ひどい悪夢を見た。
そうはっきりと覚えているわけではないけれど、確かにあれは悪夢だった。病室で眠っている夢だ。いや、意識自体は覚醒しているのだが、体が金縛りにあったかのように動けなくなってしまう夢。どれだけもがいても決して浮上することはない、永遠に溺れ続けているような苦しみを味わった。そして激痛。頭と、それから左脚がジクジクと痛んだ。この前負った怪我がまだ治っていない。
……いやおかしい。頭を必死に動かして足を見ると、左足に硬いギブスが付けられていた。僕の入院した時にはこんなものをつけてはいなかったし、そもそも足を怪我した覚えはない。
「これは……誰の夢だ?」
異様に広い病室の中、虚しく声が反響する。
体を起こした拍子に、目の前にはらりと長い髪がこぼれ落ちた。
明るい栗毛だった。
目が覚めると、目の前にマグカップが置かれていた。体を起こす。どうやら既に見慣れた職場のデスクに突っ伏して寝ていたようだった。仕事の途中で眠ってしまったらしい。寝違えたのか枕にしていた腕と頬と首が酷く痛む。あとお尻も。
しばらく伸びをして凝り固まった体のあちこちを伸ばす。それからようやくスマホに溜まったメッセージに気がついた。
先日知り合ったURA周りの記者、松尾さんからだった。どうやら頼んでいた依頼について何か進展があったらしい。
サイレンススズカの件ではない。先日晴れて担当となったタキオンの怪我に関して何かできることがないか色々探ってもらっていたのだ。彼は人脈が広い。僕の持ち得ないコネクションからタキオンの治療方法を見つけてくれるかもしれない。そう考えて相談していたのだ。
以前に交換していた連絡先から、松尾さんに電話をかけると、3コールもしない内に繋がった。
『今晩は。仕事中でしたか?』
「あ、ああ。ところで……例の件だけど」
『はい、見つかりましたよ。面白い人物を一人』
「面白い?」
液晶越しに松尾さんのくぐもった笑い声が聞こえてくる。
『はい、比嘉さんっていう中年の男性の方なんですけどね。何人ものウマ娘の怪我をツボ押しで治してるプロフェッショナルです。ですが正規で治療を請け負っているわけではありません。元々ウマ娘である自分の妻の持病を治すために独学で学んだらしくて。そのためかあまり積極的に施術しないんですよ。かなり気難しい人で機嫌を損ねると忽ち追い返されるらしいです』
「おいおいおい大丈夫かよそれ」
『腕は確かです』
そんなブラックジャックみたいな人物に頼って本当にいいのだろうか。
「治療費をぼったくられたりしないのか?」
『いえ、商売でやってるわけじゃないからって、施術にお金は取らないらしいです』
「金を取らない?」
むしろ不安なんだけど、それ。
『だからお金に関しては問題ありません。ただ……』
「ただ?」
『あ、ところで安藤さん。美味しいケーキ屋さんってどこかご存知ですかね』
……ケーキ?
○
松尾さんに教えられた住所に、アグネスタキオンを連れて向かった。事前に話には聞いていたが、到着した住所に立っていた家はどこからどう見ても普通の一軒家だった。大体30〜40坪ほどだろうか。特にこれといった特徴もない、強いていうならば瓦の敷き詰めらた屋根に若干の古さを感じると言ったくらいだ。
「比嘉」と書かれた表札をしっかりと確認してからインターホンを鳴らすと、かなり間を置いてからドアが徐に開き、隙間から頭髪がかなり薄くなっている小太りの中年の親父が顔を覗かせた。
「あんたら誰?」
開口一番に男は不機嫌さを隠そうともしなかった。
「今晩は比嘉さん、安藤です」
「いや、誰」
みるみる仏頂面に変わる比嘉さんと思われる男。構わず後ろに控えていたタキオンを紹介する。
「この娘の怪我を治してもらいたいんです」
「あのねぇ。うちは医者でも何でもないんだぞ、アポもなしに急に押しかけられて治せだの言われてもねぇ」
それはそうだ。僕もそう思い事前に連絡させてもらおうと思っていた。だが松尾さんに止められたのだ。どうやら電話でのアポは悪手でそれをすると機嫌を損ねて、以降は絶対に取り合ってもらえないのだとか。
「今日はもう遅いし、帰んな」
比嘉さんはそう言って手で追い払う仕草をした後、ドアを閉じようとした。そこで僕は満を辞して事前に買っておいたものを比嘉さんの目の前に突きつける。
「ホールケーキ持ってきました」
手に持って入るだけでも負荷のかかるほど大きなホールケーキの箱。それを目前に比嘉さんの目つきが一気に軟化して行くのがわかった。
「よし、入り給え」
「ありがとうございます」
先ほどとは一転してニコニコと家の中へ手招きしてくる比嘉さんに若干引きつつもタキオンとともに中へ入る。
どうやら松尾さんの言っていた通り本当に甘味に目がないらしい。
今どき見ない応接室らしき部屋に招かれた後、早速と言わんばかりにテーブル一杯に広げられたホールケーキをペロリと半分平らげてから、比嘉さんはようやく本題に移った。こちらに一切断りを入れることなく、すぐにタキオンの左足を診察し始める。
「なるほど屈腱炎ね」
まだどちらの足を怪我したかも言わないうちに比嘉さんは左足をまじまじと見つめると、続いて触診に取り掛かる。ジャージ姿で来ていたタキオンは何も言わずジャージの裾を捲って生足を晒し、比嘉さんは無遠慮に指先でそれに触った。トレーナーの僕では絶対にできない芸当だ。コンプライアンスを考えると。いやそもそも別に積極的に触りたいなどとも微塵も思ってないが。
「そんなに酷くはないなぁ。命に関わる怪我でもないし、この程度なら日常生活に支障なし。治す必要ないんじゃない?」
「いえ、治してもらいたいです。彼女は選手としての再起を望んでます」
「レースか?あんなくだらん物さっさと止めればいいのに」
くだらない。その言葉に思わず唸った。どうやら彼は思ったことは何でも口にし、しかも歯に衣着せるつもりも全くないらしい。何となくそういう性格だということは分かってはいたけども。
「まあ、気持ちはわからなくもないけどね」
ここまで始終無言だったタキオンが比嘉さんに同意するかのようにそう呟いた。おいおい。
「でもレースもくだらないばかりじゃないさ。それに、他にも色々興味深いことがあるからね」
タキオンがニヤニヤとした笑みを浮かべながら横目でこちらを見遣った。僕はなるべく目線を合わせないようにしつつ比嘉さんに問いかける。
「どうですかね、怪我の調子は」
「ん?ああ……怪我自体は順調に治っているよ。でもこの娘かなり虚弱だね。このまま高負荷のレースで走り続けるのは難しいんじゃないかね」
「診ただけでそんなことまでわかるのかい?こっちも興味深いね」
タキオンはそういうと顎に手を当てて考え込み、比嘉さんの診療をまじまじと観察し始める。
そんなことをしている間にも、比嘉さんの太い指はタキオンの足首の周りを少しだけ強く掴んだ。タキオンは少しだけ身をよじったものの、特に気に留めていないようだった。
「ん〜。あ、なるほどね」
それから比嘉さんは「ちょっと強めに触るね」と一言断ってから、タキオンの左足の付け根、股ぐらあたりをがっちり指圧した。ちょっとどころでない勢いにあらゆる面からの不安を若干感じるものの、何か物申したい衝動をグッと堪えてそれを見守った。
実際それは数秒ほどの出来事だった。拍子抜けとも言えるほどあっさり比嘉さんはタキオンの足から指を離すと「ちょっと休憩」と言いながら椅子にどっかりと座って、またケーキをバクバク食べ始めた。施術よりもケーキを食べている時間の方が圧倒的に長かった。というか休憩が早すぎる。
「あの、実はもう一人見て欲しい娘がいるかもしれないんです」
夜ももう遅いしケーキ食ってないで早く続き始めろよ、とは言えないので、代わりに頭の中で考えていたもう一つの話を始める。
「えぇ……、もう一人いるのぉ?」
案の定あからさまに顔を歪める比嘉さん。そう来るとは予想していた。
「実は追加でモンブランあります」
「で、どこにいるのその娘」
念のため買っておいた予備のモンブランを取り出してテーブルの上に置くと比嘉さんはころりと態度を変えてやる気全開。この中年、ちょろい。
「いや、今日は連れてきていないんです」
「じゃあ今度連れてきてね。あ、ケーキも持ってきて」
「その、実はまだ怪我をした、ってわけじゃなくて」
比嘉さんは予想通り首を斜めに傾げた。
「えーっと、そういう不安があるってこと?じゃあ予防しようか。専用の蹄鉄を使えばサポーターみたいに足にかかる負担を減らせるし、走り方を矯正することも可能だよ。屈腱炎の治療にも効果的だからこの娘にもいくつか見繕ってあげようか」
「それは、是非ともお願いします」
専用の蹄鉄か……。この時期に履きなれたシューズを変えるのは現実的じゃない、か。いやそれ以前の問題だけども。
「どちらにしても一度見ないことには何とも。ま、今度連れて来ればいいから」
「あ、はい」
ホールケーキとモンブランを丸々一人で食べてしまった比嘉さんは、今度はテーブルに置いてあったポッドからマグカップにコーヒーを注ぎ、それから信じられないほどの量の砂糖をテーブルに置いてあった砂糖入れから取り出してマグカップに入れ始める。おいおいこんもりと砂糖の山ができてるよ……。見ているだけでも胸焼けがしそうだ。
「ところでそろそろ治療を再開してもらいたいね」
胸に手を当てて胸焼けを追い払っているところ、散々僕が気を遣っていたのを全く意に介さないタキオンが口を尖らせながら比嘉さんにぼやいた。お前のそういうところ、ちょっと羨ましいよ。
「ん?ああ」
比嘉さんは椅子に座ったまま、コーヒーというかほぼ砂糖の入ったマグカップを悠長に啜り始めた。
「ちょっと立ってみ?お嬢ちゃん」
タキオンは怪訝な表情ながらも言われるままに立ち上がった。それから顔を硬らせた。まるで驚きを隠せないといった風に。
「どうした?」
「腫れと痛みを全く感じない……」
タキオンの声色に感嘆が滲み出ていた。どうやら珍しく素直に感動しているらしい。
「治ったかもしれない」
○
そんなすぐに治るわけがない、月に一度か二度診せにきてくれと比嘉さんはそう言って僕達を見送った。完治には長い時間、半年以上はかかるね、とのこと。それでも僕やタキオンからしてみれば十分短いと感じる期間だった。比嘉さんから他にも色々レクチャーを受けたのち、僕たちは帰路についた。
「本当に凄腕なのな。……屈腱炎って、あんなんで治療できる怪我だったかな」
タキオンを寮までしっかり送ったその帰り道。
人気のない暗い夜道の中、降りるのも億劫な長い階段を降りる最中のことだった。
背後から歌が聞こえてきた。
「……」
驚くほど上手い訳じゃない。だけどその透き通った歌声にはどこか惹きつけられるものがあった。
この歌、どこかで聞いたことがある。
「それ、タキオンも歌ってたな」
あいつが歌うのが物珍しくて聞き入っていた記憶の断片を掘り起こしながら、僕は階段を少しずつ降りてくるサイレンススズカの幻影に語りかける。彼女はピタリと歌うのをやめた。
「歌うのが好きなのか?」
「いえ、別に」
僕が階段のど真ん中に腰を降ろして座りこむと、幻影はその斜め後ろに静かに立った。強い視線がこちらに向けられているのが背中越しによく伝わってきた。
「安藤さんは、私を助けるつもりがないんですね」
「……そんなことはないよ。ただ、俺が出走を止めるってのは現実的じゃない」
嫌味を言われるのは何となくわかっていた。だからこちらも物怖じせずに堂々と言い返す。そろそろ突発的に訪れる頭痛と幻覚にも慣れてきたところだ。
「私の所属するチームのトレーナーに行って聞かせればいいじゃないですか。私をレースに出さないようにって」
「あのな、俺は西崎さんとは全く親しくないし、仮に親しくったってそんな口出しできるわけがないだろ」
そりゃあ、僕だってサイレンススズカの事を助けたくない訳じゃない。むしろ人間だったらどんな奴だって、困っている人がいたら自分のできる範囲で助けてやれるなら助けてやりたいって思うのが普通だ。でもそれはたいていの場合は「できる範囲」でのみの話なんだ。捨身になってまで人助けがしたいなんていう、尊い自己犠牲の精神を持った人間はそういない。
仮に僕がサイレンススズカの故障の懸念についてスピカのトレーナーにそれとなく伝え、万が一スピカのトレーナーがそれを鵜呑みにしてサイレンススズカを説得し、彼女がそれに納得して秋天出走を取りやめる、何ていうミラクルが起こったとして、確実に遺恨が残る。少なくともスピカのトレーナーとサイレンススズカには間違いなく疑念を抱かれる。
で、実際の所こんなミラクルは起きないから現実はもっと面倒臭いことになること必至。スピカのトレーナーは僕の忠告を信じないし、サイレンススズカは絶対に秋天に出走しようとする。僕が暴れまくって無理やり出場を止めることはもしかしたら可能かもしれない。だけどそうなればまず間違いなくトレーナー解雇である。晴れて僕は無職になる。何かの間違いか賄賂かでクビを免れたとして、まともに職務復帰できるとは全く思えない。一生後ろ指を刺されて仕事なんかできるはずがない。
今ですらちょっと危ないというのに。
「流石にお前のために人生棒に振れないよ」
「……」
幻影は階段を降り始めた。電灯の強い灯りが階段の凹凸に影を落としより深い暗闇を作り出している。光に照らされているはずなのに、その暗闇のせいでかえって歩きづらい。幻影はその階段を悠々と降りていく。
「ちょっと待て」
そう声をかけると、幻影は足を止めた。何なら声をかける直前には既に足を止めていた気がする。
「出走を止めるってのは無理だ。だけど折衷案ならある」
「折衷案、ですか」
「お前が故障する場所は、コース上のどこだ」
「……四コーナー手前、大槻を超えたところです」
「そうか」
じゃあ、故障発生と同時に僕が駆けつけて体を支える、ってのは無理だな。
「……」
じゃあ、あれをやるしかないか。
タキオン以来一度も使わなかった裏技。