち尽くす僕。そろそろと近づいた僕に気が付いた竹中さんが声をかけた所だった。竹中さんは僕の手に持ったものに目が言っていた。
「担当契約の申請書です。審査お願いしていいですか」
手に持っていた紙束を、竹中さんに手渡す。
「ん、この時期にか?まあいいけど……誰との」
「アグネスタキオンです」
「あ?」
竹中さんは書類から目を離して、飄々とした僕の顔を思わずといった風に見上げた。
「アグネスタキオンとの担当契約申請書です」
「……」
唖然とした竹中さんに僕は続ける。
「それから、竹中さんに少しお願いしたいことがあるんですけどーー」
〇
「なんで今になって担当契約を受けたんだ?アグネスタキオンは」
「さあな、まあでも」
杉原と僕が、学園の門前に立っている。他に人はいない。平日のこの時間帯に通りかかる人などあまりいないのだ。
「なんだかんだで渡米は嫌だったんじゃないのか」
僕がそう言うと、杉原の頭が左右にゆらゆらと揺れた。
「イヤだったらさっさと止めるだろ。あのアグネスタキオンだぞ」
いい加減待ち続けるのも退屈なのか、杉原は大きなあくびをした。
「どうだろう」
風に揺れる葉桜。ざわざわと葉の擦れる音がする。
「あれでも中学生だからな。少なくとも俺は親の言うことに何でもかんでも頷いてたよ。多少反抗する素振りは見せたけどさ」
少しだけ思い出に意識が飛んだけど、すぐに止めた。あまり気持ちのいいものじゃない。
「あのウマ娘がか?他人の言うことなんて屁とも思ってなさそうだけどなぁ」
寝不足で充血した杉原の目が、キョロりと動く。あ。
「そういえば、本人も「親が放任主義だからのびのび育った」って言ってたな……」
「ほらな」
アグネスタキオンは自由奔放マイペース、筋金入りの夢想家。そんな気がなんとなくするし、実際本人もそのようにふるまっている。でも、本当の所はどうなのだろう。もしかしたら、あの奇天烈な性格も何かしらの抑圧に対する無意識の反動なのかもしれない。
「ま、色々あるんだろうなぁ」
適当な杉原。
「かもなぁ」
結局他人のことなんて何もわからない。言葉すら交わしていない奴ならなおさら。僕たちがいくら議論を交えたところで何も真実にはたどり着けないのだ。だから口から出てくる言葉はいつまでたっても他人事。
でも僕たちはトレーナーだ。職務上「わからない」では、結論をださないでは済まないのだ。わからなくても推し量るしかない。たとえそれが見当はずれの解だったとしても。
「放任主義っていうなら、とことん放ってほしいんだけどな」
「そうも言ってられんのだろ?親ってのは」
杉原の横顔。ちらりと同意が欲しそうな顔をこちらに向けてくる。
「かもなぁ……あ」
そうこう言っているうちに、来た。
門の向こう側から歩いてくる。
アグネスタキオンの母親だ。
〇
トレーナー室。
ドアプレートに「竹中花堂」とマジックで書かれた紙がセロテープで張り付けられている。粘着力の落ちたテープで貼られたそれは、今にでも剥がれ落ちてきそうだった。
「いまさらそのような我儘を言われても困ります」
アグネスタキオンの母親の後ろ頭が大きく膨らんでいくような気がした。
「やはり認められないと」
竹中さん。年季の入った額のしわが目立つ。
「当り前です。もう先達から推薦もいただいているのに」
竹中さんと僕、その向かいにアグネスタキオンの母親が座って対峙していた。母親からは若干のいら立ちが透けて見える。
容姿は似てるが性格はまるで違う。いや、強情なところと融通の利かないところはそっくりかもしれない。
「いまさら娘が何のつもりか知れません。そもそも留学は彼女から言い出したことなんですよ」
本人が言ったこと、ね。でも口にした言葉が本心とは限らないし、その場合でないことの方が圧倒的に多い。言葉なんて、口から出てくるそのほとんどが他人からの借りものなのだから。
「……フローラさん。アグネスタキオンをアメリカに行かせるのですか?」
いままで口を開かなかった僕が、ようやく口を開く。
「ええ」
アグネスタキオンの母親の眉がピクリと持ち上がる。
「確か、ご家族に米国出身の方がいましたね」
「……それがなんですか」
僕と彼女はしばらくにらみ合った。身動ぎもせずに。竹中さんだけが不安からか僅かに身体を揺らしていた。
「竹中さん、少し席を外してもらえますか」
振り向きざまに竹中さんにそう告げる。
「あ、ああ」
竹中さんは戸惑いながらも言われた通りに席を立った。
「大丈夫っすかねぇ」
「任せるしかねぇだろ」
杉原と竹中さんはトレーナー室の外から、向かい合う二人を静かに見守っていた。ぼやける窓の向こう側で、僕はアグネスタキオンの母親に封筒の中身を渡した。彼女はその中身を見て、動揺を隠せないでいるようだった。
それから一言二言会話を交わした後、アグネスタキオンの母親は僕に向かって深く頭を下げた。
〇
「娘に似て強情な人だったな」
アグネスタキオンの母親を見送った竹中さんと、杉原と僕。三人そろって肩を並べて立っている。学校のとある廊下で、窓の奥から遠ざかっていく影を見送った。
「せっかくの休日が潰れちまったぜ」
「別に杉原は来なくてもよかったんだけど」
杉原は笑って僕の肩を叩いた。
「馬鹿いえ俺もチームのサブの一員だろうが。いざとなりゃいつでも駆けつけるさ」
「全く役に立ってなかったけどな。入り口に突っ立ってただけだし」
「うるせぇ!……あ、ところでよ」
杉原はくるりとこちらをむく。廊下の窓に薄く映り込む杉原の横顔。
「お前どうやってあの母親説得したんだよ。あの封筒になんか秘密があるのか?」
聞かれると思って身構えていた僕は、杉原にそう尋ねられてむしろホッと安心した。
「いや、一応プライベートなことだから……」
「いいから教えろって」
しつこく催促してくる杉原につい口をこぼしてしまう。
「カルテみたいなものかな」
「あ?誰の?」
「父親の……いや、何でもないよ。忘れてくれ」
眉をしかめて唸っている杉原の肩を、竹中さんが掴んで横に追いやる。
「何でもいいけどな、こうなった以上アグネスタキオンのこともしっかり面倒見てやるんだぞ」
「はい、それはもちろ」
……。
「……すみません、先に行っててください。ちょっと野暮用を思い出したので」
「ああ」
そういって立ち去る僕の後姿を、竹中さんと杉原は神妙な面持ちで見つめていた。十分に距離が離れてから、杉原は竹中さんに耳打ちした。
「アイツ大丈夫ですかね?明らかに様子がおかしいっていうか」
「そうだな」
「やっぱなんかヤバいっすよ。頭の怪我がまだ治ってないんじゃないですかね」
「そうかもな」
竹中さんは消えた僕の背中をずっと追いかけるかのように、いつまでもじっと遠くを見つめていた。
〇
十分に二人から距離を取って、見えなくなったのを確認してから、僕は彼女と向き直った。
「これでよかったのか」
「ああ、ご苦労だったね。ゆっくり休んでくれたまえ」
「そうさせてもらうよ」
アグネスタキオンの幻影は微笑みを浮かべていた。今までのような気障な笑みじゃない、年相応の笑顔だ。
廊下に僕と彼女が向かい合って立っている。
窓に彼女の姿は映らない。
「なあ、タキオン」
僕はいつか見た彼女の記憶を、その時感じた思いをなんとか彼女と共有したいと思う。だけど、うまくその想いを言葉にできない。
「いや、……やっぱり何でもない」
結局何も言わないことにした。何を言っても野暮になる気がした。
あの時の僕の体験を、もしかしたら彼女も似たような体験をしているかもしれない。であれば今の僕の想いをわざわざ言葉にしなくても、彼女自身が勝手に推し量ってくれるだろう。仮に似たような体験を共有していなかったとしても、それはそれで構わないとも思う。
「これで私は学園に残ることになる」
「そうなるといいな」
「キミにはまだまだ迷惑をかけるだろうね」
「だろうな」
「安藤くん、ありがとう」
唐突に、真面目腐った顔でお礼を言われて、思わず目をそらしてしまった。
「なんだよ急に。別にお礼なんて……」
再び目を戻した時、彼女はもうどこにもいなくなっていた。
アグネスタキオンの幻影はそうやっていつの間にか姿を消してしまった。瞬きもしない間に。
それ以来、彼女は一度も再び姿を現さない。頭の怪我がようやく治ったのかもしれないし、或いは僕の目の前に姿を現す必要がなくなったからかもしれない。それとも今までの出来事はすべて僕の妄想だった、何てことも考えられる。
何でもいい。すべては終わったことなんだから。だが、あの時の強烈な体験は僕の中にこびりついてなかなか剥がれ落ちることはなかった。
「……あっ」
仕事帰りのことだ。
いつものようにコンビニを出て帰宅する道中で、僕は再びあの頭痛に襲われた。
「……」
目の前に、青白い光を放つ影が立っていた。
見知らぬ顔のウマ娘だった。
暗いアスファルトの上で、蠟燭の火のように揺らめいていた。
「……」
車が一台走り去った。プリウスだった。
「……」
二人とも、しばらく無言のままそうして突っ立って見つめ合っていた。
仕方がない。
僕は観念して、彼女に声をかける。
「俺は何をすればいい」
彼女はゆっくりと口を開いていった。
それから、そいつはいつかのアグネスタキオンの幻影と同じように、また妙な話を僕にし始めたのだった。